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ぴぃすぅあ

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11月23日月曜日
 
早朝にゴル子ちゃんの洗車を終えた僕は大明神様を伴って安佐北区に来ていた
 
当日は勤労感謝の日の祝日だったが週間天気予報や前日の天気予報では広島県は雨の予報だった
しかし朝起きてみたら空は晴れている
 
まあ天気予報が外れたと言っても雨が晴れになったのだから儲けたような物だ
サクサクと洗車を済ませた僕は事前予約していた安佐北区のお店に向かった
 
家を出たのが午前10時半、予約は正午
 
家から店まで1時間半くらいと予想していたが思ったより早く着いて到着したのが11時半
 
ちょっと待って僕達は店内に・・・
 
 
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そのお店は「ぴぃすぅあ」という名のタイ料理のお店だった
 
当日僕は安佐南区に行きたい所があったので近くで美味しいお店はないかと調べた
で、2013年に発行されたミシュランガイド広島に掲載されていた当店に予約を入れた
 
考えてみたら僕は本格的なタイ料理の店って行った記憶がない
只単に記憶に残っていないだけなのかも知れないが、とにかく記憶がない
だからタイ料理に関してはまったくの素人みたいなものだ
 
でもミシュランガイドに掲載されているくらいだから期待はできると思った
 
 
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で、店に予約の電話を入れたのだが電話に出た女性オーナーが言うには
現在”ぴぃすぅあ”は移転開業準備中で通常営業は中断してるって事だった
 
しかし電話予約のお客様は2名以上だったら予約を受けてくれると言う
 
更にはあらかじめ電話でオーダーメニューを決めて欲しいという事だったが
タイ料理に詳しくない僕は何が何だかわからない
 
で、オーナーにお勧めを聞くと何種類かの人気メニューを教えてくれた
 
 
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ミシュランガイドによると”ぴぃすぅあ”さんはチェンマイで修業した女性シェフが
姉と二人で営んでいる店と言う事だった
 
店のポリシーは美味しさはもちろんだが食べて健康になる事が大事と言う事だそうで
それはチェンマイで修業した時の師の教えでもあるそうだ
 
だから殆どの料理が手作りという事だそうだ
 
店に到着して店内に入ると壁一面にタイを思わす風景画が描かれている
BGMは低音量でタイの舞踏音楽らしき物が流れている
 
タイの民族衣装に身を包んだ女性が窓際の席に通してくれた
どうやら当日のお客様は僕達二人だけのようで広い店内は貸し切りだ
 
ちなみに店名の”ぴぃすぅあ”ってのはタイ語蝶々という意味だと店の人が言っていた
 
 
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最初に運ばれてきたのはタッパーの中に漬け込まれていたトマトだった
店の人の説明によるとタイの調味料に漬け込んだトマトと言う事だった
 
特別美味いって事もなければ不味いという訳でもない
写真では伝わりにくいと思うが何だか不思議な味がした
 
 
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前菜のサラダにもタイの調味料で作られた特製ドレッシングがかけられていた
 
とても酸味が強い感じだがこちらも可もなく不可もなくという感じだった
 
 
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僕が予約オーダーしていたのはタイカレーだった
 
色とりどりの野菜と鶏肉が黄緑色のカレースープに浮いている
 
 
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このカレーはゲーン・ギャオ・ワーンと言われるタイカレーの中で一番有名なグリーンカレーだそうだ
 
ハーブココナッツが入った独特の香りと辛さと甘さが混じった複雑な味でした
 
ま、そんな高級素材が入ってる訳でもないから豪華って感じでもなかったけど
辛さもほどほどで体に優しいって感じで美味かったですよ!
 
 
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大明神様はタイ料理では有名な世界3大スープと言われるトムヤムクン
タイ料理に疎い僕でも名前くらいは聞いた事ある料理です 笑!
 
タイ語でトムは煮る、ヤムは混ぜる、クンはエビという意味だそうです
 
僕も少し飲ませてもらいましたがタイ調味料の辛みとレモングラスの酸味が効いてました
エビはスキャンピーという種類のエビが使われているそうです
 
 
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トムヤムクンにはカオパットクンという名のご飯が付いています
カオパットクンってのは要はエビチャーハンみたいな物です
 
と、いう事ですがミシュランお勧めのタイ料理の感想は・・・
「う~ん 正直よく分からん・・・」
って感じがした 笑!
 
決して不味い事はないしそれなりに美味いとは思った
まあ店のポリシーにもあるように「食べて健康になる事」ってのはこう言う事だと思う
 
得てして超美味い!って物は体に悪いしカロリーも高く脂肪分も多い物だ 笑!
和食のように素材の繊細さを味わう物でもないし調味料も独特で豊富ですからね~
 
ま、来春には中区移転オープンするようだからオープンしたらまた行ってみようと思いますね!
 
 
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タイ料理に舌鼓を打った僕達は安佐北区に行くなら是非行ってみてと
ウチの長男に勧められたカフェ「DO!Reuri(ドゥレウリ)」にコーヒーブレイクに行きました
 
てか、店に着いて確信したのだが、この店は3年前に尾崎さんとバイクで訪れた店だ
 
しかし当時は店の名前はカフェ「Ciao!Ciao!(チャオチャオ)」だったはず・・・
可愛らしい女性店員とツーショットを撮ったからよく覚えてるのだが・・・
 
 
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店の内装もあの時のままだ・・・
 
「すみません、この店以前チャオチャオって名前じゃなかったです?」
 
「ハイ、そうなんですよ、ここは元々ドゥレウリだったんですが途中チャオチャオになって
また元のドゥレウリに戻ったんです、チャオチャオさんは移転して営業されてますよ・・・」
 
って事だった、まあそんな事はどうでもいいのだが・・・ 笑!
 
 
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と、いう事で僕はアイスコーヒーにキャラメルりんごのバターケーキ
大明神様はホットコーヒーに洋ナシの焼きタルトをいただきました
 
これは超美味かったですぞ!
そりゃそうでしょ?! 高カロリー高脂肪ですからね~ 笑!
 
この後僕達はに進路を向け目的地を目指します
今日はこれまで! ジャンジャン!!

広島を駆ける モーターサイクルレースの軌跡

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安佐北区のカフェ「DO!Reuri(ドゥレウリ)」を後にした僕達は
安佐動物園を右手に見ながら安佐南区にある広島県交通科学館に訪れました
 
 
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広島県交通科学館内にあるヌマジ交通ミュージアムでは現在、平成27年度秋季企画展として
「広島を駆ける モーターサイクルレースの軌跡」と題された展示イベントが開催されているんです
 
ここでは時々個人的に面白そうな展示イベントが開催されているんですが
通常ここは月曜日が休館日なんですよね~
 
しかし当日は月曜日でも祝日と言う事で休館日が振替になってた
と、いう事だったので雨の予報だった当日に訪れようと思っていたんですよね
 
 
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広島と言えばMAZDAと言う事で会館内にはマツダRXー8を改造した
水素自動車が展示されています
 
てか、3~4年前にここに長男と訪れた時にはノスタルジックカー企画と言う事で
1960年代~1970年代の国産4輪車の展示イベントをやっていた
 
その時はそこそこの台数の車が展示されていた記憶がある
さてさて、今回は2輪と言う事だがどんな車両が展示されているのか・・・
 
 
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入場料510円を払って展示会場の2階に上がる途中のエントランスには
YAMAHA XS650のレーサーが展示されていた
 
こりゃ期待出来るかな~!
 
 
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主に1960年代~1970年代にかけてのオフロードレーサーたち
 
ーん?よく見るとゼッケン「9」のカワサキ、どっかで見た事あるぞ・・・
 
な・何とウチのマッハの主治医の営むリプレイモトサービスの車両じゃないか! 笑!
 
 
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当時の広島のレース映像や写真パネル等の下にはベース車両も
何かよくわからないようなレーサーが展示されている
 
よ~く見るとクランクには「メグロ」の文字が・・・
 
 
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こちらはロードレーサー
 
ホンダCR系の神社仏閣やヤマハYDS1が展示されている
 
 
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こちらは1991年ファラオラリーで優勝したホンダCRM250R
 
 
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こちらは2012年スズキGSXR1000
 
この辺りの年式になると僕にはよく分からない 笑!
 
 
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・・・・・・・・・・・・・・・・・! 
 
「えっ、こんだけ~?!」 笑!
 
 
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大男にチビモトクロッサー・・・
 
ま、僕は普段1969年式のリジットモンキーA型に乗ってるから
自分的には違和感はないのだが・・・ 笑!
 
 
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「ウチにはバイクはよくわからんけどどうなん?」
 
「う~ん これならリプレイに行ったら同レベルに近い車両いつでも見れるで・・・」 爆!
 
と、いう事なのだがコアな車両の他にも展示物はありますし
好きな人には十分楽しめる展示イベントだと思います
 
ご興味のある方は11月29日(日)までやってますから是非急いで見に行って下さい
見逃した人は是非呉市吉浦のリプレイモトサービスまで足を運んでみて下さいね! 笑!
 
と、いう事で僕達は帰宅の途に就いたのでありました! ジャンジャン!!

THE DREAM NIGHT ”REMEMBER 昭和” デジブック (1)

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先月10月31日COOLSを招いて行われたロックンロールパーティー
Kure Old Mortors Presents THE DREAM NIGHT ”REMEMBER 昭和”
が終わって早約1ヵ月が過ぎた
 
クラブ執行部メンバーからの報告ではイベント後にいろんな所でいろんな人に
 
「よかった!」「楽しかった!」「久々に弾けた!」「懐かしかった!」
 
など沢山の称賛、感謝の声をいただいたそうだし僕もそんな声をよく耳にする
 
 
本当にありがたい事だ!
 
 
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と、いう事なんですがイベント当日は基本的に一般御来場者の
映像・写真の撮影、録音は禁止と言う事になっていた
 
それらはクールスサイドからの要望であったのですが
我々執行部に限り写真の撮影は許可をいただいていた
 
当日はクラブを代表してウチの長男が写真係を務めていたのだが
実はステージ上の写真においてはプロのカメラマンにもお願いしていたのだ
 
ウチの長男はカメラが趣味ではありますが所詮は素人であり自前のカメラも趣味レベルだ
照明が落とされた暗い会場で動きがある被写体を撮るというのはとても難しい事だ
 
実際に長男が撮った写真は暗い写真や手振れなどで
見るに堪えれない写真が少なからずあった 笑!
 
これは技術的な事もあるがカメラやレンズの性能が劣るという部分も大きい
 
クールスを招いてのパーティーなんてもしかしたら一生の内で最初で最後かもしれない
せっかくクールスサイドから写真撮影OKをいただいてるのだから失敗したくない
 
そんな思いからプロカメラマンに撮影をお願いしていたのだ
 
 
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と、いう事だったのですが先日プロカメラマンから当日の撮影データーをいただいた
 
それらの写真を執行部だけで楽しむというのは些か心苦しいという事で(笑)
クラブ広報の僕はデーターを元にデジブックを制作した
 
そこで今日は当日前座を務めてくれたロールオーバー & チャビーファンキース
明日はデビュー40周年だったクールス & コニーさんという事でお届けしたいと思います
 
例の如くデジブックはスマホやアイパッド、タブレットの類では再生する事が出来ない
しかもBGMもデジブックに指定されてる物の中からしか選ぶ事が出来ない・・・
 
と、今まで思っていたのですがBGMに関しては著作権の問題があり自由選択出来ないんですが
どうやらスマホやアイパッド、タブレットでもデジブックを見る事が出来るらしい
 
初めての事で本当に見れるかどうか確証がありませんがスマホ等の類でご覧の方は
以下のURLをクリックしてみて下さい
 
 
スマホ、アイパット、タブレットでご覧になった方、再生出来たらご報告いただければ幸いです
宜しくお願い致しますね! ジャンジャン!!
 
