1978年、不良界(笑)に足を踏み入れた僕が
暴走族に憧れを持つ様になるのは自然な流れだった
それまで狭い長浜という田舎の世界しか知らなかった僕にとって
町の不良たちとの出会いは沢山の刺激的を与えてくれた
夜、広の町にチョッパー風に改造したチャリに乗って遊びに行くと「新風連合」と背中に刺繍が施された
真っ赤なスイングトップを着た人達が自販機の灯りに群がっていた
地を這うようなシャコタンのハコスカ、サバンナ、チェリー・・・
真っ黒いタンクにゴールドで描かれた”鯉”が印象的だったカワサキKH
彼らは中ボーの僕達に手招きをして冗談を交えながら色んな話を聞かせてくれた
1978年、世の中は暴走族が”流行”になっていた
そんな暴走族にも人気があったのが「ディスコ」だった
ディスコはアルコールを含む飲料を提供し音楽を流し客にダンスをさせる空間だった
1975年~1979年くらいを第1次ディスコブームと言うらしいが
そのブームに拍車をかけたのが1978年に封切られた一本の映画だった
ジョン・トラボルタの出世作になった「サタデー・ナイト・フィーバー」
サタデー・ナイト・フィーバーはダンス・ブームという社会現象を起こし
"フィーバー"なる言葉を定着させた
僕も御多分に漏れず封切されたサタデー・ナイト・フィーバーを観にも行ったし
当時親しくさせてもらってた二つ上の先輩に連れられディスコデビューも果たした
狭い階段を上がって重い扉を開くと暗い空間に色とりどりのカクテル光線に
照らされたミラーボールが回っていた
1978年にデビューしたアラベスクの「ハロー・ミスターモンキー」や「バギー・ボーイ」が大音量で流れ
鏡に映る自分の姿を見ながら皆が同じステップを踏んでいた
その空間にいるだけで15歳の僕は十分刺激的だった
と、若者たちにとってはそんな1978年でしたがスポーツ界ではこんな事件が勃発しました
そう!今でも球史に残るあの江川卓を廻る「空白の一日」事件です
作新学院時代から”怪物”と異名を取った江川は巨人入りを熱望しており
高校卒業時のドラフトで阪急から1位指名を受けるが入団拒否して法政大学に進学
それから4年後の大学卒業時のドラフトで1位指名をしたクラウンへの入団も拒否
そして1978年秋のドラフト前日、江川と巨人軍はドラフト前日はどこにも交渉権のない
自由の身であると解釈し巨人と電撃契約しました
しかしそんな事が許されるはずもなく江川はドラフトで阪神が交渉権を獲得します
コミッショナーは苦慮しましたが強権発動で阪神と契約しすぐに巨人にトレードに出すように提案
阪神は交渉が長引くことを避けそのとき巨人軍のエースだった小林繁と交換することで合意しました
1976年に長嶋巨人軍は優勝こそしましたがV9戦士が次々と引退して
弱体化した巨人軍は覇権を取り戻すためについにインチキを始めたわけです 笑!
「巨人軍は紳士たれ!」この言葉が地に落ちた事件でしたね~
さて、お次は1978年の芸能界ですが1978年には日本アカデミー賞が設立されました
日本アカデミー賞はアメリカ合衆国のアカデミー賞を模し暖簾分けとして設立されました
その栄えある第1回日本アカデミー賞を獲得した最優秀作品は
1977年に公開された「幸福の黄色いハンカチ」でした
最優秀監督賞、最優秀脚本賞は「幸福の黄色いハンカチ」「男はつらいよ」シリーズで
メガホンを取った山田洋次監督、最優秀主演男優賞は高倉健さんでした
ちなみに主演女優賞は岩下志麻さん、助演男優賞は武田鉄也さん
助演女優賞は桃井かおりさんでした
幸福の黄色いハンカチに登場する風にはためく黄色いハンカチの幟や
真っ赤なマツダ ファミリアが印象的でしたね~
1978年の芸能界の話題をもう一つ
当時人気絶頂だったアイドルグループ「キャンディーズ」が1977年のコンサートのエンディングで
「私たち解散します」と突然の解散宣言
その理由として「普通の女の子に戻りたい」と発言し流行語にもなりました
事情を知らなかった事務所サイドは大慌て
結局話し合いの末1978年4月4日に後楽園球場でファイナルカーニバルが行われ
4年半に及んだキャンディーズの活動は終止符が打たれました
ま、最終的な結論から先に言うと普通の女の子に戻ったのはミキちゃんだけでしたがね 笑!
