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My Music Travel 36 TWO PUNKS

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僕が思い入れがある昭和の時代のアーティストや楽曲を振り返り
当時の世相やエピソード、僕の思い出などを振り返るシリーズ「My Music Travel」
 
前回3月6日はテレビドラマ「コメットさん」で人気を博した大場久美子さんを取り上げましたが
今回はグッと趣向を変えて日本が生んだパンクロックバンド「THE MODS」を取り上げてみようと思います
 
 
 
 
TWO PUNKS/THE MODS  1981 作詞・作曲 森山達也
 
 
虚ろな街に 風が吠えぬける 俺たちはアスファルトの上 転げ落ち
もう真夜中だ 何をすればいい 押し合いへし合い 地下鉄にもぐる
 
いつもの薄汚れた 小屋へ行き 俺たちは歌った 朝まで歌った
一切れのパンを 腹に押し込み ぐったり地下室で横になる
 
もう朝6時だ 家を探さなくちゃ 俺たちは実際 金が無かった
ポケットの中には キラリとナイフが さぁ歩こう 街は眩し過ぎる
 
どうにかしてくれ Hummer Smith に電話しよう 男がやって来て"切符"をくれた
「2か月以内に決めな Hey boy」そう言いやがる でもその行き先は俺たちには似合わない
TWO PUNKS 縛られて TWO PUNKS 見張られて TWO PUNKS 逃げられない
 
俺の女は 目に涙を浮かべてた 「いつまで続けるの Hey darling」そう言いやがる
そんなこと俺にも分かりゃしねぇよ でも もう列車には 乗り遅れた
 
俺たちは乗ることが できなかった 俺たちは乗ることができなかった
俺たちは乗ることができなかった 俺たちは乗せてもらえは しなかった
 
TWO PUNKS 縛られて TWO PUNKS 見張られて TWO PUNKS 逃げられない
TWO PUNKS 見張られて TWO PUNKS 縛られて TWO PUNKS …
 
 
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ザ・モッズは1980年代を代表する博多出身のパンクロックバンドだ
 
「THE MODS」として正式にデビューしたのは1981年だが、その当時のメンバーは
森山達也(ギター・ボーカル)、苣木 寛之(ギター)、北里晃一(ベース)、梶浦雅裕(ドラムス)
の4人編成のバンドだった
 
ブリティッシュビートに多大な影響を受けた森山達也は1974年に福岡県博多で第一期「THE MOZZ」を結成
1975年に「THE MOZZ」を解散し、1976年に第二期「THE MODS」を結成
 
そして1981年にEPIC/SONY、英CBSと契約しデビューシングル「崩れ落ちる前に」
デビューアルバム「FIGHT OR FLIGHT 」を同時期にリリースしてデビューを飾った
 
同年秋にはセカンドアルバム「NEWS BEAT」をリリースしている
 
 
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1981年(昭和56年)と言えば僕は美容学校に行ってた年だ
 
美容学校時代と言えば僕は横山剣さんが加入したクールスのアルバム「チェンジリング」
シャネルズのセカンドアルバム「Heart & Soul」、他にはブラックキャッツザ・ヴィーナスなどの
アルバムを思い出すが確かにザ・モッズも美容学校後半頃には聴いてた事は覚えている
 
冒頭の映像の「TWO PUNKS」「崩れ落ちる前に」「ゴキゲンRADIO 」が思い出深い
 
おそらくアニキ分だったHISASHI君にモッズを教えて貰ったんじゃないかな~?
彼は何でも時代を先取りして情報収集も早かったですからな~
 
で、翌年の1982年にモッズはサードアルバム「LOOK OUT」をリリースする
この年に僕はミヤニシに就職したが「LET'S GO GARAGE」が思い出深いですね
 
しかしこの頃は僕の印象ではモッズはまだアンダーグランドのミュージシャンだったような気がする
彼等が本当の意味でメジャーになったのは翌年の1983年にリリースしたこの曲↓だったんじゃないかな~?
 
 
 
 
激しい雨が/THE MODS 1983 作詞・森山達也 作曲・THE MODS
 
 
危険な誘いに 走り出す人達 変わらない毎日に しがみつく人達わけ
分らずTVが ただ騒さくひびく 昨日のニュースなんて 誰も欲しがらない
 
行くあてなく ただ漂う  壁の中の ジプシーたちよ
激しい雨が俺を洗う  激しい風が俺を運ぶ 激しいビートが 俺に叫ぶ  何もかも 変り始める
 
アメリカン・ドリーム そいつは物語 ガキの頃描いた 永遠の夢は
オイルの匂いと 一緒に行っちまった 今じゃ夢さえ 何処にも見当たらない
 
行くあてなく ただ漂う  壁の中の ジプシーたちよ
激しい雨が俺を洗う 激しい風が俺を運ぶ 激しいビートが 俺に叫ぶ  何もかも 変り始める
激しい雨 もっと強く降りつけろ 渇いたノド 空っぽのこの街に
 
