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My Music Travel 37 CERRY BOYS

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僕が思い入れがある昭和の時代のアーティストや楽曲を振り返り
当時の世相やエピソード、僕の思い出などを振り返るシリーズ「My Music Travel」
 
前回4月24日には80年代を代表するパンクロックバンド「THE MODS」をお届けしましたが
今回は1976年にデビューしたが、なぜかメジャーになれず知る人ぞ知ると言われた
伝説のロックンロールバンド「CERRY BOYS」をお届けしたいと思います
 
 
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1960年代が終わりを告げようとしてた時代・・・
 
ヒッピーに端を発したアメリカンカルチャーは日本に輸入され
フーテン族を生み出し学生たちは「革命」を合言葉に学生闘争を始めた
 
1970年代に入り赤軍派による「よど号ハイジャック」「浅間山荘事件」が終焉し
日本は「しらけ時代」と言われる時代に突入した
 
そんな時代に若者に支持されたのが「貧乏」「苦労」「絶望」等のネガティブなキーワード
後に四畳半フォークとも揶揄されたフォークミュージックだった
 
そんなアコースティックギターの音色が充満してた日本の音楽業界に
風穴を開けたのが1972年にデビューしたリーゼントに革ジャンパーという出で立ちで
パワー溢れるロックンロールを奏でたキャロルだった
 
キャロルは時代を圧巻したが永ちゃんジョニーの確執から
実質活動期間3年弱という短命に終わった
 
キャロルの後継者として1975年にデビューしたのがキャロルラストライブで親衛隊を務めた
黒い大型バイクを操る舘ひろし氏率いるクールスだった
 
8ビートのブリティッシュサウンドをルーツに持つキャロルと異なりクールスは4ビートを基本とする
アメリカンサウンドを奏でるロックンロールバンドとして若者に支持される
 
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クールスは当時のヤンチャな10代の若者に熱狂的に支持されたが
彼らは殆どテレビ出演をする事はなかった
 
ブラウン管に映し出されるロックンロールバンドと言えば1974年にデビューした宇崎竜童率いる
白い作業ツナギにリーゼントという出で立ちのダウン・タウン・ブギ・ウギ・バンドだけだった
 
クールスがデビューを飾った翌年の1976年に一つのロックンロールバンドが密かにデビューした
 
そのバンドが今日ご紹介する柳田ヒロ氏がプロデュースした
チェリーボーイズというロックンロールバンドだった
 
バンド名がイカシテルよね~
チェリーボーイズ、「童貞」だからね~ 笑!
 
 
 
初恋天国/チェリーボーイズ 1976 作詞/小池敏之 ・ 作曲/松下敏 ・ 編曲/柳田ヒロ
 
 
僕の年がシックスティーンで 君はたしかセブンティーン
初めて会ったあの日から 僕のハートはロッキード
お空の上を飛び回り 着陸するのは忘れたさ
 
君は一つ年上で 澄んだ瞳はチャーミング
毎日電話をかけたっけ 声がとてもイカシタぜ
 
あの頃はとても 素敵な毎日
わかるだろう この気持ち ステキなステキな初恋
 
土曜の夜は踊りに行ったのさ あの娘は一際目立ったのさ
ダンスはいつも一緒さ 他の娘とは踊らない
 
二人で飲んだクリームソーダ 甘くてぴったりさ
二人の影はいつも一緒さ 
 
あの頃はとても 素敵な毎日
わかるだろう この気持ち ステキなステキな初恋
 
 
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1976年1月1日にリリースされたデビューシングル「初恋天国」
同年5月25日に写真冒頭左のファーストアルバム「STEP」がリリースされた
 
ボーカルのトミーは1973年~1974年頃、新宿あたりでハコバンやってたそうだ
いろんなバンドを転々としながら原宿のレオンや表参道のグラスに出入りしてたそうだ
 
レオンは当時クールスのメンバーもよく出入りしてた伝説の喫茶店で
グラスはクールスのボーカリストのムラさんが勤めていたブティックだ
 
 
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トミーはインタビューでこう語っている
 
友達としてはチェリーボーイズのメンバーよりクールスの方が長いんだよね
ムラはグラスで店員やってたから知ってるしピッピも東京に出て来た頃から知ってる
 
クールスの前はマカオってグループだったね
表参道にあったレストランのスプレンドールの横にチョッパー隠してたね
 
舘ひろし君とも飲みに行った事もあったね
 
ジェームスが弾き語りしてた乃木坂の店にも遊びに行ってたね・・・
 
 
 
 
レモン・ロック/チェリー・ボーイズ 1976 作詞・吉見祐子 作曲・菅原進 編曲・柳田ヒロ
 
 
いつか二人で行った さびれた町のディスコ 二人で飲んだレモン・ロック
指をからませてお前は 俺をだまって見つめてた 甘えた瞳は帰らない
 
遠い遠い思い出だけれど 風はあの日のお前を思わせる
いつか二人で行った さびれた町のディスコ 今でもお前を探してる
 
傾いた椅子が似合う さびれた町のディスコ 二人で飲んだレモン・ロック
壁に刻んだ二人の 名前もいつか色褪せて 別れの言葉は胸に痛い
 
遠い遠い思い出だけれど 風はあの日のお前を思わせる
いつか二人で行った さびれた町のディスコ 今でもお前を探してる
 
遠い遠い思い出だけれど 風はあの日のお前を思わせる
いつか二人で行った さびれた町のディスコ 今でもお前を探してる
 
 
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六本木のロックショップっていうロック喫茶でトミーがバイトしてた頃
チェリー・ボーイズの母体となるメンバーが集まったんだそうだ
 
そこへ柳田ヒロさんからプロデュースを持ちかけられデビューする事になった
 
時代はキャロルが終わり、クールスが出て来て映画「アメリカン・グラフティー」の公開もあって
アメリカンなロックンロールでやろうって話になったそうだ
 
 
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チェリー・ボーイズの活動期間は実質6年程だったらしい
 
デビュー曲「初恋天国」とチェリー・ボーイズの代表曲「レモン・ロック」を聴いてもらったが
ボーカルのトミーはエルヴィス・プレスリーを彷彿させるようなパワフルな声量が特徴的だし
ブレス(息継ぎ)の仕方も独特で特徴的だ
 
楽曲もポップなロックンロールという感じで歌詞もわかりやすい
キャロルやクールスよりもザ・ヴィーナスブラックキャッツに近いような気がする
 
しかしなぜチェリー・ボーイズはキャロルやクールスのようにメジャーになれなかったんだろう?
アメリカンテイストが強すぎて暴走族にウケなかったからか?
 
 
 
アイム・ソーリー・マイ・ベイビー/チェリー・ボーイズ 1976 
作詞・とりづかしげき 作曲・森山進治 編曲・柳田ヒロ
 
I 'm sorry my baby もどっておくれよ
 
夕べもお前を 探していたのさ いつものディスコやコーヒーハウス
あやまりたいのさ 今までの事を 少しは大人に なったつもしさ
 
独りで泣くにはシラケる部屋だぜ 思い出ばかりが やけにうるさすぎて
二人で暮らそう あの頃みたいに だから I 'm sorry my baby もどっておくれよ
 
今夜もお前を 探しに行くのさ ばったり会うような そんな気がして
今さら何よと 言われるだろうが お前が居なくては 生きて行けない
 
独りで泣くには 夜は夜は長いぜ お前の写真が やけにまぶしすぎて
二人で暮らそう あの頃みたいに だから I 'm sorry my baby もどっておくれよ
 
 
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僕がチェリー・ボーイズを知ったのは1979年の高校1年生の夏だった
 
呉工の同級生だったGANちゃんとSHINYAの3人で夏休みに家出をして
逃亡先だった江田島の一つ上の先輩SAKAE君の家で始めて聴かせてもらった
 
キャロルともクールスとも違うテイストのロックンロールに魅了された僕は
逃亡生活を終えて家に帰ってからレコード屋さんにソッコーでアルバムを買いに行った
 
そう言った経緯があるから今でもチェリー・ボーイズを聴くと
あの暑かった高1の夏の江田島を思い出しSAKAE君の姿が目に浮かぶ
 
SAKAE君とはあの当時から一度も会っていない
 
昨年僕達が主催したクールスライブに誘おうと
手を尽くして連絡先を探したが結局連絡先はわからなかった
 
もし、この記事を読んだ方でSAKAE君の連絡先が分かる方は是非知らせて欲しい
 
と、言う事だが最後に僕がチェリー・ボーイズのナンバーで一番好きな曲である
バラードの名曲「都会の雨」をお届けして今日は終わりにしようと思います! ジャンジャン!!
 
PS
 
ご好評いただいてる「My Music Travel」ですが書庫「音楽」から新しく
書庫「My Music Travel」に独立引っ越しさせました
 
是非バックナンバーもお楽しみください!
 
 
 
都会の雨./チェリー・ボーイズ 1980 
 
窓に映るビルの谷間 濡らすさびしい雨 スピードに乗せた想い 止まらぬ俺のさびしい心
すぎて行く青い瞳 続く白いライン 面影を求めながら 俺は一人走り続ける
曇る車の窓に書いた 愛とゆう字に募る思い 震える指の先に 冷たい雨のしずく
 
出会いの日に濡れたこの雨 優しく二人を包んでくれた 愛することの喜びを 今は冷たいこの雨
夕暮れの濡れた道に 残す車の跡 揺れる心見つめあった 二人が燃えた愛は何処へ
 
出会いの日に濡れたこの雨 優しく二人を包んでくれた 愛することの喜びを 今は冷たいこの雨
曇る車の窓に書いた 愛とゆう字に募る思い 震える指の先に 冷たい雨のしずく

続・年賀切手シリーズ 1973年 丑年

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1973年(昭和48年) 色絵土器皿梅模様
 
 
さて、毎週火曜日のお楽しみの年賀切手シリーズですが今回は1973年(昭和48年)をお届けします
 
洋画、刑事コロンボの名セリフ「ウチのかみさんがね~・・・」って言葉や
1972年に選ばれた交通安全標語「せまいニッポン そんなに急いでどこいくの?」
 
って言葉が流行った1973年
 
子供達の間では大人気番組だったドリフの「8時だよ!全員集合」加藤茶が演じたストリッパーの
「ちょっとだけヨ~ あんたも好きネェ~」や時代劇「遠山の金さん捕物帳」の金さんのキメゼリフ
「これにて一件落着」が大流行した
 
そんな時代だった1973年はどんな年だったのでしょうか?
 
と、言う事でここからは1973年(昭和48年)に大ヒットした宮史郎とぴんからトリオ(後のぴんから兄弟)
「女のみち」を聴きながらお楽しみください!!
 
 
 
 
女のみち/宮史郎とぴんからトリオ(後のぴんから兄弟) 1973
 
 
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1973年の世相ニュースを振り返ると、この年に第1次オイルショックが勃発しています
 
1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発
 
これをうけて10月16日に石油輸出国機構(OPEC)に加盟のペルシア湾岸産油6カ国は
原油公示価格を21%引き上げと原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸を決定
 
さらに12月には翌1974年1月より原油価格を2倍に引き上げると決定した
石油価格の上昇はエネルギーを中東の石油に依存してきた先進工業国の経済を脅かした
 
日本でもニクソン・ショックから立ち直りかけていた景気を直撃
便乗値上げが相次ぎ急速にインフレが加速しました
 
その結果トイレットペーパーや洗剤などほとんどの物資の買占め騒動
デパートのエスカレータの運転中止などの社会現象も発生しました
 
当時小学校4年生だった僕にはオイルショックの内容はよく分かりませんでしたが
ウチでも母がトイレットペーパーを大量に買ってきたのは覚えていますね
 
 
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1973年には本州と九州を結ぶ当時東洋一の吊り橋だった関門橋が開通しました
 
本州と九州を直結させようという計画はすでに明治の頃から考えられていたそうだ
大正時代には関門隧道計画が立案されて鉄道院の地質調査が始まり
昭和初期には内務省土木局によって大架橋が計画された
 
これは関門海峡の最狭部「早鞆の瀬戸」と呼ばれる部分に吊り橋を架けるものであったが
軍部の反対に会い立ち消えになった
 
敵の攻撃目標になりやすい橋よりトンネルの方が軍事上有益というわけだ
 
関門トンネルの開通は戦時色が強まった1942(昭和17)年
関門海峡に橋が架かるのは遅れること約30年やっと1973(昭和48)年になってからだった
 
 
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写真の関門橋開通記念の切手シートは僕の切手コレクションの一部だ
関門橋は戦前に計画された幻の吊り橋とほぼ同じであるという事だ
 
と、言う事だが僕が初めて関門橋を渡り関門トンネルに足を踏み入れたのは
関門橋開通から遅れる事2年後の1975年の事だった
 
当時、長浜小学校の6年生だった僕は学校の修学旅行
関門橋・関門トンネルに初めて足を踏み入れた
 
近年では昨年まで北九州で一人暮らしをしていた次男を訪ねて
毎年GWに関門橋を渡ってましたね
 
 
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1973年に流行ったファッションに「バギー」ってパンツがあった
当時男女ともに流行した股上が深めで腿幅が広いデザインのパンツがバギーパンツだ
それまでのパンツの流行ラインはパンタロンと言われた股下が浅めで
腿がタイトなのに裾がフレアーなラッパズボンのベルボトムが主流だった
 
パンタロンに対してバギーは股下が深めで腿・裾共フレアーなラインだった
 
僕が中学生の頃の不良が愛用する学ランのパンツは呉ではヨコスカと言われた
タック入りのボンタン型のパンツかスリムが定番だったが中には
パンタロンタイプのラッパバギーを履いている人もいた
 
当時の僕はラッパやバギーの学生ズボンはダサいと思っていましたがね~ 笑!
 