 
 
 


THE DREAM NIGHT ”REMEMBER 昭和” デジブック (2)

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呉オールドモータースミーティング5周年記念イベントという事で開催された
Kure Old Mortors Presents THE DREAM NIGHT ”REMEMBER 昭和”
 
イベントを主催した呉オールドモータースクラブのコンセプトは「昭和」
 
昭和を経験した僕達には昭和の時代も つい先日の事のようにも思えるが
昭和という時代が終わりを告げて早27年の歳月が過ぎ去った
 
しかし一口に「昭和」と言っても昭和は63年と1ヵ月という長い時代だったし
本当の意味で日本が近代国家へと成長した時代だから
昭和の初期と晩年ではまるで違う国ではないかと思うくらいの様相がある
 
という町は日本一の海軍工廠が置かれた町だ
だから戦前戦中はある意味賑わったが最終的には悲惨な末路を迎え終戦に至った
 
戦後の復興期から高度成長期において海軍に変わり ある意味呉の象徴になったのは
小説や映画でも描かれ全国的にも有名になった「呉ヤクザ」だろう
 
呉ヤクザ戦争は言い方を変えれば東亜戦争や海軍に端を発した産物とも言えなくはあるまい
 
 
 
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僕は戦後の生まれだから もちろんその時代の呉は知らない
 
僕が物心ついた頃には戦後の高度成長期も一段落し
子供時代だった1970年代学生闘争に追われた「シラケ時代」と言われた頃だ
 
ま、子供だった僕には世の中の世相なんてあまりわかってはいませんでしたがね 笑!
 
そして僕は1970年代半ばに思春期を迎え少しづつ世の中の世相が見えてくる
 
思春期になった僕が心を奪われたのはロックンロールバイクファッションだった
まあ敢えて言えばもう一つ「女性」ってのもありましたがね 笑!
 
その3つは僕にとって3種の神器となり今でもその根底の思いは変わらない
 
で、当時その3種の神器を強烈に感じさせてくれたのが今年デビュー40周年を迎え
THE DREAM NIGHT ”REMEMBER 昭和”に出演してくれたCOOLSだったのだ
 
 
 
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当時から僕は強烈に心を奪われた物に関して深く追求し熱くなる性格だった
 
そんな思春期に思い焦がれたCOOLSを38年後にKOMクラブの一員として
自らの手で呉に呼べるなんて夢にも思わなかった
 
そしてそのイベントは共に蒼い時代を過ごした仲間達との大同窓会になり伝説になった
 
しかし伝説という事は言い方を変えれば”過去”と言う事だ
 
THE DREAM NIGHT ”REMEMBER 昭和”も、もう過去の事になりましたが
あの日の事を生涯忘れないようにデジタルブックに保存しておこうと思う
 
と、いう事で今日は当日プロカメラマンが撮影したCOOLS & CONNYさんの
ステージでの写真をまとめたデジブックをご覧ください!
 
尚、昨日の記事での試みでスマホ、アイパッド、タブレットの類でも
デジブックを観覧できる事が判明した 笑!
 
スマホ、アイパッド、タブレットからご観覧される方は
以下のURLをクリックしてお楽しみくださいね! ジャンジャン!!
 
 
 
 
 
 
 

Valorのストーブ

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早い物で2015年も今日から12月という事でひと月するとお正月がやってくる
今年の秋の呉はいつまでも暖かい日が続いていたが先週の水曜日辺りから
急に寒くなっていよいよに突入したという感じになってきた
 
と、いう事なんですが今年の夏の終わり頃、我が家に大きな荷物が届いた
荷物は長男宛てだったが段ボールを開けると中にはストーブが・・・
 
「おいおい今時期にストーブか!ちょっと気が早いんじゃないんか?」
 
「いやいや季節物はシーズンに入ると値段が上がるけん買うならシーズンオフがええんよ!」
 
数年前から長男がヴィンテージストーブを欲しがっていた事は僕も知っていた
あれこれ相談されたりもしたが生憎さすがの僕もストーブについての知識なんてない 笑!
 
アラジン、パーフェクション、ニッセン等のヴィンテージストーブの候補を挙げて
値段と程度を見極めながらショップやオークションをチェックしていたようだが
ようやくお目に適うストーブが見つかったようだ
 
そのストーブが写真のイギリス製パーラーというストーブだった
 
 
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僕が子供だった昭和の40年代には余程経済的に恵まれた家ならいざ知らず
普通の家庭にエアコンなんて物はなかった
 
夏は扇風機、冬はストーブとコタツってのが当たり前の時代だった
 
余所の家はどうか知らないが、山下家ではストーブと言えば石油ストーブであり
現代のようなガスストーブなんて見た事もなかった 笑!
 
温暖化された現代と違って当時の冬は超寒かった
 
比較的温暖な呉でも冬になればが積もる日もあれば冬の朝は
水溜りにはが張り、家の軒下には氷柱(つらら)を見る事も珍しい事ではなかった
 
余談ではあるが僕がバイクに乗り始めたのは昭和54年だったが
そんな時代の冬でも革とは言えないような合皮のジャンパーを着て派手な色のマフラーを巻いて
染粉で染めた軍手やマスクに女性物のビーズの付いたサンダルを履いてバイクに乗っていた 笑!
 
今考えたらよくそんな恰好で真冬にバイクに乗っていた物だ 笑!
 
 
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現代では各学校も冷暖房完備というのも驚くような事もないのだろうが
昭和40年代のあの時代は教室で暖を取るのも石油ストーブだった
 
しかもそのストーブは往々にして先生の机と教壇の間に置かれていたので
席が教室の後ろの方だとさほど暖かさなんて感じなかった
 
だから僕は小中学生の頃はベンジンを使用する懐炉(カイロ)を携帯したものだ
現代では当たり前のような鉄粉の使い捨てカイロなんてもっと先の話だ
 
更にはストーブの灯油が切れそうになると不完全燃焼になって嫌な臭いがしたものだ
ま、その臭いもマッハの排気臭と同じで僕には昭和の香りに思えるのだが 笑!
 
 
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これが使用出来るか試しに火を点けられたパーラーのストーブだ
さすがに貴族の国、英国製だけあって品がある 笑!
 
灯油を入れてを出して火を点ける
 
長男はこの時生まれて初めてストーブに火を点けたらしいが
点灯はチャッカマン?で行ったようだ
 
おいおい!ここまで拘るのならストーブの着火はマッチだぞ! 
あのマッチの硫黄が燃える匂いも昭和なのだ
昭和のあの時代はパイプのマッチが定番でしたな~ 笑!
 
と、いう事なんですがこれから寒くなるとパーラーも活躍するでしょう
でも気を付けなければならないのは消し忘れの火事や一酸化中毒
 
更にはガレージにはガス系のケミカルが山ほどある
引火爆発にも気を付けないといけませんよね! ジャンジャン!!

忘年会始まった!

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11月29日日曜日
 
早い物で2015年も残す所ひと月を切りました
 
今年僕は52歳になりましたが入院や手術をするような大きな病気や怪我もなく家族も概ね健康で
両親とも健在ですし仕事も大きな波もなくプライベートもまあまあ充実した年でした
 
まあ人間って欲を言えばキリがない
 
せっかくこの世に生を受けたのだから欲を持って生きる事は悪い事じゃないし
ある意味欲を持つ事は生きるモチベーションにもなるから良い事とも言えるとも思いますが
人間って欲深い生き物だから欲が一つ満たされると、また次の欲が出てくる
 
その欲を一つ一つ満たすために頑張るって事は大事な事だけど
人の人生って思う程簡単に夢や目標が叶うほど甘くない
 
だからこうして健康で大きなトラブルもなく1年が終われた事に感謝ですよね~
 
 
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季節柄年末も近いという事で今年も忘年会シーズンがやってきました
 
と、いう事で個人的には今年の忘年会の始まりという事で
先日の日曜日に17歳の時に同級生たちを中心に結成された
アキースボーイズクラブの忘年会に参加してきました
 
 
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当日の参加者は同級生5人と一つ年下の後輩が一人
 
結成当時はもう一人同級生がいたのですが数年前に病気で一足先に逝ってしまった
 
それまで暫らくの間バラバラになってたメンバーでしたが彼が死んだ時を境に
またこうしてチームが復活して年に数回は集まるようになった
 
きっと奴がもう一度僕達を引き合わせてくれたんだと思います
 
 
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アキース忘年会は昨年と同じコースで”イフ”からの”はな
 
酒が飲めない唯一の後輩のアキースメカニック班長のグッチは
一次会の”イフ”で帰宅しましたが同級生5人はいつものコース”はな”へ・・・
 
 
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「あれからもう1年か~早いの~」 と、KEN
 
「じゃけどオマエら今年は変わった1年じゃったの~」 と、カツジ
 
「何が変わったんな?」 と、GANちゃん
 
「今年オマエらバイカーになったじゃないか!」
 
そうそう!今年はグッチから始まってGANちゃんもKENも大型二輪の免許を取ってバイクを買った
 
まだKENのバイクが仕上がってないから今年フルメンバーではバイクに乗れなかったけど
来シーズンにはKENのバイクも仕上がるだろうから来年のシーズンには
アキース結成以来初のフルメンバーでのツーリングも催されるだろう
 
若い時に皆で行った場所に全員でバイクに乗って訪ねてみようって計画もある
 
楽しみですな~!!
 
 
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てか、34年前に決めた”アキースボーイズクラブ”というチーム名
 
当時僕達は17歳だったからボーイズクラブってのは当然で良かったが
52歳にもなってボーイズクラブってのはいかがな物か? 
 
いつまでも少年の心を持ち青春してるって事でこのままで良いか・・・
それとも”アキースシニアクラブ”に改名するか? 笑!
 
ま、どうでも良いか~ 笑!
 
 
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アキース FOREVER! ジャンジャン!!