僕にはキャンディーズ解散の真意は解かりませんが元々3人は芸能活動は3年と決めていたらしい
時代はピンクレディーが社会現象になるほどの大人気だった事もあり
タイミング的にも潮時と判断したのかもしれませんね~
時代を牽引したキャンディーズの解散があった1978年はその後の時代を牽引し
国民的バンドまで上り詰めたサザン・オールスターズのデビューの年でもありました
青山学院大学在学中にサークルで知り合った桑田佳祐氏を中心とするメンバーで
サザン・オールスターズを結成
1977年、ヤマハが主催する音楽コンテストで入賞を果たし
翌1978年6月にシングル「勝手にシンドバット」でメジャーデビュー
ちなみに勝手にシンドバットというタイトルは当時大ヒットしてたジュリーの「勝手にしやがれ」と
ピンクレディーの「渚のシンドバット」を足して割ったというパロディー的タイトルだった
いや~ サザンを初めて見た時にはこんな国民的バンドになるなんて夢にも思わなかった
「♪今何時 そうねだいたいね~」って連呼するサザンは一発屋の雰囲気があった
セカンドシングルの「気分しだいで責めないで」も似たようなニュアンスで
サザンはコミックバンドのような様相だった
そんなサザンの転機になったのは翌1979年にリリースされたサードシングル「いとしのエリー」だった
前2曲がコミック的要素が強い曲だったのに対し「いとしのエリー」は切ないバラードで
メロディーラインも美しく大ヒットになった
キャンディーズが解散しサザンがデビューした1978年という年は
日本のミュージックシーンの転機になった年だったのかも知れませんね
1978年にはこんな都市伝説が話題になった
マスクをした若い女性が学校帰りの子供に「わたし、きれい?」と訊ねてくる
「きれい」と答えると「……これでも……?」と言いながらマスクを外す
するとその口は耳元まで大きく裂けていたというもの
「きれいじゃない」と答えると鎌や鋏で斬り殺される・・・
岐阜県に端を発したと言われるこの女は「口裂け女」と言われ全国に広まり
小学校などは集団下校が行われるなど市民社会を巻き込んだパニック状態にまで発展した
1979年8月、それまで全国を席巻していたこの噂は急速に沈静化した
これは夏休みに入り子供達の情報交換や口コミが途絶えたためとされる
当時は今みたいに普段からマスクなんてする習慣ってなかったから
マスクをしてる女性を見ると「おい、あの女口裂け女じゃないんか?」って言ったものだ 笑!
現代では特に春先の花粉の時期になると口裂け女らしい人が急増しますよね 笑!
さて、1978年の映画界に目をやると洋画に関しては
「スター・ウォーズ」「未知との遭遇」という
SF作品が目に付きますが個人的には同年12月に封切られた「グリース」を押したい
前記したサタデー・ナイト・フィーバーで一躍スターになったジョン・トラボルタと
「ジョリーン」や「カントリー・ロード」などが大ヒットしたオリビア・ニュートンジョンが主演した
学園ミュージカル映画が「グリース」だった
いや~ 当時この作品は2回も映画館に観に行きましたぞ
映画パンフレットも購入したしサントラ盤のLPも買った
今でも時々サントラ盤を聴きますが個人的にはサンディ(オリビア)が歌った
「愛すれど悲し」とエンディングで流れた「ウィー・ゴー・トゥー・ギャザー」が好きですね!
さて、邦画の方はというと1976年の犬神家の一族以来角川映画が躍進し続けます
国家権力によって比類ない殺人技術を叩きこまれた男が一人少女の中に自らの人間性の
回復を託そうとする男の姿を描く森村誠一原作の「野生の証明」を個人的には押したい
この作品で薬師丸ひろ子さんは鮮烈なデビューを飾ったのだがオーディションにおいて
角川春樹さんの鶴の一声で無名だった薬師丸さんの主役への抜擢が決まった
その後薬師丸さんは角川映画の看板女優として活躍し日本を代表する女優へと成長して行く事になる
てか、この年は「さらば宇宙戦艦ヤマト」も捨て難いんですがね 笑!
1978年に高視聴率をマークしてたドラマに「Gメン75」があった
警視庁庁舎から独立した特別潜入捜査班「Gメン」が国内犯罪から国際犯罪まで
様々な事件を解決していくハードボイルドドラマ
Gメン設立の発端は、アメリカのシンジケート・コーザノストラが絡む密輸事件に
警視庁の現職警部が絡んでいたこと
警察庁は自衛と対国民PRのため「警察 の中の警察」ともいえる
スペシャリスト捜査グループ設立を計画
密輸事件を解決した捜査一課の黒木警視をはじめとする警視庁捜査員に再度試練を与え
事件を解決できたことを持って正式発令とした・・・
ま、当時は刑事物ドラマの全盛期でしたからね~
さて、日本歌謡界に目をやると1978年の日本歌謡界はピンクレディーのために
あると言っても過言じゃない程ピンクレディーの曲が大ヒットを続けた
年間チャートを見ても「UFO]「サウスポー」「モンスター」「透明人間」と4曲もトップ10入りしている
他には解散したキャンディーズの「微笑みがえし」、堀内孝雄さんの「君の瞳は10000ボルト」
平尾昌晃・畑中葉子さんの「カナダからの手紙」、サーカスの「Mr・サマータイム」
ジュリーの「ダーリング」、中島みゆきさんの「わかれうた」などがヒットしてる
しかし以て個人的な1978年の思い入れのある曲と言えば
何はともあれ永ちゃんの「時間よ止まれ」に尽きる
それまで永ちゃんはテレビ出演はおろか永ちゃんの曲がテレビから流れる事もなかった
永ちゃんのシングルとしては初のミリオンセラーになった「時間よ止まれ」は
「ザ・ベストテン」でもランクインを果たしたが永ちゃんは一度もテレビには出演しなかった
「時間よ止まれ」のレコーディングにはYMOの坂本龍一、高橋幸宏も参加し
資生堂のCMソングにも採用された
1978年に僕が手に入れた物にヤマハSR400というエレキギターがある
中学1年で独学でギターを始めた僕は最初はフォークギターで「かぐや姫」や「アリス」を弾いていた
しかし中3になった僕がキャロルやクールスなどのロックを演りたくなるのは自然の流れだった
前回の続・年賀切手シリーズに取り上げた一眼レフカメラのオリンパスOM-1もそうだが
自らギターを弾く親父は自分が好きな物に関しては理解を示し いとも簡単に買ってくれた 笑!