僕のイメージではバギーって言えばドラマ「傷だらけの天使」に主演した俳優のショーケン
当時BIGIのデザイナーだった菊池 武夫・稲葉賀恵さんご夫婦のイメージが強いですね!
 
 
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僕が子供の頃の卓上ゲームと言えば1958年に発売開始されたエポックの野球盤
先日記事にした人生ゲームがテッパンだったが1973年にはかつて存在した日本の玩具メーカー
株式会社ツクダオリジナルからオセロゲームがリリースされ大人気となった
 
オセロをやった事ない人はいないと思うがオセロは交互に盤面へ石を打ち
相手の石を挟むと自分の石の色に変わり最終的に石の多い方が勝ちとなるゲームだ
 
まあルールは単純なんだが、けっこう複雑なゲームなんですよね
パネルクイズ「アタック25」の親戚みたいな感じと言えばいいだろうか? 笑!
 
そう言えば小学校の頃、紙にを書いて○×を交互に入れて行って
3並べをする単純な遊びが流行ったな~ 笑!
 
 
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この年にデビューした花の中3トリオは社会現象にもなった
 
山口百恵さん、森昌子さん、桜田淳子さんは3人とも当時のオーディション番組
「スター誕生」で選ばれて歌手としてデビューした
 
僕は可愛らしいイメージだった桜田淳子さんのファンになった
百恵さんと淳子さんは人気を二分したが演歌路線だった昌子さんは子供には人気がなかった 笑!
 
僕が生まれてこの方唯一ファンレターという物を書いたのも桜田淳子さんだった
 
 
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さて、お次は恒例のテレビアニメシリーズだが1973年にも個人的に思い入れのある
テレビアニメが続々と放送開始になっている
 
全部を紹介すると莫大な誌面になるから全部は紹介できないが
先ずは大人気を呼んだ横山光輝のエスパー漫画の第1回目のアニメ化「バビル2世」
 
少年・古見浩一は毎晩見る夢のイメージに導かれ突如飛来した
巨大怪鳥ロプロスに乗って砂漠の中の塔に向かう
 
それは彼の遠い先祖といえる宇宙人バビル1世が遺した科学システム・バビルの塔だった
 
ロプロス・ロデム・ポセイドン、三つのしもべを従える超能力者バビル2世となった浩一だが
その彼の前にもう一人の1世の末裔で世界制覇の野望に燃える男ヨミが現れる・・・
 
「♪す~なの嵐にまもら~れた~ バビルの塔に住んでいる ちょ~のうりょく少年バビル2~世・・・」
 
怪鳥ロプロス、海神ポセイドン、黒豹のロデム、カッコよかったっすね~!
 
 
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女子バレーを描いたサインはVに続き、世にテニスブームを巻き起こした
スポ根少女漫画の決定版「エースをねらえ」
 
高校テニス界の名門・西高で先輩である天才プレーヤー・竜崎麗華に憧れて入部した岡ひろみは
新たに赴任した鬼コーチ・宗方によって突然代表選手として抜擢されてしまう
その事により周囲との軋轢に苦しむ彼女だがやがてその秘めたる才能を開花させていく・・・
 
まあ当時から「ありえん!」と皆でツッコんでいたのが高校生のくせに茶髪の巻き髪を振り乱して
テニスするお蝶夫人、高校生なのに「夫人」ってのは何なんだ? 笑!
 
OP曲の「♪コ~トでは~誰でもひとり ひとりきり~」ってのも懐かしいが個人的には
EDの「♪夕焼けのテニスコートで折れたかわいそうなラケットを見たわ・・・」って
切ないバラードの「白いテニスコート」が感慨深い! 笑!
 
 
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数年前に人気歌手の倖田 來未が主題歌をリメイクしてブレイクした
永井豪の原作によるスーパーレディ・アクションアニメ「キューティー・ハニー」
 
科学者・如月博士は、宝石など希望の物質を自在に実体化しうる空中元素固定装置を完成させる
これを狙うのは女性サイボーグ戦士を主力とする国際犯罪組織パンサークローだ
 
絶命する博士だが装置は彼の娘として養育されていたスーパーアンドロイド
如月ハニーの体内に隠されていた、ハニーが変身、パンサークローに挑む・・・
 
う~ん、僕が子供の頃のアニメの3大エロキャラは、ルパンの峰不二子
メルモちゃん、そして間違いなく如月ハニーだったでしょうな~ 笑!
 
他にも1973年には「キャシャーンがやらなきゃ誰がやる?!」の「改造人間キャシャーン」
「ドロロン閻魔くん」、「侍ジャイアンツ」が放送開始になっている
 
 
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さて映画界に目をやると個人的には1973年は何と言っても「仁義なき戦い」でしょうな~!
 
この年には仁義なき戦いは「広島死闘篇」「代理戦争」と計3本も封切られている
 
是非とも「仁義なき戦いミュージアム」の建設を実現してほしいですな~! 笑!
 
 
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さて、1973年の日本歌謡界に目をやると、この年は後世に残る名曲や
個人的にも思い入れがある曲が目白押しです
 
先ずは歌謡曲で言うとジュリー「危険なふたり」、ちあきなおみさんの「喝采」
天地真理さんの「恋する夏の日」「若葉のささやき」、TBSのホームドラマ「時間ですよ」
挿入歌になり大ヒットした浅田美代子さんの「赤い風船」
 
フォークからはガロ「学生街の喫茶店」、かぐや姫「神田川」、チューリップ「心の旅」
そんな中で迷いに迷ったんですが個人的には宮史郎とぴんからトリオ「女のみち」を押したい
 
当時小学校4年生だった僕は演歌にあまり興味はありませんでしたが
今思えばこの曲こそ「THE 昭和歌謡演歌」だと思うんです
 
ピンカラトリオのグループ名の由来は「ピンからトリを」だそうでボーカルの宮史郎、実兄の宮五郎
並木ひろしの3人でデビューしたがギャラや印税を分ける事がもったいなくなったという事で
兄弟は並木ひろしを切ってぴんから兄弟になったと当時聞いた事がある 笑!
 
ま、あくまで当時の噂の記憶ですから確証はありませんぞ 笑!
 
CKB横山剣さんもぴんから兄弟のファンで確か宮史郎さんと数年前に共演したような・・・
しかし残念な事に宮史郎さんは2012年に69歳という若さで鬼籍に入られました
 
 
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1973年当時、ウチの実家の隣に住んでいた男3人所帯だったNさんご一家
母の隣の長男さんをブンブン、その隣の次男さんをナマズと僕は呼んでいた
 
ナマズさんに僕は可愛がってもらい「平凡」「明星」の芸能雑誌を借りたり
歌謡曲やフォーク、ロックと多彩なジャンルのレコードもよく聴かせてもらった
初めてキャロルを聴いたのもこの頃でナマズさんに聴かせてもらったんですよね
 
蝶の標本を作る事もナマズさんに教えて貰った
二人でよく裏山に蝶を採りに行ったし、灰ヶ峰にも蝶採集に連れて行ってもらった
 
もう何十年もご家族に会っていないが元気なんだろうか・・・?
 
ちなみに僕が被ってる帽子はまだ赤ヘルになる前のカープの帽子ですね
と、言う事で今日はこれまで!来週は1974年(昭和49年)寅年やります!
乞うご期待! ジャンジャン!!

青春時代の教科書

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1976年に創刊された「popeye(ポパイ)」という男性ファッション誌
昭和に青春時代を送った男でポパイを見た事ない人はいないのではなかろうか?
 
1960年が終わりを告げる頃、学生は「革命」を旗印にヘルメットを被り武器を持ち安田講堂を占拠した
1970年代初頭、クーデターを呼びかけた三島由紀夫は割腹自殺し
やがて学生闘争は終焉を迎え燃え尽き症候群に陥った若者はシラケていた
 
ヒッピーに端を発した日本のフーテン族はサイケデリックファッションと言われた
長髪にベルボトムのGパン、グラスのジャケット、ホソノのロンドンブーツに身を包み
マリファナやシンナーに覚醒しハードロックに心酔した
 
行き場を失った若者はナナハンやシャコタンを手に入れ
暴走する事で若いエネルギーを発散するようになる
 
そんな時代にポパイは創刊された
 
現代のように多ジャンルの男性ファッション情報誌が巷に溢れていなかった1976年
ポパイの誌面には、まだ海を渡った事がない当時の日本の若者が
見た事もないアメリカ西海岸の景色が広がっていた
 
 
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2016年、そんなポパイも今年の6月で創刊40周年を迎えた
 
先日発売になったポパイ最新号は創刊40周年を記念して
1976年に発売した幻の創刊号を完全復刻するという形の付録が付けられた
 
と、いう訳でさっそく僕も昭和の記事を書く資料としてポパイ最新号を購入してみた
ちなみに以下の写真は1976年に発売されたポパイ創刊号からの抜粋です
 
 
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創刊号復刻版は当時と同じA4変型サイズで展開し当時の写真や記事、レイアウトなどをそのまま再現
 
当時のロサンゼルスで最も人気だったスニーカースケートボードを集めたカタログをはじめ
カリフォルニア美女のスナップ、名門のカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のリポートなどの
コンテンツが198ページにわたって掲載されている
 
 
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現ポパイ編集長の木下孝浩氏
 
「若い読者に40年前の『POPEYE』を読んでもらいたくて創刊号を付録にしました
インターネットも携帯電話もなかった時代、好奇心と情熱だけで作った一冊
今の編集者の教科書のような存在です」
 
とコメント
 
創刊40周年記念号は創刊号と同じアメリカの西海岸を特集し
創刊号と比較して楽しめる内容に仕上げられている
 
 
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ポパイ創刊当時、ポパイほど若者の憧れを一身に集めてきた雑誌は過去なかった
 
1976年に創刊するや、若者の文化やファッション、生き様にすら影響を与え
人生の指標たるバイブルとして君臨してきた
 
当時それは“社会現象”と言っても過言ではなかった
 
 
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現代でこそSNSの発達で世界のニュースをリアルタイムで知る事が出来るが
昭和のあの時代は海外の若者が、どんな服を着て、どんな遊びに興じ
どんなライフスタイルを送っていたのかなんて知る由もなかった
 
今でこそ「東京発」とか「COOL JAPAN」なんて日本は世界の最先端とも言えるが
あの時代の日本は欧米に一歩も二歩も遅れていたのだ
 
 
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1975年に小学校6年生だった僕は呉の長浜という田舎の普通の子供だった
 
今では「スニーカー」という言葉なんて当たり前だが
ウチの母なんてスニーカーの事を「ズック」とか「運動靴」って言っていた
 
そりゃそうだ、舶来物なんて簡単に買えるような時代じゃなかった
国産の「月星」辺りの運動靴くらいが関の山でしたからね~ 笑!
 
だから僕はポパイの創刊なんて1976年当時は知る由もなかった
この手の雑誌を初めて見たのはおそらく1978年の中学3年生くらいの時だったと思う
 
ポパイだったかどうかはハッキリ記憶していないがトップサイダーのキャンパススニーカーや
オールスターのコンバースも雑誌で見て憧れ何とか手に入れた
 
あの時代の僕の青春の教科書は「オートバイ」「ホリデーオート」「ポパイ」だったのだ 笑!
 
 
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しかし当時の日本は日本独特の文化でもある暴走族も主流の一つだった
 
僕の世代の僕の周りの友人には高校時代くらいに
ポパイを読んでるような洒落た奴なんて殆どいなかった
 
真面目な優等生達はどうだったか知らないが自分を含めたヤンチャ系な奴は
ヤンチャにふさわしいような、それなりの恰好をしていたものだ
 
僕がファッション系の雑誌を本格的に見始めたのは18歳頃の美容学校の終わり頃だったかな~
ミヤニシ入社頃はDCブランドの全盛期だった事もあり「dansen」って男性ファッション誌をよく読んだ
てか、今でもdansenってあるのか? 笑!
 
MENS’CLUB、通称「メンクラ」もあの時代はよく読んでましたね~
 
あの頃ミヤニシのお洒落な先輩達はDCブランドに傾倒してましたが
女性はDCの人もいたけど、ニュートラとかハマトラって言われてた恰好の人が多かったような気がします
お嬢様風な感じって言えばいいのかな~? 笑!
 
 
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と、僕の思い出話はこれくらいにしますが(笑)今現在1976年創刊の
ポパイ創刊号を見るとさすがに時代性を感じますね~
 
あの時代、コンバースアディダス、ナイキ、ブルックスのスニーカー辺りが最先端だったんですな~
今じゃABCマート辺りで一山ナンボの扱いですがね~ 笑!
 
ま、あの時代のスニーカーは本国生産だったけど今じゃ殆どが中国製ですからな~
デザインは似たような感じではありますが個人的には当時物とは別物に見える
 
てか、当時物のデットストック辺りをたまに見かけますが恐ろしいくらいの値段が付いてますね 笑!
 
 
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と、いう事ですがポパイ40周年と言う事で40周年記念号の制作過程に密着した
ドキュメンタリー番組「2016年のシティボーイ -POPEYE創刊40年」
WOWOWプライム6月17日23時から放送されるそうですぞ
 
特番「2016年のシティボーイ -POPEYE創刊40年」では40周年記念号の編集作業から
店頭に並ぶまでの期間、木下考浩編集長や編集者に密着
 
木下編集長へのインタビューのほか、創刊当時のスタッフも出演し
「ポパイ」の雑誌作りの鍵を探っていくそうです
 
まあウチはWOWWOWは契約してないから見れないんですけどね 笑!
 