石の上にも3年・・・

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3日続けて同じような書き出しになりますが(笑)今年も残す所約1ヵ月
個人的にも今年のお休みの月曜日は残り4回と言う事だ
 
2015年初頭、僕は趣味に関して二つの目標を定めた
 
一つは趣味の一つであるフカセ釣りチヌ(黒鯛)の自己記録更新となる
50cmオーバーを釣り上げる事
 
もう一つはゴルフ80台のスコアを出す事
 
事、釣りの目標は自己記録更新と言う事だから初めての領域だし
釣りには釣れやすい時期もあるしシーズン中だからと言って毎週釣りに行く訳でもない
更には釣りは魚という相手がある事だから目標達成は容易ではないと思っていた
 
ゴルフの80台というスコアは過去何度か出しているし練習もある程度継続していたから
どちらかと言えばゴルフの方が達成できる可能性が高いと思ってた
 
明らかに釣りに行くよりゴルフに行く回数の方が多いとも思いましたしね
 
 
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しかし12月に入った時点で言うと結局ゴルフの80台は一度も出す事が出来ていない
よく覚えていないが今年のベストスコアは92~93くらいじゃなかったかな~
てか、3桁叩く事もよくあった事で練習の割にはスコアアップ出来なかった
 
実は僕は自己練習に限界を感じて夏前くらいから月に1~2回ほど
プロゴルファーにスイングチェックしてもらうようにしたんですよね
 
ゴルフを始めて約30年弱経ちますが今までずっと自己流でやってた
 
まあ途中釣りにハマったり息子の野球で正味ゴルフをやったのは10年そこそこですが
それでもここまで上達しないのはセンスの悪さもあるのでしょうが
結局の所理に適ったスイングが出来ていないという事だと思った
 
で、知り合いを通じてプロを紹介してもらったんですが
練習場では上達を感じても、いざコースに出ると上手くいかない
 
 
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実は記事には取り上げませんでしたがクールスを招いて行ったパーティーが終わって
僕は先日の月曜日を含め3回ラウンドをしている
 
しかしスコアの方は二桁でラウンド出来た日もありましたが
先日の忘年会翌日のラウンドはまたしても3桁打ってしまった 笑!
 
まあ毎度の事ですがスコアはOBの数でほぼ決まってしまう
OBが4本くらいまでだったら何とか二桁で上がれるけどそれ以上打つと3桁になる
 
ずっとそれの繰り返し・・・ホント自分でも嫌になりますぞ 笑!
 
 
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先日のラウンドでOBを連発する僕を見かねた美容の師匠の宮西先生から
目から鱗のような貴重なアドバイスをいただいた
 
アドバイスをいただいてから即実践すると見違えるようなボールが連発した
でも自分の中では違和感があるから違和感を取り除くためには球数を打って
その感覚を脳と体に覚え込ます事が必要だ
 
と、いう事でラウンドの帰りにちょっと練習場に寄って打ってみた
まあこういった繰り返しなんでしょうな~・・・
 
昔から「石の上にも3年」というくらいだから3年はかかると覚悟しています
ま、ゴルフ人生はまだ長いから3年で上達すれば上出来ですよ
 
てか、どちらかというと難しいと思った釣りの目標はあっけなく達成出来た 笑!
まあ得てして人生ってこんなもんなんでしょうな~ 笑! ジャンジャン!!

タイ古式

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ゴルフのラウンドの帰りに練習場に寄った僕は帰宅してマッサージに行きました
 
今秋は10月に入って呉オールドモータースミーティング2泊3日ツーリング
更にはロックンロールパーティー等の準備や本番に追われた
 
11月に入って3回もラウンドしたし紅葉を見に行ったりと慌ただしく遊び回り(笑)
忘年会からのゴルフと言う事もあり僕の体は悲鳴を上げる寸前だった
 
まあどこかが痛いという事はなかったのですが全身に疲れが溜まってる感がずっとあった
 
腰が痛いとか、肘が痛いなどという場合は行き付けの治療院があるのだが
とにかく今回は疲れを癒し心身ともにリラックスし、リフレッシュしたいという思いだった
 
で、今回僕がチョイスしたのがウチから歩いて2分の所にある
タイ古式マッサージ「Villa」というお店だった
 
 
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いや~ この店が出来たのは1年くらい前だったろうか・・・
えらい派手な看板のマッサージ屋が近所に出来たな~とは思ってたんですよね
 
しかし正直言ってそこまで気に留めるって感じでもなかった
 
で、先日大明神様とミシュランガイド掲載のタイ料理”ぴぃすぅあ”に行った時
ずっと疲れを感じてた僕は同じタイ繋がりで近所のこの店の事がフト脳裏に浮かんだ
 
ーそうじゃ!帰ったらあの店に行ってみよう・・・
 
って思って帰宅して店を訪ねたんですよね
何となくタイ古式ってのはリラックスも出来そうな感じがしたんですよ
 
 
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しかし何という事か、当日は予約がいっぱいで施術できないと断られた
 
ーん?タイ古式ってそんなに人気があるんか・・・
 
人って断られたら逆に気になるもんなんですよね 笑!
 
で、疲れを感じながら忘年会~ゴルフと続く月曜日には疲れもピークになるだろうと予想した僕は
今度は断られないようにと土曜日に月曜6時と予約を入れていたんですよね
 
 
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店内は薄暗くタイを思わすような凝った内装になってます
 
店内に入るとタイの整体師みたいな恰好の日本人の若い女性が現われ
彼女に促され待合ソファーに座ってカルテを記入しカウンセリングを受けメニューを決めます
 
痛いヶ所がある訳ではないがとにかく全身が疲れて背中や腰、足に張りを感じるという諸を伝える
 
で、話し合った結果60分コースの「揉みほぐし&タイ古式ストレッチ」のコースプラス
10分のヘッドマッサージを受ける事にしました
 
 
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と、いう事なんですが僕の施術中の写真はありません 笑!
 
写真はお店のHPからの抜粋ですがこんな感じの施術を受けました
 
いや~ 結論から言うととっても良かった!
 
何が良かったかって言うと先ずは若い女性に・・・ ってそれは半分冗談ですが(笑)
先ずは「揉みほぐし」は想像の範囲内でしたが「ストレッチマッサージ」が効いた
 
更には薄暗い個室で行われるのでリラックス効果が抜群だった
店内のBGMもタイの民族音楽が心地よく流れてる
 
僕の行き付けの治療院は無機質な空間でオッサンに痛いくらいの治療を受ける
まあ治療院は痛い所が直れば良いという感じだから雰囲気もリラックス効果も必要ない 笑!
 
しかしここヴィラリラクゼーションと言うだけあって心身ともに癒される感じだった
僕に触れる彼女の手の平の体温の高さが心地よく印象に残りましたね~
 
「痛い!」じゃなく「疲れた!」って時はベストじゃないかとも思いました
疲れた時にはまた行こうと思った僕でした! 笑! ジャンジャン!!

呉オールドモータースミーティングの収益寄付とお礼

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呉オールドモータースミーティングにご来場下さった皆様へのご報告が遅くなり
大変ご心配やご迷惑をおかけしましたが皆様からお預かりしていた義援金を
先日寄付させていただきました事をご報告させていただきます!
 
 
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12月1日火曜日
 
ここは呉市役所3階フロアにある呉市議会議事堂
 
いや~ 末端市民の僕は平素こんな場所に足を踏み入れる事もないですぞ 笑!
 
 
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呉市議会議事堂に入った僕達クラブ執行部は呉オールドモータースミーティングにおける
クラブの趣旨にご賛同下さりミーティング会場の斡旋にも多大なご協力を下さった
現呉市議会議長石崎元成先生の議長室に丁重に通されます
 
いや~ 10代の頃補導されて少年課の取調室に通されるくらいの緊張感がありますぞ 笑!
 
 
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石崎先生は僕達のクラブやイベントの趣旨を凄く評価して下さり
僕達の言う事にも真剣に耳を傾けて下さいます
 
逆に呉市に対しての意見や要望も話して欲しいとおっしゃっても下さいます
 
 
ゲリラ的な井戸端ミーティングに端を発した呉オールドモータースミーティングも
皆様のご協力もあり今では呉市行政後援いただけるレベルのイベントになりました
 
イベントの収益に伴う義援金寄付の実績も、もちろん評価の対象にはなってるでしょうが
実際に先生や行政の方もイベントにご参加下さりイベントの雰囲気を高評価して下さっている
 
呉オールドモータースミーティングにおける会場の雰囲気は
僕達執行部だけではなくご参加下さる皆様と共に創る空間です
 
今後益々、呉市の活性化を大義名分にイベント自体も皆様に親しまれ発展できるよう
僕達執行部も頑張りますからご協力の程宜しくお願い致します!
 
 
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義援金はクラブ内の事情があり昨年の第4回と合わせて五拾萬円とさせていただきました
 
 
昨年はクラブ内に諸々な事情があり寄付が遅れてしまったんですよね
で、石崎先生とも相談して寄付は昨年と今年の収益を合わせてと言う事にしたんです
 
クラブ発足初年度は利益が出なかったから僕達執行部が身銭を切って
当時起こった東北大震災5万円の寄付をさせて頂いた
 
阿賀マリノに会場が移った2年目は20万円、3年目は30万円の寄付を
呉市仁方町にある呉同済義会仁風園の恵まれない子供達へと寄付させて頂いた
 
今回の4・5回の寄付は現在市議長預かりと言う事で今の所寄付先は決定には至っていない
 
クラブからの要望は呉市の子供達や交通関係に役立てて欲しいとお願いしていますが
今後もお世話になるであろう石崎先生に然るべき寄付先を検討して頂いております
 
年度変わり頃が目途になるとは思いますが然るべき場所・施設が決まり次第、寄付を実行し
その諸をまた皆様にご報告させていただく所存でございます
 
 
と、いう事でクラブ発足から5年5回のイベント開催で呉オールドモータースクラブ
合計壱百五萬円の寄付をさせていただいたという事になりますね
 
 
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決して偉そうな事を言うつもりは毛頭ありませんが
10代の頃ヤンチャして沢山の人に迷惑をかけてきた僕達も
大人になりこうして少しは人の役に立てる人間になった
 
こんな僕達でもやろうと思えば出来るって事は証明できた
まあ自分達が好きな事で楽しもうってのは大前提なんですけどね 笑!
 
今後は更に内容を充実させ継続していく事が最大の課題と言う事になるでしょう
 
その為には呉市行政のご理解・ご協力も必要ですが呉オールドモータースミーティングや
クラブを支持して下さりイベントに参加下さる皆様のご協力も必要不可欠です
 
呉市役所の新庁舎も今月末には竣工が予定され来年にはオープンするそうです
 
呉で生まれ育った僕達は呉の繁栄を心から願っている
その為に微力ながら僕達クラブも協力したいと思います
 
今後とも呉オールドモータースクラブ及び呉オールドモータースミーティング
宜しくお願い致します! ジャンジャン!!

ファラオコート

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                             (映画 アメリカングラフティーより)
 
 
昭和38年生まれの僕の同世代辺りの元ヤンチャな人はよく御存じだと思うが
1970年代の終わり頃から1980年代にかけて流行ったファッションにファラオコートがある
 
僕はマニアではないから確証はないがファラオコートが一般的に知られるようになったのは
1974年に日本で公開されたアメリカ映画「アメリカン・グラフティー」の劇中で不良少年たちで形成されてる
カークラブ「ファラオ団」↑が着ていた事に端を発してるんじゃなかろうか?
 