行くあてなく ただ漂う  壁の中の ジプシーたちよ
激しい雨が俺を洗う  激しい風が俺を運ぶ 激しいビートが 俺に叫ぶ  何もかも 変り始める
 
激しい風 もっと強く吹きつけろ 過ぎて行く今を 子守歌みたいに
行くあてなく ただ漂う  壁の中の ジプシーたちよ
 
激しい雨が俺を洗う  激しい風が俺を運ぶ 激しいビートが 俺に叫ぶ  何もかも 変り始める
激しい雨が俺を洗う  激しい風が俺を運ぶ 激しいビートが 俺に叫ぶ 激しい雨が 俺を変える なにもかも
 
 
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4枚目のシングル「激しい雨が」は当時maxellのカセットテープCMソングに使われた
それがきっかけでザ・モッズはお茶の間に姿を現し認知されたような気がする
 
確かこの頃の「歌のトップテン」だったと思うがモッズがライブ中継で出演し
スタジオ司会者だった堺正章さんが森ヤンに
 
「これまで何をされてたんですか?」
的なトンチンカンな質問をして森ヤンが呆れたように
 
「音楽活動です・・・」
って答えた映像を見た記憶がある 笑!
 
シングル「激しい雨が」をリリースした2カ月後の11月にはモッズ4枚目の
アルバムとなる「HANDS UP」がリリースされた
 
そして翌年1984年にモッズは5枚目のシングルとして↓この曲をリリースした
 
 
 
 
バラッドをお前に/THE MODS 1984 作詞・森山達也 作曲・THE MODS
 
 
俺は ポツンと部屋にいる  イラダチが 鼻歌をさそう ノン ノン ノン
みんな何処かへ 消えちまえばいい  それともこの俺が 行けばいいのか
知らぬ間に 手を汚したぜ  お前の嫌いな 仕事をしてる ノン ノン ノン
この街を長く 離れる事もある  それがお前には たえきれないのか
お願いだ Baby  そばにいて 笑って  その顔を見たくて 俺はボロボロになる
この街を長く 離れる事もある  それがお前には たえきれないのか
お願いだ Baby  そばにいて 笑って  その顔を見たくて 俺はボロボロになる
時は物を こわしてゆく  お前と俺の顔も こわす イエス イエス イエス
時間はまるで ダイヤモンドの光さ  淋しさの中じゃ 俺も弱くなる
お願いだ Baby  そばにいて 笑って  その顔を見たくて 俺はボロボロになる
 
 
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5曲目のシングル「バラッドをお前に」は1984年2月からTBS系のドラマとして放送された
「中卒・東大一直線 もう高校入らない」の主題歌に抜擢された
 
ドラマは中学校の管理教育に 失望して息子を高校に通わせず大学入学資格検定合格で
東大合格を勧めた塾の経営者でもあり父親の「磯村懋」の手記を元に製作されたノンフィクションドラマだ
 
父親役を菅原文太さんが演じ、息子役を坂上忍さんが演じ当時話題になったヒット作だ
 
ドラマのヒットもあり「バラッドをお前に」はヒットした
そして同年6月に5枚目のアルバム「JAIL GUNS」がリリースされた
 
と、言う事だが僕のモッズの記憶はこの辺りまでで、この後モッズは聴いていない
 
 
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僕の古いアルバムには1983年のアルバム「HANDS UP」の促進チラシと
同年5月9日(月)に広島郵便貯金会館で行われた「SHAGAKUFORUM FILE TOUR’83」
12月2日(金)に同じく広島郵便貯金会館で行われた「Gang Tour ’83」
モッズのライブチケットの半券が保存されている
 
今でもよく覚えていますがモッズのライブに行くと必ずと言っていいほど喧嘩になってましたな~ 笑!
 
僕達が当事者の時もあったし、呉の諸先輩達が当事者の時もあった
 
 
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このモヒカンはモッズのライブに一緒に行った呉の先輩ですが僕が髪をセットしたんですよね
更にはピンクのカラースプレーで色を付けた
 
こんな諸先輩達とライブに行くんだから、そりゃ喧嘩にもなりますよ
まだまだ血気盛んな年頃でしたしね 
 
当時広島では呉の人間は無茶するから気を付けろって言われてた時代ですからな~ 笑!
ま、そんな事も今となってはいい思い出です!
 
しかしモッズは僕の中では青春が終わった時代というイメージもある
時は1984年、僕も22歳になりいつまでもロックンロール!って言ってられない歳になりましたからね
 
と、言う事で今日はこれまで!ジャンジャン!!