 
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ポパイ最新号の40周年記念号では創刊号の「カリフォルニア特集」への原点回帰として
最新の西海岸・カリフォルニアを現POPEYE編集部が総力取材しています
 
もとよりポパイの熱心なファンでもあった木下さんが編集長に就任したのは2012年
編集長とは雑誌の顔だが編集長が変われば同じタイトルの雑誌でも
性格がガラッと変わり読者層すら変えてしまう事もある
 
今でこそポパイといえばシティボーイというキーワードがすぐ頭に浮かぶが
実は2012年以前は表紙から「Magazine for City Boys」のキャッチコピーが姿を消していた
 
それを復活さ、再び現代のシティボーイたちのハートを掴んだのが木下さんだ
 
更には6月13日(月)、その創刊メンバーで元編集長の石川次郎さんと
現編集長の木下孝浩さんによるトークショーが代官山 蔦屋書店で行われたそうだ
 
テーマは「僕とポパイ」、かつてシティボーイだった大人から現在のシティボーイ読者に贈る
今なお色褪せない雑誌「POPEYE」の魅力を知ることができる一夜限りのイベントとなったそうだ
 
てか、シティーボーイって言葉って死語じゃなかったんですな~ 笑!
 
と、いう事で気になった方は是非書店にてポパイをご購入下さいね! ジャンジャン!!

歯痛につき・・・

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歯が痛い!!  笑!
 
先週の土曜日あたりから痛み出した歯痛が治らない
と、いう訳で先日の月曜日から歯医者に通っています
 
掛かりつけの歯医者は僕がミヤニシ在籍中の20歳の時から通ってる呉警察署の隣りにある川本歯科
1984年当時、川本歯科は当時のミヤニシがあった中通りの三和ビルの隣にあったから
仕事を抜け出して治療に行くのに便利が良かった 笑!
 
1984年、ロンドンに研修に行く前に虫歯を全部治療してもらった事が始まりだった
せっかく高い金出してロンドンに行くんだからロンドンで歯痛になっちゃ~シャレにならんですからね
 
 
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現在も痛み止めを飲んで仕事してます
 
と、いう事で今日は落ち着いて記事が書けないから”これまで”! 笑! ジャンジャン!!

男の修行(ゴルフ編)

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6月13日月曜日、早朝・・・
 
 
今週の月曜日も19日日曜に行われるハッピーボーイズゴルフコンペに備えて
またしても早朝4時に家を出て竹原市の瀬戸内ゴルフリゾート早朝ゴルフに行った
 
 
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スコアに関しては何も言うまい 笑!
 
あくまで今は修行の身である
 
 
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午前10時過ぎにはホールアウトしたが この時僕は歯痛がピークに達しており
一刻も早く帰って歯医者に行きたかった 笑!
 
 
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と、いう事なのだが先日5月30日に参加した後輩グッチが主催した
第5回ゲットオートサービスゴルフコンペの写真がお礼状と共に送ってきた
 
気の利いた嬉しい配慮ですよね!
 
 
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こんな写真を撮られてたなんて知らなかったぞ 笑!
 
ティーショットとバンカーショットだと思うがティーショットは右に体重が残り
バンカーショットはヘッピリ腰に見える・・・
 
う~ん、この時のショットが上手くいったのかどうかはわからないが
自分で自分の写真を見て美しいとは思えない 笑!
 
さてさて、日曜日に向けて男の修行を続けないといけないな~! 笑! ジャンジャン!!

男の修行(釣り編)

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早朝ゴルフから帰った某(それがし)はソッコーで歯医者に行って
午後から今度はと称した男の修行に向かったのでござる
 
痛む歯を我慢してまで某が戦に出向いた理由とは・・・
 
 
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実は某に弟子が出来まして・・・ 爆!
 
な、な、何と水産業者の山守の親分が何としても真鯛50cmオーバーが討ち取りたいと・・・
 
そんな山守の親分の願いを叶えるために少しでも参考になり役に立てばと言う事で
戦の戦略や戦術をレクチャーしながらの戦いとなったのでござる
 
 
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しかしゴルフと違って戦には相手がありシーズンという物があるので悠長には出来ない
 
当日も下げ潮だったので分が悪いとは思いながら戦に挑んだが
何とか真鯛家の顔は見る事は出来た
 
 
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小気味よく竿を曲げたのはチヌ家の38㎝の武将だった
 
 
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某がチヌ家を討ち取ると、なぜか決まって待ってたかのように蛸壺殿が現われる
 
どこかから双眼鏡で物見でもされておられるのか・・・? 笑!
 
 
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早瀬大橋に明かりが灯った夕マズメ
モンスター級の真鯛家が出るかと夜9時まで粘ったがモンスターは現れなかった
 
と、いう事だが夜も更けて暗くなったという事で釣果の写真を撮り忘れた
当日は真鯛家×4、チヌ家×1、メバル家に至っては20数匹爆釣だった
 
しかし某の目標はあくまでモンスター級の真鯛家
おそらく真鯛家との戦も今月いっぱいくらいが最終戦になると思われる
 
是非、山守の親分と喜びを分かち合いたいものだ! 笑! ジャンジャン!!

続・年賀切手シリーズ 1974年 寅年

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1974年(昭和49年) 梅竹透釣灯ろう
 
 
さて、毎週火曜日のお約束、シリーズ「年賀切手シリーズ」ですが
今日は1974年(昭和49年)寅年をお届けしようと思います
 
いよいよ昭和40年代が終わりを告げる1974年はいったいどんな年だったのか?
 
この年僕は小学校の高学年になる5年生になった年でしたが
さっそく1年を振り返ってみたいと思います
 
本文は1974年(昭和49年)に大ヒットしたフィンガー5
「恋のダイヤル6700」を聴きながらご覧ください!
 
 
 
 
恋のダイヤル6700/フィンガー5 1974
 
 
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1974年はスポーツ界に大きなニュースがいくつかありました
 
ガッツ石松がボクシング世界チャンピオンに、北の湖が史上最年少(21歳2か月)で
第55代横綱昇進と言う快挙を成し遂げました
 
が、何と言ってもやはり1974年の日本スポーツ界の一番の大ニュースは
長い間、巨人軍、いや、日本プロ野球界の人気を牽引してきたミスタープロ野球
長嶋茂雄さんの引退でしょうな~
 
当時セ・リーグのお荷物球団と揶揄されていた我が広島カープは
V9を達成するなど数々の快挙を成し遂げて来たジャイアンツには散々辛酸を舐めさされていた
 
ジャイアンツ戦のテレビ放送が終わってラジオに切り替えて試合の経過を聞いてたら
ここぞという場面で長嶋・王のONコンビニしてやられた
 
カープファンは往々にしてアンチ巨人ファンなんです
 
しかし僕は天敵巨人軍長嶋茂雄の引退は決して嬉しいとは思わなかった
強い巨人を弱いカープが倒す事が快感だったんですよね
 
1974年10月14日後楽園球場、カクテル光線に照らされたミスターG 栄光の背番号「3」
「我が巨人軍は永久に不滅です!」
という名言を残し静かにバットを置いたのでした・・・
 
 
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1974年は超能力者と言われたユリ・ゲラーの出現で超能力ブームが巻き起こった年でした
ユリ・ゲラーはイスラエル生まれのハンガリーユダヤ人の奇術師だ
 
いきなり当時の人気番組だった「11PM」「木曜スペシャル」に登場し
スプーン曲げやテレビの画面を通じて念力を送ることで止まっていた時計を動かすといった
パフォーマンスで日本での超能力ブームの火付け役となった
 
誰もが当時スプーン曲げに挑戦したんじゃなかろうか? 笑!
確か当時、誰でも曲げられるダミーのスプーンのオモチャも出回ったぞ 笑!
 
ブームが去った後は詐欺師とも言われ裁判沙汰にもなったんじゃなかったっけ・・・?
まあ詐欺師と言われても超能力なんて信じる方が可笑しいんですけどね~ 笑!
 
そんな事言ってたら現代においても前世が見えると言い張る天草四郎の生まれ変わりの
黄色い髪のオジサン?オバサン?の方が個人的にはよっぽど怪しいと思うけどな~ 爆!
 
 
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ブームと言う事で言えば1974年はいろんなブームが起きた年だった
 
宝塚の月組が演じたベルサイユのばらに端を発した「ベルばら」ブームも1974年の事だった
 
いや~ 僕は男の子だから原作の漫画も宝塚の舞台も興味もなかったし見た事もないけど
オスカルとアンドレの禁断の恋の物語って事くらいは認識してました
 
てか、手塚治虫先生の「リボンの騎士」はこれらの宝塚劇団がヒントになって
出来た作品だったって事くらいは知ってましたがね
 
1974年に最初期のベルばらを演じた方達も立派なお婆さんになってるんでしょうな~ 笑!
 
 
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女の子の人気を得たという点においてはタータンチェックに身を包んだイギリス・スコットランド出身の
ロックバンド「ベイ・シティー・ローラーズ」が流行ったのも1974年だった
 
レスリー・マッコーエン(リードボーカル)、エリック・フォークナー(リード・ギター)
スチュアート・ウッディ・ウッド(サイド・ギター後にベース)、アラン・ロングミュアー(ベース)
デレク・ロングミュアー(ドラム)という5人編成になってから「バイ・バイ・ベイビー」「サタデー・ナイト」などの
ヒット曲を生み出し本国イギリスを皮切りにアメリカや日本など世界中で人気を博した
 
まあ僕はそれほど興味があった訳でもなかったがクラスの女の子も
キャーキャー言ってたからある程度の事は知っていた
 
てか、個人的にはピンクレディーのファーストアルバムのB面がベイ・シティー・ローラーズの
カヴァー曲で埋め尽くされていた事の方が思い出深い 笑!
 
 
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更に女の子の間で超人気になったのが東京都葛飾区の人形メーカー・株式 会社セキグチによって
製造・販売されている猿に似た妖精の生き物をイメージした人形の「モンチッチ」だった
 
キャラクター人形の大ヒットは1960年代に大人気だった「ダッコちゃん人形」以来じゃなかろうか?
 
もちろん僕はまったく興味もなかったが家にモンチッチがあった事は覚えている
たぶん妹が買ってもらった人形だったんじゃないかと思う 笑!
 
 
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女の子がモンチッチなら男の子の間で大人気になったのが
テレビアニメで人気があったマジンガーZ超合金だった
 
マジンガーZの超合金が販売になったのも1974年の事だった
この後グレートマジンガーの超合金も販売になった
 
写真↑の超合金は当時物らしいが腕が片方取れている
ロケットパンチを打って紛失したんだろうか? 笑!
 
ちなみに僕は先日記事にした5月いっぱいで店仕舞いした
呉の老舗玩具屋さんの「みどり屋」さんで当時買ってもらった
 
 
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その他に1974年に流行?(笑)した事にストリーキングという行為があった
ストリーキングとは口語で「全力疾走する」の意味の動詞streakの動名詞形がstreakingです
 
1974年に流行ったストリーキングと言うのはパフォーマンスで
人が公共の場で素っ裸で走る行為の事をそう呼んだ
 
しかし僕は未だ以て、なぜ当時ストリーキングが流行ったのかはよく分からない
何かに反対・反抗するデモ行為だったのか?
それともタダの愉快犯だったのか・・・?
 
 
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さて、1974年に放送が始まったアニメにカルピス漫画劇場シリーズで放送された
高畑勲・小田部羊一ら本邦アニメ界の巨匠が集結した名作アニメ「アルプスの少女ハイジ」があった
 
昨今、家庭教師のトライのCMでパロディーっぽく使われていますよね 笑!
 
両親のいない少女ハイジは親戚をたらい回しされた末
アルプスで牧畜を営む偏屈な祖父に預けられる
 
やがて祖父と絆を強め合うハイジだが彼女は財産家の娘
クララの遊び相手としてフランクフルトに連れていかれた
年上で足の悪いクララとハイジは次第に強い友情を結んでいくが…
 
この後もカルピス漫画劇場は次々と話題作が放映された
 
 
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漫画家・園山俊二の「はじめ人間ゴン」と「ギャートルズ」を原作とする原始時代コメディの
「はじめ人間ギャートルズ」も思い出深いテレビアニメだった
 
まだ文明の影もなく水平線がどこまでも続くギャートルズ平原
そこに原始人=はじめ人間が暮らしていた
その中の一家族の少年ゴンは類人猿のドテチンが友だち
 
お酒好きで怒るとこわいが男らしくて優しい父ちゃんから狩りを学び立派なはじめ人間に成長していく
カタキバオレマンモスやヒネモグラたちも、この時代の愉快な仲間だ・・・
 
個人的には「はじめ人間ギャートルズ」のかまやつひろしさんが歌った
EDテーマの「やつらの足音のバラード」は今聴いても名曲だと思う
 
「♪なんにもない なんにもない まったくなんにもない うまれた うまれた なにがうまれた・・・」
 
今でもこの曲を聴くと胸がキュンとしますね・・・
 
 
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松本零士さんが描いた壮大なSF設定とロマン溢れる物語
 
精緻なメカ戦などの魅力から第一次アニメブームの旗手となった本邦アニメ界の金字塔
「宇宙戦艦ヤマト」が始まったのも1974年の事だった
 
西暦2199年、謎の異星人ガミラスの発射する遊星爆弾によって壊滅寸前となる地球
だが14万8千光年彼方のイスカンダル星の女王スターシャは地球に救済の手を差し伸べる
 
異星の超技術で建造された宇宙戦艦ヤマトで浄化装置コスモクリーナーを取りに向かう人類
だがその行く手をガミラス軍が阻む・・・
 
僕は劇場版も「さらば宇宙戦艦ヤマト」共観に行ったしサントラ盤も映画パンフレットも未だに持っている
数年前にキムタク主演の実写化されたヤマトも観に行った
 
「さらば・・・」の劇場版は僕が中3の1978年だったと記憶している
当時の不良仲間に観に行くという事が恥ずかしくて言えずこっそり一人で観に行って涙した! 爆!
 