ファラオ団が着ていたコートだからファラオコート・・・
 
しかしこのデザインのコートは本国アメリカではファラオコートとは言わない
僕の知識では確かカーコートとかカークラブコートと呼ばれてると記憶している
 
 
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先日本屋で立ち読みしてたら個人的にちょっと興味がある記事が目に付いた
その雑誌は「mono」というモノ・マガジンの12-16号」だった
 
僕がリスペクトしてる元COOLSピッピさん事、水口晴幸さんがコレッツオーネ・ジャポーネSPAの
藤上英樹氏に製作を依頼し、トイズ・マッコイの岡本博氏が生産を担当した
ファラオコートが発売になったという記事が載っていた
 
あれこれ拘って作ってあるそうで通販のみの販売でお値段何と21万4920円! 笑!
てか、製作がトイズ・マッコイならそれ位はするのは致し方ないとは思いますがね~
 
 
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先日記事にした「水口晴幸 語る!」の中で最近ピッピさんがご自身のブログで
1979年にピッピさんがクールスを退団した経緯を語った文をご紹介した
 
その中でピッピさんは秀光さんが洋服屋「CHOPPER」を始める時
クールス結成以前勤めてた六本木のPANT'S SHOPで作ったファラオコート
で作ってメンバー全員で着て、それを売りだしたら売れに売れたと書かれてた
 
で、今回のmonoの記事ではその時このコートの名称が不明だったから
ピッピさんがファラオコートと呼んだ事が全国的に定着したって書いてある
 
ちょっと洋服に詳しい人は御存じだと思いますが現在のファッションで当たり前のように使われる
「Tシャツ」「トレーナー」「スイングトップ」「スタジアムジャンパー」「ランチコート」・・・・
それらの言葉は全て造語であり、これらのネーミングを考案したのはの創設者の石津謙介氏
 
いや~ ファラオコートって名称はピッピさんが生みの親だったのか、知らなかったな~! 笑!
 
 
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これが1977年にトリオレコードに移籍してCOOLS ROCKABILLY CLUBになった頃の写真だが
この写真で秀光さん、ジェームスさん、フランクさんが着ているのがチョッパーのファラオ
 
この革のファラオ、当時売れに売れたとピッピさんは言われてますが
ハイ!そのチョッパーのファラオを買った中には僕も含まれていたんですよね! 笑!
 
 
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僕の記憶では僕が初めてファラオを買ったのは1979年、高1の秋頃だったと記憶しています
先日記事にした「真っ赤なブレザー」と同時期だったという事ですね
 
で、これは余談ですが、当時呉ではなぜか「ファラオ」の事を「パラオ」って言っていた
 
いったい誰が言い出したのかはわからないが僕の憶測では誰かが
ファラオをパラオと聞き間違えて言ったのが広まったんじゃなかろうか・・・? 笑!
 
 
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これも確か高1か高2(実際には中退してた)の秋だと思いますが
上の写真のロング丈の赤とショート丈のライトグレーを愛用してた
 
上の写真の靴は女性物のビーズのサンダルで思いっきりヤンキーですが(笑)
この時履いているのはリーガルの革のスニーカーですぞ
 
踵を踏んで履いているのは残念ですが、この辺りに僕の当時の価値観が伺える
ヤンキー路線とお洒落路線のどっちも有り・・・てか、ごちゃ混ぜって感じだったですね 笑!
 
 
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確かこれも高1の冬だろうと思うのですが当時呉で超流行ってたジャージ姿ですが
僕の愛用品はピンクのグラデーションラインのミズノスーパースター 笑!
 
てか、そんな事はどうでもいいんですが僕の後ろにかかってるのが
この後「日章旗」の刺繍を入れる事になる濃紺の特攻服(笑)と
当時チョッパーで特注で作ったロング丈の革のファラオコートです
 
人と同じが嫌だった僕は大人っぽいんじゃなかろうかとチョッパーに交渉して
特注でロング丈を作ったのですが品物が届いて僕はある失敗に気付く
 
その失敗とは・・・
 
 
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まあ今思えばロング丈のファラオコートなんてダサい以外の何物でもないが(笑)
革のロング丈のファラオコートって とにかく「重い」んですよ! 爆!
 
確か当時カツジが「オイ!お前のパラオって牛一頭使うとるんか~?」って揶揄ってた 笑!
 
しかもリベットボタンを一番下まで留めると股が開かずバイクに乗れない 笑!
と、いう事で結局ロング丈をカットして通常の長さに戻しました
 
この写真はミヤニシに就職した年だから1982年
靴はペパーミントのコンビのラバーソールですな~
 
で、この後このファラオコートは後輩にねだられて譲ったんですが
今思えば譲らず持っとけばよかったな~・・・
 
 
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で、現在・・・
 
いや~ 先日の真っ赤なブレザー同様ここでも三つ子の魂百までと言う事で
今でも僕は革のファラオを愛用しています
 
まあ、このファラオはチョッパー製じゃなく、アメリカ「Shott USA」製なんですがね
 
う~ん ピッピさんプロデュースのマッコイのファラオも良いな~~
でも20万円はちょっとしんどいね~ 笑! ジャンジャン!!

男として、父親として・・・

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ちょうど一週間前の先週の火曜日の事
大学生活6年半という長かった北九州での一人暮らしを終えた次男がようやく家に帰ってきた
 
と、いう事で山下家は久しぶりの家族団らんで
家族5人揃っての生活が復活した
 
思い返せば長男が広陵高校に入学し野球部の寮で寮生活をするために家を出たのが
2004年(平成16年)であり、その時万凛ちゃんは3歳になったばかりの時だった
 
2007年(平成19年)彼は大学に入学し野球部に入部したが春のリーグ戦が終わった後
彼には新しい夢が出来、更には持病になってた腰の椎間板ヘルニアの事もあり
秋には現役を退き家に帰ってきた
 
その時次男は高校野球部の2年生であり万凛ちゃんは小学校の1年生だった
 
それから約1年半は家族5人揃って生活したが今度は高校を卒業した次男が
北九州の大学に野球留学する事になり2009年(平成21年)万凛ちゃんが
小学校3年生の時に北九州に行き現在に至った
 
自分の若かりし日の事は棚に上げて(笑)僕は二人の息子達に厳しかった
 
その厳しさの中には親のエゴも含まれていた事は多少なりともあっただろうが
僕は本気でまだ幼かった彼らと向き合い自分の背中も見せてきた
 
良かったか、悪かったかの是非はさて置き、その結果が”今”なのだ!
 
先日大人になった息子たちと初めて3人で酒を酌み交わした
大層な話こそしなかったが男として、父親として僕は感無量だった
 
彼らの世代の友人達はすでに結婚し家庭を持ってる奴らも多い
そういう面からしたら彼らはまだ本当の一人前ではないが、な~に、人生そんなに焦る事もない
しかしそんなに悠長な事を言ってる年齢でもない事も確かだ 笑!
 
今の僕が彼らにしてやれる事は経済的援助なんかじゃなく男として、父親として
更には人生の先輩としてのアドバイスと見守る事だろうと思う
 
家族5人での生活がいつまで続くのかは僕にもよくわからない
長くあってほしいとも思うが長すぎても駄目だとも思う
 
まあ今後も折を見て男同士で酒を酌み交わし
このチョイ悪オヤジの戯言を聞かせてやろうと思う! 笑! ジャンジャン!! 
 
 
 
 
 
野風増/川島英五 1984 作詞・ 伊奈二朗  作曲・山本寛之
 
 
お前が 二十歳になったら 酒場で二人で 飲みたいものだ
ぶっかき氷に 焼酎入れて つまみはスルメか エイのひれ
 
お前が 二十歳になったら 想い出話で 飲みたいものだ
したたか飲んで ダミ声上げて お前の二十歳を 祝うのさ
 
いいか 男は生意気ぐらいが丁度いい
いいか 男は大きな夢を持て
野風増(のふうぞ) 野風増 男は夢を持て
 
お前が 二十歳になったら 女の話で 飲みたいものだ
惚れて振られた 昔のことを 思い出しては にが笑い
 
お前が 二十歳になったら 男の遊びで 飲みたいものだ
はしごはしごで 明日(あした)を忘れ お前の二十歳を 祝うのさ
 
いいか 男は生意気ぐらいが丁度いい 
いいか 男は大きな夢を持て
野風増 野風増 男は夢を持て
 
お前が 二十歳になったら 旅に出るのも いいじゃないか
旅立つ朝は 冷酒干して お前の門出を 祝うのさ
 
いいか 男は生意気ぐらいが丁度いい
いいか 男は大きな夢を持て
 
野風増 野風増 男は夢を持て
野風増 野風増 男は夢を持て

生ある者の宿命とはいえ・・・

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先日の日曜の夜、僕がかつて勤めてたミヤニシ時代の尊敬する先輩であり
今でも何かとお世話になってる美容室SNOBオーナーの城戸君から電話があった
彼からの着信を見て僕はてっきりゴルフのお誘いかと思ったのだが・・・
 
「オイ!○○さんが今日亡くなったらしいど、で、明日が通夜らしいんじゃが・・・」
 
○○さんと言うのはミヤニシ在籍時の城戸先輩の同級生であり
僕にとっては当時の先輩女性美容師さんだった人だ
 
彼女がを患い数年前から闘病してるって話は僕も聞いて知っていた
つい先週の事、あまり容態が芳しくないって聞いたばかりだったのだが・・・
 
と、いう事で城戸先輩のポルシェに乗せてもらい僕達はお悔みに行ってきました
 
 
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昨年もちょうどこの時期に城戸君と僕の共通の友人の奥様であり
僕の美容学校の同期だった女性が亡くなり僕達は通夜に同席した
 
その彼女も今回の彼女も生きていれば現在55歳という若さだ
 
彼女達と共に過ごした時間は人生の内のほんの僅かな時間だったかもしれないが
生ある者の宿命とは言え、これまでの人生で縁があった人達が
若くしてこの世を去る現実に僕は残酷さを感じるしとても残念に思う
 
今でも目を閉じると彼女達の笑顔が目に浮かぶ
その笑顔はまだ大人になったばかりの大輪の花のように美しかった当時の笑顔だ
 
改めてここに哀悼の意を表しお悔やみ申し上げたいと思います、合掌・・・
 
 
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と、いう事なんですが実は今年秋には僕やアキースボーイズクラブの仲間が若い頃に影響を受け
当時呉のモーターシーンを一世風靡した元カーショップ ジャクソンのオーナーだったM氏も他界された
 
正確な年齢は僕にはわからないが享年63歳~64歳だったという事だ
 
彼の死をすでに御存じだった方もいらっしゃるとは思いますが
僕も彼の死を知って彼に所縁のあった人へご報告の意味を込めて
記事にしようかとも思ったのですが思う所もあり自粛していたんです
 
しかし先月、呉オールドモータースクラブ執行部員が四国のイベントに参加した時に
四国でもすでにM氏の死は広く知られていたという報告もあり
四十九日も過ぎたという事でこの場を借りてご報告しようと思ったんです
 
1960年代から1970年代にかけて社会現象にもなったアイビーファッションの老舗ブランドにおいて
当時で働いていた人やN&石津謙介氏に所縁のあった人、影響を受けた人達は
「VANは学校だった、石津謙介氏は先生だった」と口にされ今でもリスペクトされている
 
それと同様に まだ暴走族が抜け切れない当時の僕達にとってジャクソンは
事、乗り物において何が本物のカッコ良さかを学んだ学校だった
 
M氏はまさに先生であり、ジャクソンに集う先輩達からもボロカス言われながらも沢山の事を学んだ
 
過去のカーショップ ジャクソンの記事
 
M氏はある意味波乱万丈の人生だったとも言えると思うが僕は彼と3~4年前に再会して
年に数回は昔話に花を咲かせたり近況報告をしたり世間話をしたりしてた
 
M氏にも改めてお悔やみ申し上げたいし「ありがとう!」と言いたい
 
M氏と所縁のあった方でこの記事を読まれた方は酒の席でもいい
彼の事を酒の肴にして是非思い出話に花を咲かせてほしい
そうする事がきっと彼への供養になると思います
 
 
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僕達の先生だったジャクソンのM氏だが元マツダのワークスレーサーだった
増田建基さんにはさすがに頭が上がらなかった 笑!
 
