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それぞれの「この世界の片隅に」

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縁というものは繋がるもので昨日アップした四国テレビ徳島フォーカスの
動画に登場された広在住のKさんと縁あってお会いしました

大正15年生まれのKさんは戦中に大日本帝国呉海軍
広工廠設計部に所属されてたそうだ

僕の所有する従姉から託された写真や戦中の祖父の事が
或いは少しはわかるかも知れないと思ったのだが・・・


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結論から先に言うとKさんは祖父とは面識もなく
写真についても見当が付かないって事だった

Kさんの経歴を聞くと広工廠に従事したのは極短期間だったと言われてた

広工廠の設計部は当時、現王子製紙辺りにあったそうだが
ご本人的には案外暇だったようで性に合わなかったらしい


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そんな事でKさんは18歳だった1943年(昭和18年)4月に
海兵団に入団されたそうだ

こちらの写真は海兵団時代の物だと言われてましたね


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1943年(昭和18年)12月、海兵団を卒団されたKさんは軍艦に乗り台湾に出征
しかし台湾の港で敵機グラマンの編隊に機銃攻撃され日本の軍艦は全滅

しかしKさんが乗る艦だけグラマン編隊から死角になっていた為に奇跡的に沈没を免れた

「生き運があった、奇蹟だった・・・」

と、Kさんはおっしゃっておられた


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1945年(昭和20年)8月15日の終戦を20歳のKさんは台湾で迎えられたそうだ
ラジオでの玉音放送は台湾で聞かれたそうだが何かの間違いか誤報だと思われたそうだ

その後1年台湾に復員兵として従事し日本に帰還されたそうだ

日本に帰国して広に帰省された時に、あまりにも悲惨な光景を目の当たりにして愕然とし
帰って来なければよかった・・・ とも思われたそうだ

その話は太平洋戦争末期に集団疎開して終戦後に長浜に帰って来た母も同じ事を言っていた

奇しくも昭和20年5月5日には広空襲が決行され広工廠や広の町は壊滅し
多くの犠牲者が出たが台湾に居たKさんも、疎開してた母も空襲は免れた事は事実だ

しかし彼らも家族や親戚、仲間の安否は常に気になっていたと思う
あの時代は日本全国で、それぞれの「この世界の片隅に」があったという事だ

Kさんは以前は戦争を考え語るというサークルにも参加されてたそうだが
91歳にもなられると物忘れも激しく、戦争を語る同志もいなくなったそうだ

昨日も言ったが戦争経験者が少なくなったという事は生の声を聞けなくなったという事だ
今回も、こうして生の声が聞けたという事は貴重な体験だったと思う

こうした話を次世代に語り継ぐ事は大事な事だと改めて思いました
ジャンジャン!!


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