 
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さて、映画界で1974年と言えば個人的にはカンフー・アクションにスパイ・サスペンスを融合させ
復讐、裏切り、陰謀といった要素を間断なく展開させた故ブルース・リーの最高傑作アクション
「燃えよドラゴン」を押したい
 
この作品で僕は少林寺拳法という格闘技の事も知ったしドラゴンが使うヌンチャクに憧れた
 
祭りの太鼓のバチに鎖を取り付けてヌンチャクを自作した
カッコつけて自作ヌンチャクを振り回していて何度自分の頭を叩いたか・・・ 
 
当時男の子は誰でも一度は「アチョ~」って真似たと思う 笑!
 
 
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日本歌謡界に目をやると1974年のヒット曲も個人的には思い入れのある曲や
思い出深い曲が目白押しだ
 
小坂明子さんの「あなた」中村雅俊さんの「ふれあい」を聴くと今でも涙腺が緩みそうだ 笑!
西城秀樹さんの「激しい恋」も思い出深い
 
当時は演歌全盛期と言う事で演歌界にもヒット曲が目白押しだった
殿さまキングス「なみだの操」を筆頭に中条きよしさんの「うそ」、渡哲也さんの「くちなしの花」・・・
 
そんな中で僕が押したいのはフィンガー5の最大のヒット曲になった「恋のダイヤル6700」
僕が初めて自分で買ったレコードがフィンガー5の「個人授業」だったという事もあり
当時僕はフィンガー5には並々ならぬ思い入れがあった
 
フィンガー5は皆さんもよく御存じのようにマイケル・ジャクソンが所属していた
アメリカのジャクソン兄弟で結成されたジャクソン5のパクリみたいなもんだ
 
実際にフィンガー5のファーストアルバムのB面は全てジャクソン5の和訳カヴァーだった
フィンガー5のボーカルのアキラのトンボメガネは大流行しましたね!
 
 
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1974年に小学校5年生になった僕は入部した長浜スポーツ少年団(現・長浜ジュニア)
主にバレーボールをやりながらもソフトボールやその他の競技にも精を出していました
 
↑の写真の僕が着ているのが当時のスポーツ少年団のユニフォームですが
背番号は6年生になった時にもらえるという決まりで6年生になった時の僕の背番号は「6」だった
 
スポーツ少年団の卒団合宿で大久野島に行った6年生の時の事は今でもよく覚えてる
 
僕は当日風邪をひいて熱があったのに無理して行ったんですよね
最後の最後だったし仲間と外泊するなんてめったに出来る事じゃなかったですからね
 
合宿当日僕は皆と一緒に泳いで夜に熱が40℃も出た
慌てた監督は救急艇を手配して本土の病院に連れて行ってくれた
 
その監督が数年前に閉業した長浜の「胡子湯」多賀谷のオジサンだった
 
僕はスポーツ少年団に入ってた仲間に連絡して胡子湯の最終日に風呂に皆で入りに行った
監督さんは凄く喜んでくれて「あの頃はえかったの~」って遠い目をされた
 
今思えばあの頃は長浜というド田舎の地域の皆さんに本当に世話になってたと思うし
大人の皆さんに見守ってもらっていたんだとつくづく思う・・・本当に感謝してますね!
 
と、言う事ですが今日はこれまで!次回は1975年(昭和50年)卯年やります
乞うご期待! ジャンジャン!!

D/A/N/P/A!! in Kure

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来たる7月9日土曜日19:00~22:00 呉森沢ホテルにて(株)ペアーレ主催の
 
「SUMMER NIGHT PARTY in Kure」
 
と題されたディスコパーティーが開催されます
 
パーティーは3部構成になってるようで
 
「70年代Disco HITS」 「J-POP Mix」 「80~90年代 EUROBEAT HITS]
と、各年代、ジャンルに分かれているようです
 
チケットは税込1ドリンク付きで前売り¥2500、当日¥3000
前売りチケットはペアーレれんがどおり(0823)20-6311
森沢ホテル(0823)21-5188で絶賛発売中です
 
昭和の時代に青春を送った呉のOLD BOY&GIRLの皆さん
あの頃の時代に戻って一夜の青春を楽しみましょうぞ! 笑!
 
と、いう事ですが1978年の中3の時にディスコデビューをした僕にとって
ディスコミュージックの代表曲と言えば何と言っても”コレ”↓でしょう!!
 
 
 
恋のナイト・フィーバー/1977 ビージーズ
 
 
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昨年のダンパは10月2日に行われたんですよね
 
僕は10月末に呉オールドモータースクラブが主催したCOOLS LIVE
会場下見という名目で会場見学を兼ねての参加だった
 
と、いう事だったが青春時代にディスコで流れてたナンバーを聞くと
超懐かしくて下見と言う事も忘れて不覚にもフロアで踊ってた 笑!
 
去年のダンパの記事  http://blogs.yahoo.co.jp/prains237/14273019.html
 
今回もし行くとなれば十二分に堪能しようと思います!
 
こんな曲↓が流れる事を期待してます! ジャンジャン!!
 
 
 
 
ダンシング・シスター/ノーランズ 1980

第88回ハッピーボーイズゴルフコンペ

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6月19日日曜日 天気 雨後曇り
 
2016年も気が付けば6月の後半と言う事で今年も約半分が終わった
 
と、いう事で個人的に今年前半期のゴルフの集大成と位置づけていた
第88回目のハッピーボーイズゴルフコンペに参加した
 
いや~ハッピーボーイズも88回目を迎えたのか・・・
思い返せば僕が25歳くらいの時に仲間15人位で始めたハッピーボーイズも約28年の歴史を迎えた
 
初代幹事でもありハッピーボーイズの名付け親でもある僕にとっては一際感慨深い
 
ハッピーボーイズと名付けた時にはネズミ講みたいな名前だと揶揄もされたが(笑)
歴史を積み重ねる事で呉でも認知された老舗のゴルフコンペへと成長したと思う
 
 
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あの頃はバブル期でもあり空前のゴルフブームが起きて猫も杓子もゴルフを始めた
最初15人くらいの仲間内だけで始めたハッピーボーイズも急激にマンモスコンペになった
 
その後僕のメインの趣味が釣りへと移行した事もあり僕は幹事を退き
2代目幹事をGANちゃんが引き継いだ
 
88回目を迎えた現在でも約20組もの人が集まるのも3代目幹事のクワバラのアニキの人徳だと思う
 
今後も益々繁栄し100回記念30周年記念を皆で祝える事を切に願っている
 
 
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と、いう事なのだがハッピーボーイズ草創期のメンバーであるにも関わらず
僕はハッピーボーイズゴルフコンペでの優勝経験がない 笑!
 
おそらく草創期のメンバーで優勝未経験者って僕だけじゃなかろうか?
 
まあ下手だから仕方ないとも言えるのだが(笑)もなかった
中途半端に2位や3位になって優勝する前にハンデがどんどん減っていった
 
しかし現在の僕のハンデは「19」だから「91」でプレー出来ればイーブンパーと言う事だ
 
ゴルフを始めてこの方初めて真面目に練習を継続してるからそろそろ優勝したいとは思う
優勝するためには僕が昨今目標としてる80台を出せば射程圏内には入れるんじゃないかと思う
 
まあハッピーボーイズゴルフコンペは他のどのコンペよりプレッシャーがかかるんですがね 笑!
 
 
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コンペ当日は梅雨と言う事もあり前夜から激しい雨が降っていた
 
スタート直前の開会式の時には豪雨でスタートも危ぶまれたが
何とスタート時間に合すようにピタッと雨が降りやんだ
 
更にはラウンド中には晴れ間が覗くなど奇跡的な天候回復をみせた
 
 
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と、いう事だが残念ながら今回も僕は優勝とはならなかった
優勝者は広島市在住の先輩のゴクウちゃん、おめでとうございます!
 
僕はネットで1オーバーと言う事で4位と言う事だった
4位は残念なようだが実は僕はラッキーだと思っている
 
これがネットでアンダーを出したり、また下手に2位や3位に入るとハンデがカットされる
そうなると、ますます優勝から遠ざかってしまいますからね~ 笑!
 
次のハッピーボーイズゴルフコンペは9月の第3日曜日
それまでまた男の修行を積み重ねて良い報告記事が書けるように精進したいと思います
 
と、いう事で今日はこれまで! ジャンジャン!!

2016春の戦終い

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6月20日月曜日 天気 曇りのち雨
 
 
さて、3月下旬から始まった春の真鯛家との天下分け目の決戦も
6月が終わるという事で真鯛家の乗っ込みシーズンも終わり戦終いと相成りました
 
今年の春の陣はチヌ家との戦を避け、某(それがし)は真鯛家一本に絞った戦を繰り広げた
「大きな敵を討ち取りたい」と言うのは武士の本能でござる
 
昨年念願だった50cmオーバーの52cmチヌ家を討ち取った某は
実は燃え尽き症候群に陥っておりました
 
その燃え尽き症候群に再び火を付けたのが
体格ではチヌ家を軽く上回る真鯛家との戦いだったのでござる
 
しかも某は船釣りやボートフィッシングではなく陸地からのフカセの細仕掛けで
80cmオーバーの敵将を討ち取ると心に決めての戦でござった
 
そして今年、4月の末には63cm、6月上旬には71cmと次々に自己記録を更新した某でござったが
あくまで目標は80cmオーバーのモンスター級との出会いでござる
 
と、いう事で某は春の陣最後のチャンスを賭けて先日月曜日に戦に臨みました
時は早朝4時半、さあ!出陣じゃ~!!
 
 
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当日は下りの大潮で干潮が未明3時半という潮でござった
 
前日のハッピーボーイズゴルフコンペの打ち上げで無理やり”イッキ飲み”を連発させられた某は
表彰式後も帰る事が許されず2次会まで連れ回され久々に二日酔いという悲惨な状態でござった
 
歯の治療中だったためアルコールはなるべく控えてくださいと言われていたのに
ビールに日本酒に焼酎とごちゃ混ぜチャンポンで何度もイッキ飲みを虐げられた
 
誰に強要されたかって? 
そりゃ僕にそんな事が強要出来るのは来音のアニキしかいませんがな 爆!
 
彼には35年以上に渡ってパワハラを受け続けてますからな~ 笑!
 
おかげで朝3時半に起きた時には頭は痛いは、治療中の歯が化膿して腫れてるわと散々でござった
 
しかしそれでも武士は戦いに挑まなければならないのでござる 笑!
 
 
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満ち上がりの朝マズメ、戦場にはサビキ釣りを楽しむご夫婦らしき姿の2人が来れれた
 
「メバルですか?」
 
「まあ別に何でもいいんですよ・・・」
 
戦には色んなジャンルがあるし狙う魚種も釣法も様々だ
 
大物真鯛狙いの某にはメバルなどの小物は外道の雑魚だし餌取りとも言えるのだが
お土産に最も喜ばれるのが外道のメバルとウマズラハゲなのだ
 
撒き餌を打つと小メバル、タナゴ、スズメダイ、小イワシ、サヨリ、フグ、ウマズラ、ボラ・・・
多種多様な餌取りが乱舞しているのが確認できる
 
さながら海の大運動会だ
 
 
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そうこうしてると出勤前の山守の親分が物見にやってきた
山守の親分は50cmオーバーの真鯛家を討ち取りたいそうだ
 
研究熱心な親分は暇を見つけては某の戦振りを見学に来ては質問攻めにする
その熱心さはいつか実を結ぶ時が来るであろう! 笑!
 
親分が帰った後、潮は満潮になり下げ潮になったので某は昼食と休憩を取る
次の干潮は午後3時、それまで某は愛馬の中で仮眠・休息を取ると決めていた
 
午後の戦は潮が満ち上る夕マズメが勝負だ
 
某はコンビニで昼食を買って食べ、睡眠導入剤を呑んで眠りに落ちる
体力を回復させないと昨日のゴルフ&酒で疲れはピークでしたからな~ 笑!
 
 
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浅い眠りに落ちていた某は愛馬ゴル子ちゃんの幌に落ちる雨粒の音で目が覚めた
 
ー な~に~ 雨が降りようるじゃないか! 今日は曇りの予報じゃなかったんか~・・・
 
降り出した雨は徐々に勢いを増す、某は選択を迫られる、強行突破か?中止にするか?
 
スマホを持っていない某は天気図を見る事が出来ない
某は行き付けの佐々木釣具に電話を入れて天気を確認する
 
「おい、どうなっとるんな?今日は曇りじゃなかったんか?」
 
「いや~ 予報が変わったみたい、これから雨も強まるらしいです・・・」
 
ー 撒き餌はまだ半分以上残っとる、どうする某?
 
いろいろ思案したが某は大雨の中バイクでツーリングに出た事を引合いに出し
 
ー ま、やれるだけやって、どうにもならんようになったら、やめりゃ~ええわい!
雨のバイクよりマシじゃろう! 爆!
 
 
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戦を続けると決心した某はコンビニでカッパを買って再び戦を始めた
 
と、そこへ強烈なアタリが・・・
 
ー 来たで~ こりゃ50cmくらいはありそうじゃの~!
GANちゃんにええ土産が出来そうじゃ!!
 
と、ワクワクしながら、やり取りを楽しむ某
 
今年63cmや71cmを獲ってる某にとっては大した敵じゃないと余裕の竿捌き!
 
 
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所が浮いて来た敵は何と黒い甲冑を身に纏っているじゃないか
 
ー 何じゃ~ 黒か~・・・ 爆!
 