もちろん年齢的な事もあるが彼はマツダチームの一員としてサバンナRX3を駆って
当時破竹の連勝を続けていたスカイラインGT-Rの50連勝を阻止した男だ
 
増田建基さんの過去の記事
 
 
 
そんな彼も2011年に享年63歳くらいで他界した
 
僕は縁あって増田氏とも懇意にさせて頂いていた事もあり
彼が他界する寸前まで入院先の病院に足を運んだ
 
あれからもう4年も経つんですな~・・・
 
と、いう事ですが この歳にもなると年に数名は僕の人生において縁があった人の訃報を耳にする
昭和という時代を彩ったスターたちの訃報を聞く事も多くなった
 
それだけ時が経過したという事でもあるのだが若くしてお亡くなりになる方は残念で仕方ない
生ある者の宿命とはいえ・・・ と、思うのだ
 
しかし僕も人の事ばかりも言ってられない年齢だという事も言える
僕は悟りなんて開けるような人格者ではありませんが天命を全うし
少しでも悔いのない人生を送りたいと思う今日この頃です! ジャンジャン!!

久し振りの”波輝カフェ”

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12月7日月曜日 天気 晴れ
 
昨日記事に書いたように当日午前中、僕は城戸先輩と共に元同僚のお悔みの挨拶に行った
 
通夜は本来夜に行われるのだが城戸君が午後からどうしても抜けれない用事があるので
通夜に出れないという事で失礼ながら二人で午前中に故人の本宅の方に行かせてもらったんですよね
故人の喪主のお父上は僕と城戸君にとって元師匠と言う事で快く招き入れて下さったという事です
 
と、いう事なんですがお悔みから帰った僕は息子を伴いバイクに乗って
久し振りに川尻七浦海水浴場にある波輝カフェにランチに行きました
 
 
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波輝カフェの”田舎ランチ”の魅力の一つは注文されてから窯で炊き上げる
五穀米の炊き立てご飯に敷地内で飼ってる烏骨鶏の取れたてのを使った卵ご飯
 
 
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その取れたて卵をご飯に入れて醤油をかけて箸でかき混ぜます
 
 
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その上から削り立ての鰹節をかけると卵ご飯の出来上がり
 
 
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”田舎ランチ”のもう一つの魅力は地元で採れた海産物や農産物を使ったおかず
当日は七浦浜で獲れたキスと 地元野菜の天ぷらでした
 
これが不味い訳はない! 笑! 美味しくいただきました!
 
しかし何より波輝カフェの最大の御馳走って言えば海が見える このロケーション
今年はなぜかシーズンの夏に波輝カフェに訪れる機会がなかった
 
で、現在季節は暦の上では冬と言う事なんですが、子供の頃から海で育った僕が見て
まだ何となく冬の海って色ではなかったですな~
 
と、ここまでは以前何度か取り上げた波輝カフェのいつものランチ風景なんですが
実はこの日は「人生初の・・・」って事があったんですよ
 
何が人生初かって? それは・・・
 
 
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バイクに乗って当日一緒に波輝カフェに訪れたのは、いつもの長男ではなく
先日6年半ぶりに家に帰ってきた次男とだったんです
 
一人暮らししてた北九州で中型二輪、大型二輪と立て続けにバイクの免許を取った次男の
バイク公道デビューの日であり、僕も初めて次男と一緒にバイクに乗った日になったという事です
 
 
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当然の事ながら彼は自己所有のバイクなんて持ってないから現在僕と長男で共同所有してる
HONDA CB750K1が彼のデビューバイクになった
 
バイカーズアイテムなんて物も何一つ持ってない彼だから
ムートンのB6もジーンズもダウンセーターやボーダーのトレーナーシャツも
更にはBucoのヘルメットもレッドウイングのセッターも手袋も僕からの借り物です 笑!
 
 
僕の夢の一つに息子達と3人でツーリングするって事があります
 
本当の意味で次男も自分の意思でバイクが好きになっての事だったら嬉しいし
万凛ちゃんも含めて4人、いや、大明神様は僕の後ろに乗せるから5人(笑)で
一泊辺りで家族ツーリングが出来たら最高なんですがね~ 笑!
 
ま、先の事は分からないし近い将来と言う事でもでもないから今の段階では何とも言えませんが
少なからず今現在、山下家の男3人でツーリングする事はそう遠い話でもなくなった
それを実現するのにまた一歩近づいたという事ですね!
 
次男の運転? そりゃ~ 人生初の公道での運転だからまだまだ未熟ですよ
恐る恐る乗ってるのがバックミラー越しによく分かる! 笑!
 
でも「習うより慣れろ」という言葉もあるように一応基礎的な事は自動車学校で習ってるし
長男より身体能力も高く運動神経も優れてる次男だから乗れば早い段階で慣れると思いますね
 
と、いう事なんですが、その辺りの事は明日の記事と言う事で
取りあえず今日はここまでと言う事に! ジャンジャン!!

これから・・・

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25歳にして大型バイク公道デビューとなった次男ですが波輝カフェでのランチの後僕達は
季節外れの紅葉でも見ようかと川尻登り口から野呂山に登りました
 
呉から波輝カフェのある川尻までは市街地の一般道での走行だったから
野呂山のワインディングも走らせてみようと思ったんですよね
 
川尻からの野呂山道はけっこう険しいヘアピンコーナーが連続するワインディングです
しかもアスファルトの状態も悪くとても走りにくい
 
初心者にはちょっと酷かとも思ったんですが、まあゆっくり走れば何とかなるかなと・・・ 笑!
 
いつもは後ろを走るマッハですが、この日ばかりはマッハに乗る僕が先導車になります
 
ぜんぜんスピードは出していないのですが、先にコーナーを抜ける僕は
コーナーを抜ける度にバックミラーで次男が付いて来てるか確認します
 
車間が開いてミラーに写らない時はコケたんじゃないかとフト思ってしまう 
まあ何とか付いて来てるようでしたね 笑!
 
 
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山頂までの途中、見事な紅葉を見つけてバイクを停止して写真撮影
 
          「いや~ さっきコーナーの途中でアスファルトの凹みにタイヤ取られてコケるんか思うた
           バイクにしがみ付いとったら危ないけん
         バイク蹴って離れようか思うたら奇跡的に持ち直した!」 爆!
 
おいおい冗談じゃないぞ、コケそうぬなったら人間が下になってバイクを助けんと! 笑!
 
と、いうのは冗談ですが(笑)野呂山はヘアピンの連続だからスピードは出せないが
路面の状態が悪いのは最初からわかってる事
 
コーナーに入る前に路面をチェックしてライン取りを考えて走る事は常識だ
 
ま、次男の場合まだコーナーを抜ける事がいっぱいいっぱいで
周りを見たり状況判断する余裕がないんでしょうな~ 笑!
 
と、いう事でバイク歴36年の僕が自動車学校では習わない実戦でのコツをレクチャーする 笑!
 
ブラインドコーナーにおけるコーナーに入る前、コーナーの途中、コーナーを抜けてからの
体の軸や頭の角度、目線、重心の掛け方・・・
 
 
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思い返せば長男が大型バイクデビューした時にも僕は一緒だった
確かあの時は山口で開催されたカワサキZミーティングに仲間達と行った時だった
 
マッハをレストア中だった僕がCBを運転して彼を後ろに乗せて行ったんですよね
で、途中彼と運転を変り僕は友人の後ろに乗って彼の走りを見てたんだけど
やはり山道の急コーナーで何度か突っ込みそうになった 笑!
 
一緒に走ってる連中はベテランばかりだからリズミカルに走るが
始めて大型バイクを運転する長男は付いて走るのにいっぱいいっぱいだった
 
見かねたカツジに
「オイ!まだ皆のペースで走るのはちょっと危ないど、運転代れ~や」
って駄目出しされて運転を代った事をよく覚えてる 笑!
 
そんな長男だったがだんだんバイクにも慣れ、まだ一度も事故した事もコケた事もない
まあ彼は身長177cmあるからベタ足で足付き出来るし性格も慎重派ですからね~
 
あの頃バイクのバの字も知らなかった長男だったが今ではバイクが大好きになり
自分の好みも出て来て ついにはBSAというクラッシックマシーンまで手に入れた
 
TPOに合わせたファッションも楽しむという価値観も芽生えセンスも磨かれていった
 
もちろん僕や僕の友人達の影響が大きいですが先日記事に書いたように
僕達の価値観やセンスのルーツはカーショップ ジャクソンで磨かれたような物だ
 
そう言う意味ではウチの長男はジャクソンの系譜を継ぐ最年少なのかもね~ 笑!
 
 
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で、次男である
彼は貧乏学生生活が長かったから今の所「趣味」といえる物がない
 
ファッションにおいても値段が安いという事が大事でブランドや高価な物への拘りがない
僕に言わせればそれも決してダメだという訳でもないが それでは寂しいと思うのだ
 
     「オイ、野球のグローブでも安物とミズノプロ(当時のミズノの最高峰グローブ)じゃあ
                                  ぜんぜん違うたろうが~・・・」
 
「それはそうじゃね~ 確かにミズノプロ使うたら他のグローブはカスじゃったね~」
 
これは長男と次男の兄弟の会話の一部である
 
現代において”物”というのは高価な物から安価な物まで多種多様に選ぶ事が出来る
でも”物”の値段には多くの場合、それ相応の理由があるものだ
ブランドと言われる物には歴史があり”安物買いの銭失い”って言葉も満更嘘じゃない
 
まあその辺りの価値観やセンスを これから次男には学ばす必要がある
 
趣味においても必ずバイクじゃなきゃダメって事でもないが
僕がいつも言うように大事なのは”物”じゃなく”者”だという事は間違いない
 
人は”物”を通して”者”と出会いコミニュケーションを取る生き物なのだ
人は一人では生きて行けない、必ず他人と接して生きて行くものなのだ
 
それは家族間や兄弟間にも同じ事が言える事は間違いない
 
僕の価値観では趣味を持たない人間はもったいないと思うし残念な人生だとも思う
僕の価値観が決して正しいとも言えないが少なからず僕はそう思って生きてきた
 
その辺りも今後、3人で酒でも飲みながら戯言と共に聞かせてやろうと思いますね 笑!
と、いう事で今日はこれまで! ジャンジャン!!