そして買ってくれたのが写真↑のヤマハのストラトキャスターだった
僕がエレキを弾くに当って憧れたのがキャロルのリードギターであるウッちゃんだった
僕はキャロルではジョニーが好きだったが、やはりエレキはソロを弾くリードギターが華だと思っていた
キャロル時代のウッちゃんはフェンダーのストラトキャスターを愛用していたが
さすがに中ボーの僕にとっては高価なフェンダーなんて高根の花だった
中3の文化祭で僕は仲間とライブを演ったのだが先生に打診するとキャロルやクールスは駄目だと言われた
ま、ベーシストやドラムがいなかったから物理的にも無理だったんですけどね
で、結局僕達は「かぐや姫」「NSP」というフォーク路線をやる事にした
僕はこの時初めてギターソロを演ったのだが、その曲がかぐや姫の「おもかげ色の空」だった
そのソロを教えて貰ったのが写真↓の白衣を着ている英語の女の先生だった
前記したように1978年の僕は自分の意図しない事から不良というレッテルを張られ
開き直った僕は不良仲間とつるみ刺激多い日々を過ごしていた
しかし意外と思われるかもしれないが僕はこの時まだ
「重本」という進学するための学習塾に通っていた
まあ正確に言うと通っていたと言うより在籍していたと言った方が正しいだろう
不良と化した僕だったが母は僕の事を見捨ててなかった・・・いや、まだ淡い期待を持っていた
中学3年生の頃は塾に行くと家を出ては遊び回ってた僕
僕的にも塾に在籍しておいた方が何かと都合がよかったのだ
そんな1978年が終わり年が変わった1979年初頭
当然の事ながら僕達は受験という現実と向き合わざるを得ない事になる
僕は中1の時には当時の総合選抜と言われた進学校の広高を目指していた
それなりに勉強もしていたから成績も悪い方ではなかった
所が中2の途中から勉強するのをやめ刺激ばかりを追い求める生活が始まった
成績はどんどん下がり広高は無理という所まで落ち込んだ
しかし僕はその段階での志望校の選択条件は「ナメられない学校」と密かに思っていた
呉商も視野に入れ学校見学にまで行ったが女子が多いのはパラダイスだとも思ったが(笑)
男子生徒が少ないという事は他校の不良にナメられる危険があると判断したのだ
結果、呉工を志望する事を決めたが自分で言うのも何だが落ちる事は90%ないと思っていた
落ちるとすれば素行不良による内申書の問題だけだと思っていた
そんな1979年初頭のある冬の夜、学習塾「重本」でお別れパーティーが開かれた
お別れパーティーで重本先生は酒を飲み、だいぶ酔っておられた
僕達も好奇心で確か赤玉パンチ辺りに口を付けたと思う
今思えば塾のお別れ会で中学生が酒を飲むなんて大らかな時代だったと思う
僕は当時不良ではあったが同級生をいじめたり威嚇するような事はなかったから
それなりに皆とも仲良くやっていた
酒に酔った重本先生に僕は別室に呼び出された、何事かと思ったらいきなり先生に手を握られ
「山下!ごめん、ワシが至らんばっかりにお前には
広高に行かせてやる事が出来んかった、許してくれ・・・」
酒に酔っていたせいもあったろうが先生は僕の手を握りしめ涙を流された
その時僕は自分でどんなリアクションをしたかは覚えてないが
当時の僕の精神状態からして心そこにあらず的な態度を取ったような気がする
今この文を書きながら思い出していると本当に申し訳ないと心から思う
広高に行けなかったのは先生のせいではなく身から出た錆だったのに・・・
そうして僕は無事呉工に合格して入学にこぎ着けたが・・・ 笑!
ミヤニシで働いていた20歳の頃、一度重本先生を囲んで数人で酒を飲んだ事がある
思い出話に花が咲き、楽しい酒だった
その後先生とは一度も会っていないが先生が亡くなられる前にもう一度会ってみたいと思ってる
そして”あの頃”の事を心から謝罪したいと思います・・・
と、言う事で今日はこれまで!次回は1979年(昭和54年)未年やります
乞うご期待!ジャンジャン!!
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