 
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てっきり真鯛家の50cmくらいかと思ってた某は落胆した
 
ー ま、戦は相手がある事じゃけん魚種やサイズまでは選べんけんの~・・・ 笑!
 
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検寸すると敵は47cmだった
 
色が黒いので居付きのチヌ家だと思われる
腹を見るとまだ卵を持ってるようだ
 
ー チヌ家はまだ乗っ込み中か~? 遅いのぉ~・・・
 
 
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仕事を終えた山守の親分が若衆を連れて再び姿を現した
 
47㎝のチヌ家を見て
 
「チヌでもエエけん、デカイの釣りたい~!」 笑!
 
 
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当日の親分への上納魚
 
黒鯛×1、真鯛×7、ウマヅラハゲ×1、アジ×1、カサゴ×1、メバル×6
 
一応”荷”にはなったが真鯛家の御大将は姿を見せなかった
某の見立てではやはり真鯛家の大物シーズンは終わったんじゃないかと思う
 
産卵を済ませた大物は沖の深み、もしくは回遊してどこかに行ってしまったのではなかろうか?
もちろん海や魚の事は博士でもない某にはわからないから言い切れるものでもないのだが・・・
 
と、いう事で、こうして約3ヶ月に及んだ某の春の陣は一応終わった
 
これからの季節、陸から真鯛を狙うんなら夜釣りの投げ釣りが分がいいと思われるが
でもそれでは某のポリシーに反する事にもなりまする
 
てか、昨年は秋の陣では まともに真鯛家を狙わなかった
チヌ家は例年、亀山神社祭がある頃から秋の陣が始まっていたが真鯛ってどうなんだろう?
 
ま、しっかり情報収集して挑もうと思います
 
と、いう事でこれにて一件落着~! 笑! ジャンジャン!!
 
 

父の日

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男の修行と称した釣りをしていた月曜日の夕方
慌ただしく戦ってる夕マズメの最中に大明神様から電話が入る
 
「どこにおるん?」 
 
「早瀬・・・」
 
「何時に帰る?」 
 
「9時頃かのぉ~・・・てか、何かあった?」
 
「皆が揃うとるけん今晩外食しよう思うて・・・」
 
ー そんな事ならあらかじめ言うとってくれんと~・・・
とは思ったが後ろ髪を引かれる思いで7時半に戦を撤収した某 笑!
 
と、いう事で家族5人で宮原にある行き付けの焼肉「味園」に久々に行きました
 
「オイ、ワシは歯が痛いけん酒飲まんけんオマエら飲んでもええで!」
 
いつもなら家族で外食する時は長男か次男が運転手を務めるからどちらかが酒が飲めないのだが
当日僕は前日の”イッキ飲み”のおかげで頬が腫れるくらいの歯痛だったから運転手を務める事に・・・
 
ちなみに酒豪の大明神様は飲まない事はまずありませんがね 笑!
 
 
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「乾杯~!!」
 
「父の日ありがとう!」
 
ー ん? そっか~ そう言う事じゃったんか・・・ 
 
男の修行と称して連休中にゴルフに釣りにと遊び呆けてた僕は
父の日なんてすっかり忘れてた 笑!
 
 
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僕と面識がある人やブログをご愛読下さってる皆さんは
「コイツどんだけ遊び呆けとるんな? ええ境涯じゃのぉ~・・・」
ってイメージを持たれてるかも知れませんが、とんでもございませんぞ!!
 
火曜日から日曜日は朝9時から夜9時までは ほぼ店にいるし
見かけに寄らず意外と繊細に物事を考え込むタイプの僕はストレスいっぱいですぞ 笑!
 
もちろん人が生きて行く上で考えなければならない事は山ほどありますが
僕は考えれば考えるほどマイナス思考に陥り無用なストレスまで抱え込むタイプなんですよ
 
だからこそ週に一度の休みの日には趣味に没頭し
日常を忘れストレスを溜めないように努めてるんですよね
 
言い訳や甘い考え、贅沢言うなと思われるかもしれませんが
そうする事で自分なりにバランスを取ってるんですよ
 
 
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自分を取り巻く事は良い事も悪い事も全て自分が蒔いた種だという事は頭ではわかっています
仕事の事も、家族や子供の事も、自分自身の事も全てそうなんです
 
本音では早くになりたいと思わんでもない・・・
しかし、よくよく考えてみると”楽”とは何ぞや?
 
てか、家族5人が揃って健康である「今」が一番幸せなのかもね~
いや、今より未来はもっと幸せな事が待っているのかも知れない
 
ま、それは自分次第だし家族一人ひとりが自分のやるべき事を果たし
協力し合う事で開けてくる物なんでしょうがね
 
こうして家族が父の日を祝ってくれる事は男として、父親として幸せな事だし感謝しないといけない
いや~ なかなか言葉に出して面と向かっては言えないんですけどね・・・
 
ま、歯が痛かったので美味いビールと味園の焼肉を思いっきり堪能出来なかったのは残念でしたが
これも自分が蒔いた種と言う事なんですよね! 笑! ジャンジャン!!

ゲリラ豪雨の被害

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今年の梅雨は雨量が多い
 
比較的天災が少ないと言われるも梅雨入りしてからの豪雨で
各地に水害土砂被害が出ているようだ
 
6月24日付中国新聞・東広島版によると呉市の東三津田や倉橋の釣士田では
豪雨による水害で土砂崩れが起き家屋が崩壊したみたいだ
 
東三津田と言えば尾崎さん家の近くだぞ、尾崎さん家は大丈夫なのか?
 
 
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実際に土砂災害があった23日深夜から24日未明のゲリラ豪雨は凄かった
 
さすがに、この雨では僕もバイクで出社と言う訳にも行かず
バスに乗って店の真ん前にある四ツ道路のバス停でバスを降りると・・・
 
 
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何と広島バスセンター行きのバス停には長蛇の列が出来ているではないか
どうやら広島行きのJR呉線の電車が運行止めになってるようだ
 
「もうどうなっとるんんね~ 1時間以上待っとるのにバスが4~5台通過して行ったが・・・」
 
最前列のオバちゃんが怒り心頭で独り言のように文句を言っている 笑!
 
どうやらJRの運行止めで広島行きのバスが満杯になってバス停に停まらず乗れないみたいだ
 
そんなオバちゃんを横目に僕は店のシャッターを開け店のドアを開ける
そこで僕の目に飛び込んできた景色は・・・
 
 
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OH MY GOD!
 
何と言う事だ、店が床上浸水してるじゃないか!! 笑!
 
 
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ご覧のように天井の照明器具が映るほどの雨水が床に・・・
 
店が豪雨で床上浸水になるのは3~4度目の事だが、ここ数年はなかったんですがね~
 
ま、初めての事じゃないんで僕もそんなに驚きはしない
 
手慣れたもんで数枚の雑巾を広げて雨水を吸い込ませバケツに絞り、それを繰り返します
 
 
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雨水はご覧のバケツに2杯分ほどありましたね
 
実はウチの浸水は店の表からじゃなく裏の排水管が溢れて逆流して浸水するんですよね
何度かコーキングを打ったりして対策したんですが用を足さない
 
ま、朝からとんだ重労働になりましたが おかげで店の床は綺麗になった 笑!
 
てか、本当は笑い事じゃないですぞ!
 
まだ梅雨が明けるまで、ひと月弱はかかるでしょう
全国の皆さん、十分気を付けましょうね! ジャンジャン!!

続・年賀切手シリーズ 1975 卯年

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1975年(昭和50年) 桂離宮の水仙の釘隠し
 
毎週火曜日のお約束「続・年賀切手シリーズ」ですが今日は1975年(昭和50年)
年賀切手と共に当時の世相を掘り下げ、僕の思い出を綴ってみたいと思います
 
個人的には最後の小学校時代になった昭和50年代の幕開けだった1975年
 
ブラウン管に映し出されるリーゼントに白い作業ツナギを着たロックバンド
ダウン・タウン・ブギ・ウギ・バンドが歌う「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」
「アンタ あの娘のなんなのさ?」ってセリフが僕達小学生にも大流行した
 
そうかと思えば週刊少年チャンピオンに連載され始めた
「がきデカ」のキメゼリフ「死刑!」ってのも大流行した
 
僕が小学校6年生だった1975年はいったいどんな年だったのか?
 
と、言う事ですがここからは1975年に大ヒットした岩崎宏美さんの
「ロマンス」を聴きながらお楽しみください!
 
 
 
 
ロマンス/岩崎宏美 1975
 
 
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1975年4月、セ・リーグのお荷物球団と長い間揶揄され続けていた我が広島カープ
前年までの紺色の帽子を脱ぎ捨て真っ赤な帽子を被って僕達の前に姿を現した
 
チームを指揮するのは球団初となる外国人監督のジョー・ルーツ
しかしルーツ監督は4月27日の阪神戦を最後に退団に至り
後任は守備コーチだった古場さんが就任する
 
この年のオールスターゲームで山本浩二・衣笠祥雄の赤ヘルが誇る主軸二人が
連続打席アベックホームランを打つなど大活躍して赤ヘル旋風を巻き起こす
 
赤ヘル旋風の余波は8月にリリースされた塩見大治郎さんが歌った
「それ行けカープ/勝て勝てカープ」という球団歌の大ヒットにも繋がった
 
この年に6年生だった僕は放送委員会に所属しており毎日昼の給食の時間に
このレコードや広島ローカルアナウンサー柏村武昭さんが歌った
「痛快赤ヘル音頭/赤ヘル数え歌」を繰り返しかけまくった
 
 
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1975年のセ・リーグのペナントレースは夏場まで巨人以外の5球団が
入れ替わり首位に立つという大混戦になった
 
そして運命の10月15日、我がカープは後楽園球場でのデーゲーム巨人戦に
勝つか引き分けると念願の初優勝を手に入れるという事になった
 
カープは先制した虎の子の1点を死守しながら試合は最終回に突入した
9回の表のカープの攻撃で助っ人外人のホプキンスが3ランを打って4-0
 
9回裏の巨人の攻撃も2アウト、マウンドにはアンダースローの守護神 金城投手が・・・
 
最後のバッターになった柴田のレフトフライをレフト水谷が捕球し初優勝が決まった
その瞬間を僕達は先生の配慮で学校の視聴覚室のテレビで観戦してた
 
優勝が決まった瞬間、僕達は大歓声を上げ喜びを爆発させた
カープ初優勝の立役者は地元広島出身の4番バッター山本浩二さんだったと思う
 
その後カープは昭和50年代に全盛期を迎える事になる・・・
 
と、言う事だが今年のカープは25年ぶりの優勝の可能性がある
何せ最近では「神ってる」という言葉が生まれるほどカープは神がかり的な試合を続けてますからな~
 
さてさて秋にはどうなってますかな~? 笑!
 
 
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歓喜のカープ初優勝の年にはこんな事があった
 
1960年代に人気番組だった「シャボン玉ホリデー」にレギュラー出演し
「恋のバカンス 」「ふりむかないで」「モスラの歌」など数々のヒット曲を飛ばし
国民的歌手だった双子の姉妹「ザ・ピーナッツ」が引退した
 
全盛期の引退にファンは驚いたが姉の伊藤エミさんが引退後すぐに
沢田研二さんとの結婚したため寿引退かと思われた
 
しかしザ・ピーナッツは3年前位から引退を考えていたそうで1975年当時には
花の中3トリオキャンディーズ、新御三家などが台頭していた事もあり
世代交代と見るのが無難なようだ
 
 
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引退があれば、この年はビックネームグループの解散と言う事が相次いだ年でもあった
 
何度も記事に取り上げているが1975・4・13、雨の日比谷野音でキャロルは燃えつきた
フィナーレの演出に仕掛けていた爆竹がステージの屋根部に取り付けてあった
「CAROL」の電飾文字に引火し、あっという間に火の手がステージに広がった
 
きらびやかに輝いてた「CAROL」の文字が終わりを告げるように炎に包まれ
3年弱の音楽活動に終止符を打ったキャロルのメンバーは真っ赤に燃える炎の中に姿を消した・・・
 
そして同年9月、キャロルラストライブで親衛隊を務めた舘ひろし率いるクールスがデビューした
 
ちなみにキャロル解散の前日の4月12日には昭和を代表するフォークグループの一つだった
「かぐや姫」が東京神田共立講堂で行われた解散コンサートを最後に解散した
 
解散後、南こうせつ、山田パンダさんはソロ活動を開始し
伊勢正三さんは呉出身大久保一久さんと「風」というユニットを組んだ
 
 
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と、言う事だが1975年の段階で小学校6年生の僕にとってはザ・ピーナッツの引退も
キャロルやかぐや姫の解散もよく知らない事だったしどうでもいいような事だ 笑!
 
それより↑のようなデコレーションされた自転車に興味があったし欲しかった
当時は放置自転車が世の中に溢れてる現代と違って自転車というのは高級品だった
 
仮面ライダーのサイクロン号や1975年に放送されてた特撮ドラマ
少年探偵団BD7の影響もあってかこんな派手な自転車が流行った
 
家がお金持ちの奴は↑のタイプの自転車を新車で買ってもらってた
僕はと言えば変速ギア付きではあるが中古の自転車しか買ってはもらえなかった
 
しかし僕はデコレーション自転車は買ってはもらえなかったが↓こんな物を買ってもらった
 
 
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1974年にホンダから発売されたローラースルーゴーゴーだが
僕は対象年齢を上げたローラースルーゴーゴーを買ってもらった
 
これも特撮ドラマ「少年探偵団BD7」で少年探偵団が乗ってた乗用玩具だった
 
てか、実際に僕達は小学校6年生の時にクラスの仲間と少年探偵団を結成してた
 
二手に分かれて山に入り鉛筆キャップを笛替わりにして連絡を取り合ったり
特訓と称して肥え壺の上を飛び越える練習もやった
失敗して肥え壺に落ちた奴もいた 笑!
 