ANTHOLOGY~40th ANNIVERSARY BEST ALBUM~

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2015年の今年、デビュー40周年を迎えたロックンロールバンド COOLS
 
今年10月31日には僕達呉オールドモータースクラブが主催する呉オールドモータースミーティング
5周年記念イベントにクールスを招いてクールスの40周年と合わせてパーティーを開催した
 
が、よくよく考えてみると当たり前の事だがロックンロールバンドCOOLSデビュー当時の
リーダー兼メインボーカルを務めていた現在石原プロ所属で俳優
舘ひろしさんもデビュー40周年という事なのだ
 
クールス時代の舘さんを知らない人は彼に対してどうしても俳優のイメージが強いと思うが
舘さんは元々クールスのメインボーカルであり、クールス脱退後もソロアーティストとして
アルバムをリリースしているなど本来はミュージシャンとしてデビューしているんですよね
 
そんな舘さんだが何とデビュー40周年という事でこれまでリリースした楽曲を集めたベストアルバム
「ANTHOLOGY~40th ANNIVERSARY BEST ALBUM~」をリリースしたようだ
 
で、それだけなら僕もさほど驚きはしないが何と40周年記念アルバムには
クールス時代の楽曲「紫のハイウェイ」「甘い暴力」「恋のテディーボーイ」が収録されている
 
 
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クールス脱退時、他のメンバーとの間に溝が出来て孤立した舘さんはグループを抜けた
 
溝の理由は僕には確かな事はわからないがクールス脱退後の舘さんは
僕のイメージでは あまりクールス時代の事を表に出さない・・・てか、
永ちゃんキャロルを封印したようにさんもクールスを封印してたって印象があった
 
それが今回の40周年記念アルバムにクールス時代の楽曲を3曲とはいえ入れている事が
個人的にはちょっと嬉しかった半面意外な気がしたのだ
 
1977年(昭和52年)舘さんはクールスと袂を分けてからもキングレコードに残り
数枚のアルバムをリリースしている
 
それはキャロル解散後にソニーに移籍した永ちゃん
フォノグラムに残ったジョニー大倉さんにも似ている
 
フォノグラムに残ったジョニーさんは
「JOHNNY COOL」 「JOHNNY WILD」 「トラブルメーカー」
というジョニー大倉ソロの3枚の傑作を残した
 
これと同様にさんもキングレコードから
「Love Letter From The USA」 「SCANDAL」 「JUST ONE NIGHT」
という個人的には舘さんの傑作だと思う3枚(その後も数枚リリースされている)の
ソロアルバムをリリースした
 
その3枚の全アルバム曲が収録されているのが↑の奥のCD
「”THE" HIROSHI TACHI」なんですよ
 
 
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まあその辺りの事はいずれシリーズ「CAROOLS」で掘り下げようと思いますが
今回の舘さんデビュー40周年記念アルバムにはもちろんキング時代のソロの楽曲も含まれています
 
しかし舘さんのその時代の事を知らない人は舘さんの楽曲って言ったら
1984年(昭和59年)FUN HOUSEからリリースされ同年のNHK紅白歌合戦でも披露された
「泣かないで」や主演映画「あぶない刑事」のテレビシリーズ及び劇場映画主題歌「冷たい太陽」
更には数年前のCMでドラムを叩きながら石原裕次郎さんの曲をカバーした
「嵐を呼ぶ男」ってイメージがあるんじゃないでしょうかね~ 笑!
 
ま、それらの曲もニューアルバムには収録されていますが
残念ながら僕はそれらの舘さんの楽曲には何の思い入れもない 笑!
 
俳優「舘ひろし」のイメージはキザでクールなんだけどコメディーな魅力もあるって所だと思いますが
やはり個人的にはクールス時代を含むキング時代のコメディーなんてまったく感じさせない
鋭く尖ったジャックナイフみたいな切れ味鋭いクールさが最高にカッコいいと思う
 
と、いう事で僕は今回のアルバムは今の所購入する予定はありませんが(笑)
気になった方は是非ご購入下さいね!
 
最後に舘さんのソロファーストアルバム「Love Letter From The USA」から
僕の大好きなこの曲をお送りして今日はおしまいにしようと思います! 
 
もちろんこの曲も記念アルバムに収録されていますよ! ジャンジャン!!
 
 
 
 
 
思い出のデイト/舘ひろし 1977 作詞・舘ひろし 作曲・長門大幸
 
 
初めてのDate うつむくだけの うぶなお前に いかれた俺さ
あの時からは 大人になったね Ponytailも 今はおろして
Happy Birthday Baby 昨日と違って 今夜はやけに色っぽいぜ
 
覚えているかい あの頃を SlimなJeanが似合ってた
Kissの味さえも わからずに
 
Happy Birthday Baby Candle lightに ゆれるお前のまなざしさえも
Happy Birthday Baby 昨日と違って 今夜はやけに色っぽいぜ
 
Happy Birthday Baby 昨日と違って 今夜はやけに色っぽいぜ
 
覚えているかい あの頃を SlimなJeanが似合ってた
Kissの味さえも わからずに
 
Happy Birthday Baby Candle lightに ゆれるお前のまなざしさえも
Happy Birthday Baby 昨日と違って 今夜はやけに色っぽいぜ・・・

自分のルーツを辿ってみる 23 ミヤニシ4年目

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さて、不定期でお届けしてる自分で自分の過去を振り返り懐かしく思ったり
時には反省したりするシリーズ「自分のルーツを辿ってみる」ですが
気が付けば前回5月23日以来と半年以上経ってた
 
と、いう事でさっそく記事の方を書き進めますが前回までに1982年(昭和57年)ミヤニシに就職した僕は
今思えば環境や人に恵まれ自分の意図せぬ所で人生が変わり始めたという事を書きました
 
その最もたる事柄がミヤニシ入社3年目の1984年(昭和59年)ロンドン ヴィダルサッスーンへの
美容留学であり、帰国後行われたカットコンテストで思いもせぬ優勝を果たした事でした
 
もともと強い憧れや夢を持って美容師になっていない僕はいつまで経っても仕事に身が入らない
しかしそんな思いとは裏腹に半強制的に参加させられたコンテストで僕は優勝してしまった
 
その結果僕は新聞にも取り上げられお客様や他店の美容師から一目置かれるようになる
しかし自分的には優勝は技術的な実力ではなくインパクト勝負が吉と出たという事はわかっていた
 
ミヤニシ内の立場も4年目ともなると先輩や同期より後輩の方が多くなった
 
自分の実力のなさや練習不足を棚に上げて”恥”だけはかきたくないという矛盾と僕は戦っていた 笑!
 
 
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そんな宙ぶらりんの僕をいつも叱咤激励し有無を言わさず
強制的に美容に向かわせてくれたのが先輩の城戸君だった
 
当時の僕からすれば「ありがた迷惑も甚だしい」という思いもあったが(笑)
彼には僕も頭が上がらなかったし今思えば感謝の一言では表せないくらい感謝してるし
宮西先生と共に僕の美容師として・・・いや、人生を大きく変えてくれた大恩人だと公言できますね
 
当時美容専門誌「しんびよう」誌上フォトコンテストってコーナーが始まったんです
で、例の如く城戸君に半強制的に作品作りに取り組まされる僕 笑!
 
確かこの作品は”佳作”か何かになったんじゃなかったかな~
 
ベースはツーブロックのショートレイヤーで、長めに残したバングと
トップのスパイキーな質感の対比を表現した作品だと思いますね
 
 
と、こんな事してる間に秋になり僕にとっては憂鬱なイベントが近づいてきた
そう、前年優勝したコンテストの当年の開催日が刻々と近づいてくる
 
さすがに2年続けてのラッキーは期待できないし
何より僕はディフェンディングチャンピオンとして皆に注目される事は必定
 
ー恥だけはかきたくない・・・
 
その思いは何の実績もなかった前年より更に強かったが自信もまったくなかった 
それでも僕は真剣に練習に取り組むって事もなかったのだが・・・ 笑!
 
 
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正直に今あの1985年のコンテストの事を言うと僕はコンテスト当日まで、いや、
モデルの髪を切り始めてもどんなデザインにするかという事が明確に頭に描けていなかった
 
前回の初出場の時は、あれでも僕は少ない知識、経験、技術なりに
ロンドンで見て来た事をベースにデザインを考え少しは練習してコンテストに挑んだ
 
しかし2回目となる1985年は気負いによるプレッシャーが強く結局スタイルが決まらず
コンテスト当日の出たとこ勝負になってしまった 笑!
 
そしてコンテスト当日
 
僕は前年の優勝者と言う事で選手を代表して選手宣誓を行った
 
いや~ 学生時代に体育会系じゃなく暴走族系だった僕は(笑)選手宣誓なんて縁がないし
この時の選手宣誓が生まれて52歳の今までで最初で最後の選手宣誓でしたね~ 笑!
 
「宣誓!僕達選手一同は日頃の練習の成果を十二分に発揮し・・・」
って言ったんだと思うが日頃練習していない僕は嘘をついたという事だ! 爆!
 
 
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と、いう事でついにコンテストの火蓋が切って落とされました
モデルにはあらかじめ衣装を着せ、メイクまでは済ませています
 
僕の右横には前年3位に終わり悔しい思いをした城戸君が
今年こそはと優勝を狙ってリベンジに燃えている
 
が、僕には周りを見渡す余裕なんてない
 
そりゃそうだ! 始まりの合図があった段階で僕は
 
「う~ん どうしようかのぉ~・・・」
 
って考えてたくらいですからね~ 笑!
 
 
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カットが始まる段階まで僕には明確なヘアデザインがなかった事は確かだったんですが
僕の中には全体的なイメージはあったんですよね
 
そのイメージソースになっていたのが・・・
 
 
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1985年当時、松田聖子さんと共にアイドル界の人気を二分してた中森明菜さん
 
その当時、明菜さんが歌って大ヒットしてた「DESIRE」
着崩した和服に黒髪のボブ・・・
 
さすがに2年続けて和服というのも芸がないと思いましたが
こんなイメージで行きたいって思いだけはあったんですよ
 
で、ここからイメージを落とし込んでアレンジを加えた
和服は中東系の民族衣装にして黒髪のボブベースのスタイルを合わせる
 
しかし技術力を補うために、もう一つ強力な捻りというかインパクトが欲しい
と、いう事であれこれ悩んだ挙句僕はモデルの顔を黒塗りにする事にした 笑!
 
 
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カット前に肩下まであった黒髪のワンレングスをネープ内側の毛をツーブロックで刈込み
頭の鉢から下の毛をノンテンションでブツ切りにしてボブのラインを出す
 
一度は前下がりのボブに切ったがイマイチだと思い
左側サイドをアシンメトリーにして短く切り込んだ
 
ミディアムゾーンはもともとあった長さを残しながら隙間を開けてブツ切りする
まあ現代の言葉で言えば東京のカリスマ美容師、BOYの茂木さんの”ハズシ”ですよね
 
トップはディスコネクトして大胆に切り込みスパイキーな感じにした
 
かくしてスタイルは何とか完成したのだが・・・
 
 
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確かに今回もインパクトのある作品にはなったとは思った
 
しかし今回は前回と違って出来上がりが頭に描けてたデザインではなく
ぶっつけ本番の行き当たりばったりで切ったスタイルだ
 
決して出来上がりに満足した訳でもなかったし自分でも良いのか悪いのかよくわからない 笑!
今思えばデザインイメージは悪くはないが何せ技術力不足だから完成度は超低い
 
技術力不足は平生往生だし結果が悪く出て恥をかけば自業自得だ
悩んだ挙句に決行した顔の黒塗りってのも審査員の先生方にどう評価されるか・・・
 
いや~ 今思い出しても冷や汗が出ますぞ! 笑!
 