ある日少年探偵団の仲間が集団で学校を休む事態が起きた
山に入ったメンバーが全員かぶれの木に触れて体中がかぶれたのだ
事情を知った親や担任の先生に少年団は解散に追いやられた 笑!
 
 
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1975年に流行った物にぽっくりサンダルがあった
 
当時はまだベルボトムと言われたラッパズボンが流行ってたので
ラッパズボンのGパンにぽっくりサンダルを合わせた
 
歩く時にバランスよく足を着地しないと足首が”ぽっくり”となった 笑!
 
当時僕は足が”ぽっくり”なるからぽっくりサンダルという名前かと思っていたが
どうやらぽっくりとは下駄の一種で厚底の下駄の名前から来てるらしい
 
ちなみに大人はやはり厚底のロンドンブーツが流行っていた
 
 
 
 
今ではタバコを吸う人には定番の100円ライターが発売になったのも1975年だった
 
最初は↑のチルチルミチルってライターが発売された
 
今の時代の貨幣価値で言えば100円って言っても大した事ないが当時はセブンスター
150円の時代だからチルチルミチルがそんなに安いって話でもなかったのだ
 
だから学生はタバコを吸う時は喫茶店のマッチというのが定番だった
 
ちなみに僕がチルチルミチルのお世話になるのは、これから2年後の事だった
そう考えたら僕は中学生の時から随分多くの税金を納めてきたな~ 笑!
 
 
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1975年の漫画で今でも思い入れがある作品に当時週刊少年チャンピオンで連載され始めた
山上たつひこ先生の「がきデカ」がある
 
主人公である日本初の少年警察官と 自称するこまわり君と彼が通う「逆向(さかむけ)小学校」の
同級生やその周辺の キャラクター達で展開されるギャグ漫画作品だ
 
小学生が読む漫画にしてはエロい漫画だった事も人気の一つだった
 
「死刑!」「んが、」「んぺっと」「八丈島のキョン」「アフリカ象がすきっ!」・・・
 
意味不明のギャグだが当時小学生に絶大な人気を誇った 笑!
 
 
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生まれて唯一ハマった少女漫画「キャンディ・キャンディ」も1975年に始まった作品だった
 
当時「なかよし」って少女漫画に連載されてたがクラスメイトのリエちゃんにいつも借りてた
てか、途中まで単行本も買ってたな~ 笑!
 
数年前に倉敷市の美観地区にある「いがらしゆみこ記念館」に訪れた時
僕は初めてキャンディ・キャンディを描いた「いがらしゆみこ」さんの顔写真を見た
 
いや~ 見なければよかったって思いましたぞ 笑!
 
翌年に始まったアニメも当初は見てましたが中学に上がった僕は興味が他へと移っていった
だからキャンディがロンドンに渡ってテリュースとどうなったのか?
どんなエンディングだったのかは未だに知りません 笑!
 
 
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今でも語り継がれるカルピス漫画劇場で放送された「フランダースの犬」も1975年の作品だ
 
ベルギーの一地方フランダースで祖父と二人暮らしで絵を描くのが好きな少年ネロは
ある日、虐げられて瀕死状態の老犬パトラッシュに出会う
 
ネロの懸命な看病で元気になったパトラッシュは彼と深い心の絆を結ぶ
だが祖父の死、仕事の喪失、犯罪の容疑など、現実はあくまでネロに過酷だった・・・
 
最終回の放送でネロとパトラッシュが教会で死ぬ?シーンは有名ですよね
 
「♪・・・・・・わすれ~ないよ~ この道をパトラッシュと歩いた~ 空に続く道を~!」
 
 
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「♪ぼうや~ よい子だネンネしな~ 今も昔もかわりなく~・・・」
 
って主題歌が有名な「まんが日本昔ばなし」が始まったのも1975年だった
 
この作品、約20年にわたって好評を博し厚生省児童福祉文化賞や文化庁優秀映画作品賞など
数々の受賞歴を誇るそうだ
 
 
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足利義満将軍の奮戦で南北朝の戦が平定された時代
天皇の御子・千菊丸は、その母・伊予の局のさらに父が将軍と敵対したことにより
身分を剥奪され安国寺の小坊主へと放逐される
 
小坊主の一休と名乗ることになった千菊丸は別の寺に蟄居する伊予の局との面会も許されぬ身だが
持ち前の聡明さと明るさで、身分を問わず多くの人々をその大きな器量の虜にしていく・・・
 
「一休さん」も懐かしいね~!
一休さんが知恵を絞る時のポーズ↑もよく真似た物だ
 
OPの曲も懐かしいが個人的にはEDの曲の方が思い入れが深い
「♪ははうえさま お元気ですか~ ゆうべ杉のこずえに あかるく光るほしひとつ みつけまし~た~・・・」
 
いやいや、こりゃ母に電話して声聞かないと・・・ 笑!
 
 
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さて、映画界に目をやると邦画では人気絶頂だった山口百恵さんが主演した
川端康成原作の「伊豆の踊子」が思い出深い
 
その後結婚される三浦友和さんが相手役でしたしね
 
1975年には前年に始まった「赤い迷路」、同年に始まった「赤い疑惑」
山口百恵さんの赤いシリーズドラマは絶大な人気があった
 
てか、昨今流行の韓流ドラマって赤いシリーズに似てるとか・・・? 笑!
 
 
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洋画では「エマニエル夫人」を押したい! 笑!
 
外交官の夫からバンコクに招かれた若妻エマニエルがその開放的な異国情緒にほだされて
性の真理を探ろうとする様子を描き本国フランスはもとより日本でも大ヒットを記録したソフトコア・ポルノ
 
まあさすがに当時小学生だった僕には映画館にエマニエル夫人を観に行く勇気はなかったが
翌年に公開された「さよならエマニエル夫人」は呉シネマに観に行きましたぞ!
 
「さよなら・・・」は中学1年の時でしたが1年経てば人は成長するという事ですな 笑!
 
 
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さて、日本歌謡界に目をやると1975年には思い入れのあるヒット曲が目白押しです
 
冒頭に紹介したダウン・タウン・ブギウギ・バンド「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」
ジュリー「時の過ぎゆくままに」、ムッシュ「我がよき友よ」、風「22歳の別れ」
 
野口五郎さんの「私鉄沿線」、布施明さんの「シクラメンのかほり」、変わり種で
さくらと一郎「昭和枯れススキ」・・・
 
しかし個人的には岩崎宏美さんの「ロマンス」を押したい
 
当時僕は桜田淳子さんと岩崎宏美さんのファンでしたからね~
小学校の卒業文集にはそう書いてあります 笑!
 
 
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と、いろいろあった1975年(昭和50年)でしたが
この年に小学校6年生だった僕達にとってこの年の一番の思い出は
やはりカープ悲願の初優勝でしたね
 
上の写真↑はたぶん6年生の時の遠足で秋の宮島「厳島神社」に行った時の物だと思いますが
ご覧になってお分かり頂けると思いますが男の子は殆どカープの赤い帽子を被ってる
白いカープの帽子はキャンプ時に使用する帽子だと思います
 
この後カープは昭和50年代に全盛期を迎えます
昭和50年の初優勝から昭和61年の間に5回のセ・リーグ優勝を飾り
昭和54年の日本シリーズでは今でも球史に残る「江夏の21球」で近鉄を破り日本一に輝いた
 
と、いう事で個人的には昭和50年の終わりは長かった僕の小学校生活の終わりにもなりました
いよいよ昭和51年になると僕も中学生になり思春期になった僕は急激に変化を遂げて行きます
 
1976年(昭和51年)辰年はどんな年だったのか?
それは来週のお楽しみ!乞うご期待! ジャンジャン!!
 

テツ斉藤のブログ

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今年2016年の体育の日である10月10日(月祝)に開催予定の
呉オールドモータースクラブ主催の第6回呉オールドモータースミーティング
 
今の所今年になってまだ一度も執行部会議を行っていないのだが来月中には一度集まって
今年のミーティングにおける執行部メンバーの意思確認をしようと思っている
 
まあ本格的な動きは8月の盆明け位からになると思うが予定通り10月10日に
開催するとなれば残された時間は3ヶ月少々しかないという事だ
 
早めに決めて早めに手を打って置かないといけない事柄もありますからね
 
 
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そんな事柄の中の一つにイベントポスター記念ステッカーのデザインという物があります
 
皆さんもよく御存じのように第2回からのイベントポスターとステッカーのデザインは
僕達呉オールドモータースクラブのアニキ分であるテツ齊藤氏にお願いしてきました
 
おそらく今年もそうなると思うのですがポスター製作に当たっては
僕達執行部の意向をまとめてテツ齊藤氏とも打ち合わせを行わなければなりません
 
呉オールドモータースミーティングのポスターやステッカーは毎年御来場者にも大変好評です
今年はどんなポスターやステッカーが出来るのか、僕個人もとっても楽しみです!
 
 
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呉で生まれ育った僕には当然の事ながら呉に沢山の諸先輩方がおられます
テツ齊藤氏、いや、哲アニキもそんな先輩の一人です
 
哲アニキは実は僕の母校である呉工業高校の先輩でもあるんです
 
しかし僕達は3学年離れているという事で哲アニキが3月に卒業して
4月に僕が入学したという云わば入れ替わりの学年だったんですよね
 
 
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哲アニキと、いつ、どんなシュチュエーションで出会ったかはハッキリ覚えていませんが
僕がまだ10代のヤンチャ盛りの頃に知り合った事は間違いありません
 
↑の写真は僕(写真奥)が美容学校に行ってた18歳の時に呉のディスコ「よしまつ」で開催された
ロックンロールパーティーの時の物でアニキはおそらく21歳だと思います
 
この頃のアニキはバリバリのロックンローラーでしたね~!
 
 
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僕はアニキと知り合った当初はアニキも中学の頃からずいぶんヤンチャしてたんだろうと
思ってたんですが御本人曰く実はアニキは遅咲きで高校2年生の頃まで真面目って言うか
どちらかと言うとオタク系だったんだそうですよ 笑!
 
子供の頃から漫画を描く事が大好きで漫画家志望だったんだそうでキャンディーズをこよなく愛し
ジュリー新御三家などのアイドルに憧れていたんだそうですぞ
 
だから高校入学時にはリーゼントじゃなく長髪のレイヤースタイル
ヨコスカ(ボンタン)じゃなくラッパズボンだったそうです
 
 
僕がキャロルクールスに憧れていた頃に新御三家とは意外だったな~ 笑!
 
そんなアニキがなぜ?高校3年生にもなって不良という道に足を踏み入れたのか?
 
それを紐解くにはアニキご自身に語ってもらうしかない!
 
 
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と、いう事でご興味のある方は是非アニキが書く
「テツ斉藤のブログ」をご覧になって見てください!
 
テツ斉藤のブログ http://ameblo.jp/candies77/
 
ブログにはこれまでのテツ斉藤の軌跡や現在の状況
更には将来の夢がテツ語録と共に語られています
 
 
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しかもアニキはオリジナルのラインスタンプなる物を製作して販売されてるみたいです
 
いや~ スマホを持ってない僕にはよく分かりませんが「仁義なき戦い」
菅原文太さんみたいな「廣島(呉)男」なるキャラをデザインされたみたいです
 
ご興味のある方は是非購入して使って下さいね! ジャンジャン!!

HAL MIZUGUCHI WITH ROLL OVERS

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水口晴幸 通称ピッピ 
 
三重県出身、1952年10月19日生まれの61歳
 
1974年12月、舘ひろし氏、岩城滉一氏らと共にバイクチームCOOLS結成
翌1975年9月、舘ひろし氏をリーダーとするロックンロールバンドCOOLSのフロントマンとして
ファーストアルバム「黒のロックンロール」でメジャーデビュー
 
1979年、ロックンロールバンドCOOLSを脱退して
翌年1980年に「BLACK or WHITE」をリリースしソロデビュー
 
同時に勝新太郎さんに見い出され役者としても活躍
 
2015年、デビュー40周年を迎え新たな活動を模索し2016年の今年
自身としては約37年ぶりとなるバンド「HAL MIZUGUCHI WITH ROLL OVERS」を結成
 
同年6月、HAL MIZUGUCHI WITH ROLL OVERSとして
アルバム「GO STRAIGHT」をリリース
 
ピッピさん座右の銘は
「想い出や伝説なんて関係ない! 転がり続ける為に!」
 
 
GO STRAIGHTラインナップ
(太字クールスカヴァー)
 
、紫のハイウェイ 、ROCKN' ROLL TIMES 、彼女はダイナマイト 、BIRTHDAY
、TEH COOL 、SCREAMIN' TO THE NIGHT 7、ROCKの毒 8、Oh Yeah
9、ROLL OVER 10、暴走列車 11、Neverending Rolling Stone 12、たどりついても・・・ 13、Way
 
 
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昨年デビュー40周年を迎えたクールスを迎えて僕達呉オールドモータースクラブ
呉オールドモータースミーティング5周年とのコラボイベントを開催し大盛況を得た
 
クールスがデビュー40周年と言う事は元クールスのピッピさんもデビュー40周年と言う事だ
 
同じく元クールスのリーダーさんもクールス時代の曲やソロ時代の曲を集めた
デビュー40周年のベスト盤アルバムをリリースした
 
近年元キャロルジョニー大倉さんは鬼籍に入られたが、2014年に永ちゃんはキャロル解散以来
実に39年ぶりとなるロックンロールバンドZ'sを結成し若手を伴い新たな境地に踏み出した
 
そして今度はピッピさんがクールス脱退以来実に37年ぶりにバンドを結成しアルバムをリリースした
 
僕は自身のブログでキャロルとクールスを足して割った「CAROOLS 70S'」という造語を作り
キャロルやクールスについて僕の知り得る知識や思いを書き綴っているほどの大ファンだ
もちろんCAROOLS 70’にはピッピさんも頻繁に登場する
 
そんな僕はもちろんこの度リリースされたGO STRAIGHTを購入して聴いた
アルバムは全13曲収録でクールス時代のナンバーが6曲と新曲が7曲という構成になっている
 
デビュー以来変わらぬピッピさんの男臭く泥臭いロックンロールは健在だ
 
 
 
 
彼女はダイナマイト/COOLS 1975
 
僕は現在もCAROOLS 70’を執筆中だがクールスは1977年に舘さんが脱退
1979年にはピッピさんが脱退と今でもオリジナルメンバーの中には”わだかまり”があるようにも感じる
 
僕の個人的なイメージではファンも双方で別れてる場合もあるような気もするが
僕は往年のクールスファンとして現クールスにもピッピさんにも思い入れがある
 
出来る事なら舘さんを始め、ピッピさんや喜市さんを含むオリジナルCOOLS
復活を望んでいるが事はそんなに単純な話ではないように思える
 
僕はこれまでキャロルのメンバーだった全4人はバラバラだが生でステージを見てるし
クールスに関しても舘さんはソロで見たし、ピッピさん以外のメンバーは全てステージを拝見した
 
残る1人がピッピさんなのだがピッピさんのスケジュールを拝見しても「広島」という言葉が出て来ない
 
誰かピッピさんを広島に呼んでくれないかな~ ブルべのカキちゃんお願いしますよ! 笑!
 
 
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思い返せばキング時代のクールスは二枚目だけどジャックナイフのようなキレ味鋭いタッパのある
舘さんをメインボーカルに両サイドボーカルには甘いマスクにファッションセンスに秀でたムラさん
シブく男臭いピッピさんと絶妙のバランスが取れていたと思う
 
クールス脱退後のピッピさんのアルバムはピッピワールドが色濃かった
 
取り分けソロデビューアルバム「BLACK or WHITE」とセカンドアルバム「ing・・・」
僕が高校を退学になってフラフラしてた頃よく聴いたアルバムとして今でも思い入れがある
 
最近はピッピさんの曲もカラオケがあって僕もよく歌いますしね 笑!
 
僕は出来得るならオリジナルクールスとしてのステージが見てみたいとは思いますが
現在のそれぞれの活動にも注目してるし応援もしてる
 
この度のピッピさんの新たな活動にはこの方↓もメッセージを送っていらっしゃいます
 
 
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1974年12月13日原宿にてバイクチーム クールスを結成した
チームの規約を作り、メンバー全員で血判を押し鉄の結束を誓った
 
当時からメンバーで唯一、ピッピだけがオレを”大将”と呼んだ
その”大将”って言葉が妙に心地良い
それは今でも変わらない・・・
 
1975年9月ロックンロールバンドクールスとして
シングル「紫のハイウェイ」でデビューをした
 
あれから40年、ピッピは今でもロックンロールをしている
ロックンローラーとしてステージに立っている
 
想い出や伝説なんて関係ない、現在を生き、現在もシャウトしている
 
ピッピ、デビューから40年、お前は変わらないね
絶対にぶれない魂
 
ピッピ、お前は最高なロックンローラーだよ
 
2016年4月 舘ひろし
 
 
2016年今現在、僕のイメージでは団塊の世代の人達が熱い!
永ちゃんを始め、舘さん、岩城さん、ピッピさんにクールスのメンバーたち・・・
 
もうあの頃には戻れないのかも知れないけど僕は彼らの背中を今でも追い続けている
 
そう!ピッピさんが言われる「転がり続ける為に」今僕がやらなければならない事は何なのか?
その答えはさんが言われているように「ぶれない魂」なのかも知れませんね! ジャンジャン!!

転がり続ける為に・・・

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6月27日月曜日 天気 曇りのち雨
 
昨日の記事のピッピさんの格言「転がり続ける為に」じゃありませんが
僕のゴルフも転がり続けています
 
先日のハッピーボーイズゴルフコンペで上達の兆しが見えたのに
先日の月曜日の呉カンでのラウンドは散々な結果になった
 
いつまで転がり続ければ出口が見えるんだろうか・・・ 笑!
 
 
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実は当日はハッピーボーイズも終わったしゴルフも連チャンになってたから
ゴルフはお休みしようかと思ってた
 
しかし誘われたら嫌いじゃない僕はついついOK!してしまう 笑!
ま、誘ってもらえる内が花ですからね~
 
で、ラウンドを終えた僕は性懲りもなく夕マズメを狙って
GANちゃんとチヌ家との戦に挑む予定にしてた
 
真鯛はシーズンも終わったようだけどチヌなら狙えると思ってたんですよね
 
しかしホールアウトした途端にが降ってきた
しかも雨はその後強まるという予報だ
 
 
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と、言う事で釣りは中止にしたのですが時間を持て余す事になった僕は
転がり続ける為に帰り道にある仁方の打ちっ放しに行って練習に打ち込んだ
 
ー う~ん 練習場じゃったら悪~ないのに、何でコースに出たら別人28号になるんじゃ? 笑!
 
その答えを探し求めて今後も転がり続ける僕なのでした! 笑! ジャンジャン!!

すっかり忘れとった・・・ 笑!

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先日「父の日」の事を記事にしたが僕はすっかり父の日の事を忘れていた
しかし僕は父の日以上に大事な事を忘れていたのだ
 
6月25日土曜日、仕事から帰宅した僕だが、なぜか大明神様の機嫌が悪いと感じた
 
ー ん? 何で機嫌が悪いんじゃ? ワシ何か悪い事でもしたかいの?
 
翌日6月26日朝、僕は仕事に出る前にカレンダーを見て大事な事を思い出した
 
ー もうすぐ今月も終わりか~ 今年も半分終わるんじゃの~ 早いの~・・・
ん?そう言やあ昨日は大明神様の誕生日じゃないんか?!すっかり忘れとったど・・・!
ハハ~ンなるほどね・・・ 笑!
 
出勤前、まだ布団を被ってる大明神様の布団を捲って
 
「あの~・・・誕生日おめでとうございます・・・!」
 
「誕生日って今日じゃありませんけど!!」 爆!
 
と、言う事で家族が全員揃う月曜日の夜に誕生日ケーキを用意して来音で誕生会をしました
ま、当日来音には偶然友人が沢山来ていたので僕は
あっちに、こっちにと、いろいろ忙しかったんですけどね 笑!
 
何はともあれ思い出した時は冷や汗が出ましたぞ
 
妻帯者の皆様、伴侶の誕生日をお忘れなく! 笑! ジャンジャン!!

夜討ち

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7月1日金曜日
 
某(それがし)に感化されてフカセ釣りを始めた友人のGANちゃん
目標は50cmクラスの真鯛と言う事だったが結局目標達成出来ず仕舞いで真鯛のフカセシーズンは終わった
 
何事に関しても研究熱心で努力や行動を苦にしないタイプのGANちゃんは度々某の戦見物に来ては
某から兵法を学び実戦したようだが敵を討ち取るには至らなかったようだ
 
戦の素人は戦果は時の運だと思うかも知れないが、それは半分は正解だが半分は不正解なのだ
 
確かに針も結べないような素人がビギナーズラックで大物を仕留める事もある
しかしそれはゴルフで言う所の某がバーディーを取ったりホールインワンをするような物だ 笑!
 
GANちゃんに聞くと何度か大物らしき敵をかけたらしいが
その度にバラして結局は一度も姿を見れず仕舞いだったそうだ
 
戦は大きく分けると「掛ける」「獲る」の二つの技術が必要なのだ
 
某クラス(笑)にもなると掛けた敵をバラす事は余程のボーンヘッドでもしない限りあり得ない自信はある
しかし経験未熟な武士は40cmクラスのチヌ家や真鯛家でもバラす可能性もある
 
バレないような太仕掛けならゴリ巻きでも獲れるだろうが太仕掛けだと今度は食いが落ちるし
漁師でもない某は細仕掛けでスリリングなやり取りをするのが醍醐味の一つなのだ
 
「GANちゃん真鯛のシーズンは終わったけど獲る練習にもなるしチヌ狙ってみたら?」
 
そんな僕の提案もあってGANちゃんが夜討ちチヌ家を狙うという事で
仕事が終わった夜8時半に某は戦場に助っ人に駆けつけた
 
 
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「どう?釣れた?何時からやりようるん?」
 
「釣れん・・・7時頃からやりようるんじゃけど何にも食わん・・・」
 
「そうなんじゃ、チヌの乗っ込みも終わったんかの~ ま、ワシが他人のフンドシで相撲とってみるわ」 笑!
 
と、言う事でGANちゃんの撒き餌を使って小手調べ
 
ここは某が昨年自己記録となる52cmのチヌ家を討ち取った戦場だ
この場は早瀬と違って潮通しが悪い呉湾の奥まった所だ、もちろんそうなると仕掛けも違うし攻め方も違う
潮は殆ど動いていない、撒き餌を縦に打ち道糸を徐々に巻き取りながら誘いをかける某
 
戦開始から約15分、と、そこへモゾモゾっとする感触が道糸から手に伝わる
焦りは禁物だとひと呼吸置いて道糸が走った瞬間に合わせを入れる 
 
ガツン!!
 
「GANちゃん、来たで! おるじゃないか!」
 
「凄い!神っとる!」 爆!
 
やり取りの手応えから40cmクラスだと思った
しかし驚いた事に暗い海面に浮いてきた敵は綺麗な桜色の真鯛家だった
 
「ん、マジ?真鯛じゃないか、ここで真鯛なんて初めてじゃ」
 
討ち取った敵はやはり某の見立て通り40cmクラスだったが
この日の本命はチヌ家だから外道と言えば外道である 笑!
 
 
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それから更に15分後
 
先程と同じようなモゾモゾとした感触が手に伝わる
ひと呼吸置いて合わせを入れる、ガツン! 乗った!!
 
「また来たで!」 笑!
 
浮いてきた敵は今度は黒い甲冑を身に纏った当日の本命のチヌ家だった
サイズ的には先程の真鯛家と甲乙付けがたい40cmクラスだ
 
「何で釣れるんな? ホンマに神っとるの~!」
 
ま、某的には面目を保ったという所だが冒頭にも言ったように運が半分、経験値が半分という事だと思う
 
某もこれまでの長い戦人生で嫌と言う程辛酸を舐めて来たし失敗もして来た
その時々で考え、試し、時には他人に教えを乞うて知識を身に付け技術を磨いてきた
 
人は魚と話す事は出来ないから釣れた・釣れないの本当の理由はわからない
要は考えながら経験を積みデーターを蓄積する事で自分の攻め方の引き出しを増やす
そうする事によって釣れる”確率”が上がるという事なのだ
 
それは取り込みにも同じ事が言える
 
狙う魚の習性や戦場の立地、条件によって取り込み方も考えないといけない
底で掛けたか中層か?、敵が根や藻に入った時、ガラ藻のかわし方、本流で掛けた時・・・
 
ま、それらを考える事が某的には戦の面白さなのだが・・・
 
 
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当日の山守の親分への上納魚
 
真鯛×1 黒鯛×1
 
当日は慣れない3時間ほどの夜討ちであったが
討ち取った敵の腹を見ると何とまだ乗っ込んでいる
 
もう7月に入ったというのに、いったいどうなってるんだ・・・?
昨今地上では異常気象や天災が多いが海の中も異常気象なのかも知れないな~
 
この分だとまだ乗っ込みチヌは狙えそうな気もしますぞ
てか、夜討ちだったら真鯛家もまだ狙えるんじゃなかろうか・・・?
 
GANちゃん頑張れ!そのうち釣れるから
てか、釣りの教授の代わりに今度はゴルフ教えてね! 笑! ジャンジャン!!

続・年賀切手シリーズ 1976 辰年

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1976年(昭和51年) たつぐるま
 
さて、毎週火曜日恒例の年賀切手シリーズですが今日は1976年(昭和51年)
世相を振り返り当時の出来事を僕の思い出話と共に綴ってみたいと思います
 
1976年と言う年は僕の人生にとって一つ大きな分岐点になった年でした
まあ誰でも通る道ではあるのですが僕はこの年の3月に呉市立長浜小学校を卒業し
4月には敷地としては小学校の隣にある呉市立長浜中学校に入学しました
 
小学校の時に「児童」と言われてた僕の世代も中学生になり「生徒」になったという事です
人生の折り返し地点を疾うに過ぎた今の僕にとっての最近の1~2年は何ら変化にも乏しいですが
ティーンエイジと言われる思春期の1~2年と言うのは精神的にも肉体的にも劇的に変化します
 
そんな訳で当時の僕の興味も短期間のうちに激動的に変化します
僕にとって大人への階段を一歩踏み出した1976年はいったいどんな年だったのでしょう
 
と、言う事でここから先の本文は1976年(昭和51年)に大ヒットした
太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」を聴きながらご覧ください!
 
 
 
 
木綿のハンカチーフ/太田裕美 1976
 
 
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1976年・・・と、言うより僕が中学1年の時の世相を思い出して真っ先に思い浮かぶのは
この年に行われたモントリオールオリンピックでしょうね~
 
モントリオールオリンピックでは日本体操男子が団体で金メダルに輝くなど
日本勢も大活躍しましたが同オリンピックはルーマニア体操女子代表
まだ幼さが残る一人の14歳の少女に話題を独占されてしまいます
 
彼女の名前は白い妖精と異名をとったナディア・コマネチ
 
種目別の段違い平行棒と平均台で近代オリンピック初となる10点満点を叩き出し
個人総合と合わせて3つの金メダルを獲得し、団体で銀メダル、床で銅メダルとメダルを独占しました
 
僕もメディアに踊らされ(笑)大いに感化されコマネチファンになり部屋にポスターまで貼っていた 笑!
 