 
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出来上がったモデルはこんな感じです、どうでしょう!? 爆!
 
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結論から先に言うと、この時の僕は2次審査に残り5位という結果だった
 
5位という賞は設定されてはいなかったと思うが2次審査の点数が低い順に名前が呼ばれ
僕はベスト3より2人前に名前を呼ばれたから実質5番目という評価だったという事だ
 
賞の名前は忘れたが「敢闘賞」だったか「中国新聞社賞」だったか、とにかく賞に入り僕は安堵した 
まあ100人以上出場してるコンテストでぶっつけ本番での5位だから上々ですよ
 
こうしてディフェンディングチャンピオンの僕は表面上は最低限の面目を保つ事が出来たのである 笑!
 
 
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これが1985年のミヤニシ勢の作品となったモデルたちだ
 
前列左から3番目のブルーに染めたモデルが城戸君のその時の作品だが
この作品が今回のカットコンテストの最優秀賞に輝いた
 
前年3位に終わり悔しい思いをしたであろう城戸君はきっちりリベンジを果たしたのである
 
城戸君はコンテストに向けて何台も練習用のウイッグを染めてカットして研究しながら練習してた
こうしてきっちり優勝を狙って優勝するんだから本当に凄いと思いましたね
 
これは僕の勝手な想像なんですが、前年3位に終わった城戸君は彼なりに反省し考えたんだと思う
この当時はまだカットコンテストの草創期だったからコンテスト自体のコンセプトもハッキリしていなかった
 
前年3位だった城戸君は当時サロンワークにおいて最先端だったショートレイヤーの
フォワードシェイプを切ったのだが完成度は高かったがインパクトに乏しかった
で、完全に城戸君より技術力の劣る僕がインパクト勝負で評価された
 
やはりコンテストはサロンスタイルじゃなく自由発想のインパクトも評価の対象になる
それを踏まえて彼はブルーに染めた髪をドライカットしてウイッグのような質感を創り上げた
今では当たり前の技術のドライカットも当時はまだ誰もやっていなかった
 
何もかもが手探りの時代だったが、やはり城戸君は発想力も素晴らしかった
確かこの作品はこの後、ヴィダルサッスーン杯にもエントリーして準優勝したんじゃなかったけ・・・
 
 
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この写真はいったいどういう括りの写真なんだろう?
 
最前列はミヤニシの同僚とモデルだけど知らない人も沢山いるぞ
入賞者とモデルなんだろうか? それにしては人数が多すぎるような・・・
 
と、いう事で1985年のコンテストは終わり昭和60年は幕を閉じる
この時”昭和”という時代が残り3年少々だとは誰も思っていなかった
 
年が明けた1986年(昭和61年)、僕にはまた新たな転機が訪れる
 
と、いう事なんですが続きはまた次回と言う事で! ジャンジャン!!

オーディオの買い替え

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先日約10年使った店のCDプレーヤーがぶっ壊れた
CDの再生をしなくなった、要は読み込みしなくなったのだ
 
現代においてはどうなのか知らないが昔は電化製品の寿命は10年と言われていた
しかも店で使う電化製品は毎日使う物だしCDプレーヤーなんて1日10時間フルに稼働している
 
昨今の音響システムは一部の音響マニアが使う高級品でもなければ
安価な物でもそこそこの性能を持っている
 
ウチは狭い店だし美容室だからBGMも高音量でガンガン流す訳ではない
最低限の音質と音量さえあれば事足りる
 
まあ音質と言う部分においてはスピーカーの性能に大きく左右されるが
これくらいで十分だろうという事でONKYOのCRーN765というモデルを購入した
 
メーカー希望価格は47800円という事だったがネットで探して
広島市のショップで送料込の34000円程で購入する事が出来た
 
商品レビューを読むと、このモデルは生活オーディオと本格オーディオの
中間くらいの性能だって書いてあった
 
説明書を読むといろんな機能があるようだが店で使う機能は再生とリピートくらいだ
だから多機能や高性能って事よりも僕的には耐久性の方が重要なんですよね
 
 
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現在の店に移転したのが平成17年だから旧CDプレーヤーは10年前に買った物だった
 
移転前の旧店舗は坪数も広く1・2階フロアを合わせて約45坪もあったから
音響システムもそれなりの物を揃えていた
 
取り分けスピーカーはJBLの当時の最高級品を使っていたが今の店は8坪だから
スピーカー本体も大き過ぎるという事で今でもJBLのスピーカーは家の倉庫で眠ってる 笑!
 
ぶっ壊れた旧CDプレーヤーはMDも付いていたが特に必要な物でもない
 
昨今はお店で流すBGMもアイポットやスマホから音源を飛ばす時代だという事だが
未だにガラケイを愛用してるほどデジタルに疎い僕には面倒くさいように思えるんですよね 笑!
 
それにしても僕が子供だった1970年代から思えば音響システムも大きく変わりましたな~
 
 
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僕が子供だった1970年代初頭において個人で自由に音を出す物ってのはレコードだけだった
ラジオから流れる音楽は自分で選べるわけではないしカセットテープの登場はもう少し後の時代の事だ
 
当時お金持ちの家にはステレオって物がありましたがウチにはそんな高価な物はなかった
ウチにあったのは↑のようなレコードプレーヤーだった
 
よく覚えていないがウチで親父や母がレコードを聴いてた記憶がないし
親のレコードも見た事なかったのでプレーヤーは僕のために買ってくれたんだと思う
 
最初は当時漫画などの付録で付いていたソノシート(ビニール製のレコード)を聴いていた
僕の記憶では僕が最初に買ったレコードは1973年にリリースされた
フィンガー5のEP「個人授業」だったような気がします
 
忘れもしない同年にリリースされたフィンガー5のファーストアルバム
当時のクラスメイトの女の子に借りたんですよ
 
その時彼女が言った言葉
「山下君ステレオ持ってないんじゃろう? プレーヤーでレコードに傷つけんとってよ・・・」
 
彼女には歳が離れたお兄さんがいたから立派なステレオが家にあるって事は知っていた
フィンガー5のアルバムが彼女の物だったのか、お兄さんの物だったのかはわからない
 
僕は彼女の言ったこの言葉を今でも覚えているくらいだったから
当時小学校4年生だった僕は少なからず彼女の言葉に傷ついたんだと思う
 
今考えてみればステレオではレコードに傷がつかずプレーヤーだったら傷がつくって理論はおかしい
レコードに傷を付けるのはレコード針で、針はステレオもプレーヤーも似たような物であり
肝心なのはレコード針の摩耗具合とレコードの取り扱いだ 笑!
 
 
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1976年(昭和51年)、中学入学祝いに当時、にあった「豊電気」で僕は念願のステレオを買ってもらった
そのステレオは当時主流になってたコンポーネントステレオでメーカーはTRIOだった
 
トリオは当時クールスが所属してた音響メーカーで
後にKENWOODと名を替えたが今はどうなってるのか知らない
 
写真のステレオはPC内の画像を拾った物だが僕が買ってもらったコンポーネントステレオも
縦型でレコードプレーヤー・チューナー・アンプ・カセットデッキというシステムだった
 
これらは今でもバラバラにされてスピーカーと共に実家の物置に収容されている
まあ今から39年前の電化製品だから作動するかどうかはわかりませんがね~
 
この時買ったコンポーネントステレオは僕がお金を出したわけじゃないから
いくらだったのかは覚えていませんが当時コンポーネントステレオは
高価な電化製品だったと思いますよ
 
そう考えたら現代は安価な物でも性能的にも事足りる物が多いですよね!ジャンジャン!!

My Music Travel  32 心の旅

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心の旅/チューリップ 1973 作詞・作曲 財津和夫
 
 
あー だから今夜だけは 君を抱いていたい  あー明日の今頃は 僕は汽車の中
旅立つ僕の心を 知っていたのか  遠く離れてしまえば 愛は終わるといった
 
もしも許されるなら 眠りについた君を  ポケットにつめこんで そのままつれ去りたい
あー だから今夜だけは 君を抱いていたい  あー明日の今頃は 僕は汽車の中
 
にぎやかだった街も 今は声を静めて  なにをまっているのか なにをまっているのか
いつもいつの時でも 僕は忘れはしない  愛に終わりがあって 心の旅がはじまる
 
あー だから今夜だけは 君を抱いていたい  あー明日の今頃は 僕は汽車の中
あー だから今夜だけは 君を抱いていたい  あー明日の今頃は 僕は汽車の中
 
 
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さて、僕の昭和の時代の思い入れのある楽曲やアーティストを振り返り
当時の世相やエピソード、思い出話を綴ろうというシリーズ「My Music Travel 」ですが
何とこのシリーズも6月1日の記事以来という事になります
 
と、言う事で今回は1972年デビューのバンド「チューリップ」を取り上げてみようと思う
 
昭和の時代に青春時代を送った方はよく御存じだと思いますが
チューリップは財津和夫さんや姫野達也さんが中心になって1972年にメジャーデビュー
 
冒頭でご紹介した1973年リリースの「心の旅」が大ヒットし一躍スターダムにのし上がり
1974年リリースの「サボテンの花」、1975年リリースの「青春の影」とスマッシュヒットを飛ばし
当時ビートルズサウンドに一番近いバンドとも言われました
 
 
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と、言う事なんですが実は先週末の12月13日日曜日呉文化ホールにて
財津和夫さんのコンサート「財津和夫 TULIPの夢を歌う 2」が行われたんですよね
 
 
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コンサートには元メンバーで名曲「心の旅」ではメインボーカルを務めた
姫野達也さんがスペシャルゲストとして招かれていました
 
 
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と、いう事で僕も大明神様を伴って財津和夫コンサートを観に行ってきました!
 
 
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約10分程開演時間が押してコンサートは始まりました
 
とは言う物の実は僕は熱心なチューリップファンだったかと言えばそうでもない 笑!
 
チューリップがデビューしたのは1972年(昭和47年)という事だから当時僕は小学校の3年生
小学校3年生といえば、まだまだ僕はガキでありテレビアニメ特撮ヒーロー物に夢中だった頃で
ようやく当時の担任先生がファンだった天地真理さんに興味を持った年頃だった 笑!
 
当時僕の家の隣に住んでたレコードマニアだったお兄さんの部屋には
チューリップのアルバムもあった事は覚えている
 
しかしそれは吉田拓郎さんや井上揚水さん等と同様に彼が聴いている側で
僕は芸能雑誌「平凡」「明星」を読んでいる時のBGMに過ぎなかった 笑!
 