その後ツービートのたけしさんが世に出るキッカケとなった
「コマネチ!」というギャグを知らない人はいませんよね
 
てか、今見ると当時のコマネチさんってけっこう筋肉質だったんだな~ 笑!
 
 
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スポーツの話題をもう一つ
 
先日敗血症ショックで74年の生涯の閉じた1976年当時のボクシング世界ヘビー級王者の
モハメド・アリ氏と日本プロレス界のエースだったアントニオ猪木さんが異種格闘技戦を行った
 
今では異種格闘技戦と言っても驚きはしないが当時は画期的な事だった
僕も興味津々で試合を見ましたが正直ガチンコ勝負という感じには程遠く感じた
 
勝つための戦略だったんでしょうが猪木さんはパンチを食らわないように寝転がり
アリの足にローキックを放つばかり・・・
 
異種格闘技戦実現に至るにプロレス技の殆どは禁止されてたから
苦肉の策でもあったんですがね~
 
まあ夢の対決をリアルタイムで見たという事は良かったと思いますけどね 笑!
 
 
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昨今元都知事の石原慎太郎さんが書いた「天才」って著書が話題になってますが
その政治の天才だった時の内閣総理大臣、田中角栄氏の
ロッキード事件が起こったのも1976年の事だった
 
みなさんもよく御存じだと思いますがロッキード事件というのはアメリカのロッキード社の
対日航空機売り込みに絡む疑獄事件で田中総理始め政治家や丸紅、全日空の幹部
計16人が受託賄賂、贈賄などの罪で起訴されたという事件だ
 
まあ真相は僕にはよく分からないが昔も今も政治家と金という問題はなくなる事はない
てか、政治家になりたい人ってのは基本的に金が欲しい人がなるわけで
実際に当選するとオイシイ事がわんさかあるから皆さん頑張るんでしょうからね~
 
ま、そうした裏の不祥事も国への貢献をすれば世間もある程度は目を瞑るんでしょうけど
政治家にとって現代は、やり難い時代になったんじゃなかろうか?
 
あれだけマスコミに嗅ぎ回られシッポを掴まれたらケツの毛まで抜かれちゃいますからな~ 笑!
東京のネズミ男も結局は辞任しちゃいましたからね~
 
 
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1976年頃に僕の仲間達で大ブームになった事に角川文庫の文庫本ってのがあった
世の中的にはどうだったのかは知りませんが当時仲間で文庫本を買って回し読みするのが大流行した
 
中でも人気を二分したのが「横溝正史」「森村誠一」の2人の作家だった
今でも実家に帰ればこの二人の文庫本は本棚に多数収納されている
 
メジャーになった作品からマイナーな作品まで沢山の作品を読んだが
個人的には印象に残ってる作品を1点づつ挙げると横溝正史さんは「八つ墓村」
森村誠一さんは「人間の証明」かな~ これらは映画化もされましたしね
 
映画化と言えば・・・
 
 
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人気作家「横溝正史」さん原作の「犬神家の一族」が東宝から配給されたのも1976年だった
 
名探偵金田一耕肋を主人公にした横溝正史の同名小説の映画化で湖畔にそびえる犬神邸に
次々と発生する怪奇な連続殺人事件に挑む金田一耕肋の活躍が描かれた作品だった
 
↑の湖面に足が覗くポスターはインパクトがあったし劇中に登場するスケキヨは不気味だった
 
もちろん僕は当時リアルタイムで映画を見ましたね
 
 
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1976年当時のテレビ番組で印象が強く残っているのが坂上二郎さんや、研ナオコさん、
当時、新御三家と言われた野口五郎、郷ひろみ、西城秀樹さんなどや時のアイドルが
コントを繰り広げ人気を博した「カックラキン大放送」
 
野口五郎さん扮する「ゴロンボ刑事」や研ナオコさん扮するお婆さんの
「ナオコお婆ちゃんの縁側日記」も思い出深い
 
 
 
 
「♪楽しかったひと時が~ 今はもう過ぎてゆく~ ラララララ~・・・」
 
EDの曲も今でもよく覚えている
 
ちなみにカックラキン大放送は80年代に入ると”たのきん”のマッチやトシちゃんが
メインになったそうだが僕にはまったく記憶がない 笑!
 
 
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テレビ番組と言えば中学生になり色気づいてきた僕達の世代に
当時圧倒的に人気があった番組に「テレビ三面記事 ウイークエンダー」があった
 
ま、現代で言う所のワイドショーや情報番組みたいなもんですかね
しかしなぜ当時の中学生に三面記事と題されたワイドショーが人気があったのか?
 
同番組の中で10時15分くらいから再現フィルムというコーナーがあり
事件に基づいて制作された再現フィルムにはお約束のエロい映像が使われていたからだ 笑!
 
 
 
 
現代のようにDVDもパソコンもスマホも増してはビデオもなかった当時において
女性の裸が見れる映像ってのは超貴重だった 笑!
 
それらが見れる番組というのはウイークエンダーの再現フィルムか
平日の11時から放送されてた「11PM」くらいしかなかった
 
当時普通の家庭はテレビは一世帯に1台で子供部屋にテレビがある奴なんて稀だった
親にウイークエンダーや11PMを見てる事が悟られないように
テレビから出る明かりを隠すのにブラウン管に毛布を被せて見ていた物だ 笑!
 
ちなみに11PMが終われば今度はラジオを付けて深夜の「オールナイトニッポン」を聞き入った
特に土曜の夜のMC「鶴光」さんは下ネタトーク満載で超面白かった!
 
 
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1976年に社会現象にもなった週刊少年ジャンプに連載されてた池沢さとしさんの
サーキットの狼に端を発したスーパーカーブームってのがあった
 
日本中の少年は休みともなればカメラ片手にスーパーカーを探し回った
僕もその中の一人だったが当時の呉でスーパーカーを見る事はなかった
 
広島市で行われたスーパーカーショーを友人と電車で見に行った
帰りの電車を乗り間違えて八本松まで行ってしまい
友人の親に車で迎えに来てもらった事も懐かしい
 
当時のスーパーカーの3大巨頭はランボルギーニ、フェラーリ、ポルシェだった!
 
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サーキットの狼同様に1976年に僕達の間で大人気になった漫画に
アクションに連載されていたどおくまんプロの「嗚呼!!花の応援団」があった
 
南河内大学応援団を舞台に展開される暴力や下ネタ満載のギャグ漫画だった
応援団親衛隊長、青田赤道の破天荒なキャラが大人気だった
 
当時中学校の二つ上の陸上部の先輩だった現、呉空冷クレイジーのBOSSは
青田赤道になり切っておられた
 
中ランにボンタンを履いた先輩はよく学校で「クエッ クエッ!」ってやっておられた 笑!
しかし先輩は青田赤道同様に「弱きを助け、強きをくじく」という優しい先輩だった
 
 
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中学生になった僕達は映画にも心酔し封切られる映画は洋画・邦画共に頻繁に観に行くようになる
 
学校に洋画専門誌「スクリーン」「ロードショー」を持ち込み皆で回し読みをして
映画の感想や俳優・女優について論議もした
 
前記した「犬神家の一族」もそうだが1976年に公開された映画「ジョーズ」
迫力ある映像もあって超話題作だった
 
平和な海水浴場に突如出現した巨大な人喰い鮫
観光地としての利益を求める市当局によって対応が遅れ犠牲者の数は増すばかりとなるが
遂に警察署長ブロディと漁師クイント、海洋学者フーパーの三人の男が鮫退治に乗り出す……
 
ジョーズ人気はその後シリーズ化され続いた
 
 
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1976年に始まったアニメにカルピス漫画劇場の「母を訪ねて三千里」
前回記事に取り上げた「キャンディ・キャンディ」、水島新司さん原作の「ドカベン」があったが
中学生になった僕はあまり熱心にテレビアニメを見る事もなくなった
 
思春期になり好みも大きく変わっていったという事だ
 
 
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中学生になった僕は小学生時代以上に多種多様な音楽を聴くようになる
 
テレビに出る歌手のヒット曲は勿論だが解散したかぐや姫グレープ
当時人気を博したアリス拓郎さん、揚水さんなどのフォークにも心酔して
フォークギターを独学で友人達と弾き始めたのも1976年の事だった
 
ローコードの「C」「Am」「D」・・・で弾ける曲を選んで適当にジャカジャカギターをかき鳴らした
「F」や「Bm」が弾けるようになった時は嬉しかったものだ 笑!
当時はタブ譜なんてない時代でしたしね
 
ビートルズを聴き始めたのも、アバなどの洋楽を聴き始めたのもこの頃だった
 
そんな1976年の日本歌謡界のヒット曲と言えば子門真人さんの「およげたいやきくん」を筆頭に
ダニエル・ブーン田中星児さんが歌った「ビューティフル・サンデー」
 
キャンディーズ「春一番」、鮮烈なデビューを飾ったピンクレディー「ペッパー警部」「SOS」
桜田淳子さんの「夏にご用心」、百恵さんの「横須賀ストーリー」、ユーミン「あの日に帰りたい」
思い入れのある曲が目白押しだが悩んだ挙句今回は太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」にした
 
個人的には当時の時代の空気を強烈に思い出させる名曲の一つだと思います
 
 
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と、そんな1976年でしたが、この年の3月に僕は長浜小学校を卒業し4月に長浜中学校に入学しました
僕はどこにでもいるような普通の中学生として学校生活をスタートします
 
クラブは当時の仲間達と共になぜか好きでもなかった陸上部に入りました
長距離も短距離も何でもやりましたが僕は走り高跳びで頭角を現します
毎日先輩にシゴかれ小坪の神社まで山道の旧道を走らされましたね~
 
夏休みに学校の校舎に泊まり込んで行われた合宿も思い出深い
交代で見張りを行うのですが誰も殆ど眠らず夜中にオールナイトニッポンを聞いてましたね
 
それと僕はなぜか3年生のある女性と2年生のある女性に好意を持たれたようで
連れ回されたりバレンタインデーにチョコを貰ったりしましたな~
 
彼女達とは一人は数年前に偶然会いましたが、もう一人の方はあの頃から会ってない
どんな大人の女性になってるんだろうか? 笑!
 
と、いう事で今日はこれまで!来週は1977年(昭和52年)巳年やります!
乞うご期待! ジャンジャン!!
 
 
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PRAINSの営業広告

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え~ ゲスな話ではございますが、今日は一つ店の宣伝をさせて頂きたいと思います 笑!
 
呉近郊の皆さんはご覧になった事がある方もいらっしゃるかと思いますが
PRAINSでは不定期ではございますが新聞に折り込み広告を入れる事がございます
 
その広告がこの度リニューアルしました!!
 
当ブログに置きましてはバイクや車やゴルフや釣りにと遊ぶ事ばかりを記事にしておりますが
当然の事ながら僕も仕事をしており僕の仕事は美容室経営という自営業です
 
サラリーマンの方に言わせれば自営業は悠々自適で羨ましく思われるかも知れませんが
何の何の、現代における自営業ってのはとても厳しい時代とも言えるんですよ
 
東京や大阪などの大都会では例のアベノミクスのおかげ?(笑)で経済も上向いてるとも聞きますが
田舎へ行けば行くほど少子高齢化も深刻で人口も減少し経済不況も未だに続いております
 
呉に置きましても例外ではなく長い間呉の経済を支えた造船・鉄鋼という重産業が
大手に吸収合併されるなど先行き不透明な状況と言わざるを得ません
こうなるとウチのような末端の小売店は生き残りが非常に厳しくなる
 
しかし以て厳しい状況を時代や国のせいにしても何の解決にもならない
 
てか、政治家の連中は昨今の一連のニュースでよく分かるように口では
「国民が・・・国民の・・・」って壊れたテープレコーダーみたいに言ってますが
実はノーテンキな烏合の衆で大馬鹿者の偽善者ばかりですからな~ 笑!
 
 
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と、いう事で我々自営業者は自分の身は自分で守らないといけない訳です
僕が家族を養えるのも、趣味が出来るのも店があっての事なんです
 
クリエイティブを売り物にする美容業界で広告を入れる行為はダサいかもしれない
しかし呉のような田舎ではクリエイティブだけに拘っても飯は食えないんですよ
特にウチなんか若いスタッフがいる訳でもないし僕ももう52歳ですからね~ 笑!
 
ウチの広告はコンサルタント会社に委託してインタビューを受けて制作されるんですが
出来上がった広告を自分で読んで赤面するほど恥ずかしいと思う部分も確かにある 笑!
 
しかし”嘘”は何一つ書いていない
 
僕のブログは約85%が男性の読者ですが、お家に届く新聞にウチの広告が入っていたら
是非奥様やお母様、お嬢様に宣伝頂ければと熱くお願い申し上げます!!
 
てか、僕は男性のカットも得意としておりますので男性の方も宜しくお願い致します!
 
尚、掲載した広告の写真は写真の上にカーソルを置いて右クリックして
次画面を「拡大」にすると大画面で見る事が出来ます
 
 
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僕は1982年にミヤニシに入社し1988年にプレインズをオープンし
2006年に現在のプライベートサロンに移転しました
 
気が付けば美容歴も34年になりましたが今でも毎日が勉強で新しい発見も沢山あります
これからも常連様はもちろん新しいお客様との出会いを大切にしていきたいと思います
 
皆様!どうか今後もプレインズを宜しくお願い致します!!
 
と、いう事で今日はこれまで! ジャンジャン!!
 
 
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