 
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コンサート冒頭は僕の知らない曲ばかりだった
 
それらに交えて彼らが若い頃影響を受けたと言ってたビートルズサイモン&ガールファンク
更には映画「オズの魔法使い」の劇中歌として有名な「虹の彼方に(オーバー・ザ・レインボー)」
更には美空ひばりさんの「リンゴ追分」まで披露した
 
実は今回のコンサートは二部構成になっており何と途中で15分の休憩が挟まれた
 
いや~ 当日の観客のメイン層が高齢だったからトイレ休憩と言う事だったのか? 笑!
事の次第はよく分からないが僕は途中で休憩があるライブを観たのは初めてだった
 
で、ようやく僕の知ってる曲を演ったのが休憩直前に披露した
財津和夫ソロ1979年のヒット曲「Wake UP」だった
 
 
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ステージ後半はチューリップ時代のヒット曲が次々と披露された
「サボテンの花」「青春の影」「虹とスニーカーの頃」・・・
 
そしてアンコールでついに「心の旅」が始まった
 
大型画面のモニターが下りてきて歌詞が映し出されると
財津さんは一緒に歌いましょうというゼスチャーを・・・
 
それまで誰一人立ち上がる人はいなかったが「心の旅」が始まると
リスナーの年齢的にも(笑)総立ちまではいかないが立ち上がる人も出て来て会場も大合唱
 
今では中年・初老になったリスナーの男女も若き日を思い出していたんでしょうな~
 
当時僕は年齢的な事もありチューリップのアルバムを熱心に聴いたわけではないが
「心の旅」を始めメジャーヒットした曲はよく覚えている
 
取り分けこの「心の旅」は子供心ながらに良い曲だと思った
 
 
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コンサートのMCで財津さんが言われてましたが、1972年博多から上京したチューリップは
デビューからシングル2枚・アルバム2枚を出したがヒットせず3枚目のシングルが売れなかったら
博多に帰ろうという話がでてきていた頃に背水の陣として生まれたのが「心の旅」だったそうだ
 
当初の予定では作詞・作曲した財津さんが歌うはずだったがレコーディング直前になって
スタッフ・関係者の間で「財津より甘い声が魅力の姫野に歌わせよう」ということになったそうで
曲のヒットは嬉しかったが財津さんも、年下の後輩の姫野さんもビミョーな気持ちもあったそうだ 笑!
 
 
 
 
 
虹とスニーカーの頃/チューリップ 1979 作詞・作曲 財津和夫
 
 
わがままは 男の罪  それを許さないのは 女の罪
若かった 何もかもが  あのスニーカーは もう捨てたかい
 
白いスニーカー 汚さないように  裸足で雨の中 僕等は歩いた
びしょびしょぬれの トレーナーが  乾くまで抱き合った 夏の昼下がり
 
わがままは 男の罪  それを許さないのは 女の罪
若かった 何もかもが  あのスニーカーは もう捨てたかい
 
白く浮かんだ 水着のあと  指先でなぞれば 雷の音
窓辺から 顔をつき出して  虹をさがしてた君を覚えてる
 
わがままは 男の罪  それを許さないのは 女の罪
若かった 何もかもが  あのスニーカーは もう捨てたかい
 
もつれた糸を 引きちぎるように  突然ふたりは 他人になった
ぼくらには できなかった  大人の恋は どうしても
 
わがままは 男の罪  それを許さないのは 女の罪
若かった 何もかもが  あのスニーカーは もう捨てたかい
 
(Repeat &Fade Out)
 
 
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1970年代が終わりを告げる1979年(昭和54年)7月チューリップは「心の旅」以来
実に6年ぶりにオリコンチャート入りを果たす大ヒット曲に恵まれた
 
それがこの「虹とスニーカーの頃」だが僕はこの曲は実に思い出深い
この年僕は高校1年生で長浜の片田舎から僕は街デビューを果たした
 
この頃は喫茶店の最盛期で80年代のテレビゲーム・SF・コンピューター時代に先駆け
全国的に喫茶店やゲームセンターで空前のインベーダーゲームが大ヒットし社会現象にまでなった
 
僕も学校に行く前のモーニングや放課後の喫茶店でインベーダーゲームに興じた
「リシェス」「ランブル」「ラブリー」「ロン」「ロコ」「ビアン」「琥珀」「樹林」・・・
 
名前を挙げた店は今では一店も残っていないが当時呉にも沢山の喫茶店が繁昌してた
 
学生服から発する独特の匂いとポマードやコロンに煙草が混じった匂いの空間、
ミルクセーキを飲みながらひたすらレバーを動かし名古屋打ちと言われたテクニックで
次々とインベーダーを撃破してた僕 笑!
 
その頃喫茶店の有線放送で頻繁に流れていたのがチューリップの虹とスニーカーの頃だった
独特なメロディーと個性的な詩がとても印象深かった
 
 
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チューリップといえば今年のゴールデンウイークに訪れた福岡博多
伝説のライブ喫茶「照和」の事を思い出す
 
チューリップはアマチュア時代この照和のステージに立って腕を磨いていた
 
その時代の事を照和のオーナーにも話を聞いたし当時チューリップのライバルだった
海援隊武田鉄矢さんが司会を務めてる「昭和は輝いていた」という番組の
「フォークソング&ニューミュージック2時間スペシャル」という番組内で武田さんも
当時のエピソードを熱く語っておられた
 
武田さん曰く、財津さんは天才だったって言われてましたね
 
と、言う事で照和の記事をご覧になりたい人は
以下のURL↓をクリックしてご覧くださいね!ジャンジャン!!
 

月曜ゴルフチーム忘年会

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12月14日月曜日 天気 晴れ
 
 
12月に入り一時寒くなったと思ったのだがなぜか寒さは続かずまた暖かくなった
まあまだ暦の上では冬初頭だから暖冬だと決めつけるのもどうかと思うが
12月にこの暖かさは近年では記憶にない
 
と、いう訳ですが先日の月曜日は月曜ゴルフチームミニコンペに参加した
 
まあ今回はゴルフの内容についてはとやかく言うまい
毎度の事の繰り返しになってるという事だ 笑!
 
今の予定では年内にもう2度程ラウンドする事になりそうだ
 
今年の目標だった80台のスコアを出すチャンスもあと2回と言う事だが
今の状況では目標達成も厳しい状況だという事は間違いない 笑!
 
 
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と、言う事なんですが当日夜は月曜ゴルフチームの忘年会が執り行われた
場所はメンバーのご夫婦が営んでおられる「地鶏食堂」さん
 
ご夫婦と僕は僕がミヤニシに就職してからのお付き合いだから旧知の間柄と言う事だ
 
子供達の野球時代には同じ父兄として苦楽も共にした
「あれから10年も経つんじゃね~・・・」
 
先日もこんな話をした、本当に時が経つのは早い物だ
 
 
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当日お店は貸し切りで行われた
 
メンバーの忘年会と言う事もあり会費以上の御馳走を振る舞って下さった
ありがたい話である
 
と、言う事で、事ゴルフにおいての今年は目標達成はどうやら来年以降に持ち越しになりそうだが
こうして無事健康で1年ゴルフが出来た事に感謝です!
 
メンバーの皆さん、今年1年お世話になりました、来年も宜しくお願い致します
 
と、言う事で今日はお終い! ジャンジャン!!
 
 
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おまけ
年内には竣工し、来年2月にはオープンする呉市役所新庁舎
いや~ 立派な建物が建ちましたな~ まるで大都会の建物みたいですぞ
 
新庁舎がオープンしたら今度は旧庁舎の取り壊しが始まるそうです
で、建物を壊し終えたら地下を掘って水害用の大型貯水タンクが埋め込まれるそうですよ
 
タンクは水を溜めておく物ではなく水害時の水が流れ込む物で
浸水被害対策として使われる物だそうです
 
地上は市役所の駐車場になるそうです
 
大雨が降ったら地盤が低い市役所近郊は浸水して水浸しになりますからね~
良い事だと思いますが費用も相当かかるんでしょうな~・・・ 笑!

最近の店でのBGM

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先日10年使ったCDプレーヤーがぶっ壊れて買い替えをしたと言う事を記事にした
 
ウチの店に来た事ある方はよく御存じだと思うがウチの店には
沢山の70年代音楽のCDを飾っており店でもそれらをよく流している
 
飾ってあるCDはキャロル永ちゃん、クールス、ブラックキャッツ、シャネルズ・・・等の
和製ロック物が多いが店にはキャンディーズピンクレディー、アンルイス、ユーミン、竹内まりやと言った
女性アーティスト物もあれば、かぐや姫YMO、アラベスク等の変わり種もある
 
日本広しとは言え美容室でキャンディーズやかぐや姫を流してる店なんてそうそうないと思う 笑!
現代のアーティストのCDは強いて言えば個人的に好きなボサノバ歌手の小野リサさんくらいで
殆どのCDは1970年代~1980年代に活躍したアーティストの作品ばかりだ
 
それこそ移転前の店の時は新旧の洋楽のCDが中心で300枚くらいはあったと思うが
店を移転する時にCDを詰めた段ボールが行方不明になってしまい何所にあるのか分からなくなった
 
 
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今更それらのCDを、また1枚1枚買うのもバカらしいと思うのだが僕も商売上
毎日毎日キャロルやクールスを店で流すのもお客様的にも憚られる
 
と、言う事で数ヶ月前に50~60年代オールディーズナンバー6枚組「MY GIRL」というBOX
70年代ディスコミュージック7枚組「DISCO SUPER HITS COLLECTION」というBOXを購入した
 
まあ購入したと言ってもネットのヤフオクでポチッとやったんですけどね 笑!
ハッキリした落札金額は覚えてないけど、どちらも3000円前後だったと思います
 
もちろんそれらは中古でしたが何の問題も無く視聴出来ています
で、それらを代わる代わる再生して一通り聴いたんですが聴いた事ない曲は1曲もなかった 笑!
 
それにしても便利な世の中ですよね~ BOXが3000円程度で手に入るんですからね~
 
それこそ僕がレコードを買い始めた昭和40年代は当時EPと言われたシングル500円
LPと言われたアルバム2500円だった記憶がある
 
てか、現代は音楽は買う物ではなくタダダウンロードする時代だそうだ
 
デジタルに疎い僕にはやり方さえわかりませんがCDが売れなくなったってのもよく聞く
アーティストにとってはある意味苦難の時代とも言えるのかも知れませんな~ 笑!
 
 
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しかしもって、スマホアイポッドを使いこなす術を知らない僕は
営業中にCDを取り換える作業はとても面倒だ
 
と、言う事で先日CDプレーヤーを買い替える時に僕はむか~し営業中に使っていた
CDオートチェンジャーを最初買おうと思ったのだが、どうやらチェンジャーは今や時代遅れで
各メーカーも制作していないという事だった 、どこまでも時代遅れの僕ですよね~ 笑!
 
やはり今後は重い腰を上げてスマホかアイポットを購入して使い方を勉強せねばなりますまい
最近ではウチの万凛ちゃんもアイポットを買って家のPCからダウンロードしてるみたいだ
 
やれば簡単な事なんでしょうが、どうも僕の腰は重いんですよね~! 笑! ジャンジャン!!
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