年賀切手シリーズ (午年) 1966 しのび駒

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1966年(昭和41年) しのび駒
 
 
さて、今回で7回目となる年賀切手シリーズですが今回は今からちょうど半世紀前の
1966年(昭和41年)午年を振り返ってみたいと思います
 
午(うま)年生まれの性格は、明朗で行動が速く何事も要領よく片付けます
頭の回転が良く説得力があり広い分野の人脈を手に入れます
 
この干支の人はお人好しで情に流され損をします
自分の力量をわきまえて行動しないと乗せられて責任を押し付けられる結果になります
 
午年生まれの人は必ず相応の地位を得る力と運を持っています
慎みを持って努力すれば人も羨むような人生となります
 
この年生まれの人は自己中心的で自分の思い通りにならないと気に入らないタイプです
またプレイボーイ、プレイガールが多く派手なことが大好きです
 
更には若くして家を出る傾向があり家を出なくとも独立心が強く若いうちから職についたり
独立したりすることが多いでしょう
 
 
と、言う事ですがここからは1966年のヒット曲である
マイク真木さんの「バラが咲いた」を聴きながらご覧ください!
 
 
 
 
バラが咲いた/マイク真木 1966
 
 
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1966年の出来事で僕が真っ先に上げたいのは当時世界的に人気絶頂だった
ビートルズが6月29日に初来日して日本武道館で3日間に渡り行われたコンサートライブだ
1966年のビートルズの世界ツアーはドイツから始まり二ヵ国目が日本だった
 
ここで先ず触れたいのが今では日本武道館でライブを行う事は当たり前だが
何と日本武道館で始めてライブを行ったのがこの時のビートルズだったのだ
 
ビートルズが武道館でライブを行うに当たり当時のお堅いお偉いさん達は
 
「武道館は日本武道振興の為に作らた伝統的格闘技の殿堂であり
そこでロック・コンサートを行うなどとは武道館の精神を冒とくし
日本の若者を伝統的な価値観から堕落させる」
 
という批判の声を上げたんだそうだ 笑!
 
まあ何はともあれライブは大成功し今では武道館はロックの聖地と言われるようになったのだ
ビートルズの日本でのコンサートは3日間の昼・夜公演で計5回行われた
 
コンサートの司会はEHエリック、前座は内田裕也、尾藤イサオ、ドリフターズが務めた
 
 
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「新三種の神器」の一つ、カラーテレビの登場でテレビは庶民の最高の娯楽になった
そして1966年7月17日にはあの特撮ヒーロー物のレジェンド「ウルトラマン」が放送開始される
 
ウルトラマンは円谷プロの製作と言うのは皆さんもよく御存じだと思うが
円谷プロの特撮は前作の「ウルトラQ」に端を発している
 
ウルトラQが人気を博しゴールデンに進出した事もあり次なるアイデアとして円谷英二郎氏が
「スーパーマンのようなヒーローを登場させてはどうか?」という意見を出した
 
そして人間に味方する巨人と凶暴な怪獣が死闘を展開するという方向で話が決まった
そして誕生したのがウルトラマンだったのだ
 
僕は当時物心が付いたばかりの頃だったが御多分に漏れずウルトラマンが大好きだった
ウルトラマンシリーズの塩ビのフィギュアでいつも遊んでましたな~
 
この後ウルトラシリーズは「キャプテンウルトラ」「ウルトラセブン」と続いて行く
しかし当初の設定ではウルトラマンとウルトラセブンは兄弟ではなかった
 
 
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テレビの普及により多種多様なテレビ番組が始まったのも1966年だ
その中には今でも続いてる人気番組の「笑点」がある
 
笑点は日本テレビ系列で1966年5月15日から現在に至るまで
毎週日曜日夕方に放送 されている演芸バラエティ番組である
 
放送開始当時はまだカラーテレビの普及率が1%にも満たない時代であったが
第1回から一貫してカラーで放送されている
 
今年で半世紀を迎えた笑点だから出演者も司会者も多数に渡るが僕の記憶にある笑点は
1970年からの3代目司会者の三波伸介さんの時代ですかね~
 
三波さんは1982年に急逝されましたが、その後は笑点をまともに見た記憶はないですな~ 笑!
 
 
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1966年にビートルズが初来日した事もあり更にはエレキブームやテレビの普及などの影響もあり
エレキギターなどの電気楽器を中心に数人で編成される演奏及び歌唱を行うグループである
グループサウンズ、通称GSが大流行の兆しを見せます
 
本格的なGSブームは翌年の1967年からになりますが最盛期には
100を超えるグループが存在したとも言われています
 
中でも主要10グループサウンズと言われたグループが人気を博します
主要10グループサウンズとは
 
「ヴィレッジ・シンガーズ」「オックス」「ザ・カーナビーズ」「ザ・ゴールデン・カップス」「ザ・スパイダース」
「ザ・ジャガーズ」「ブルー・コメッツ」「ザ・タイガース」「ザ・テンプターズ」「ザ・ワイルドワンズ」
 
の10グループを指すんだそうです
 
しかしGSブームも2年程しか続かず1969年にはメンバーの脱退やグループ解散などが相次ぎます
メンバーの中にはそれぞれソロ活動や作詞・作曲家活動で大成する人もいました
 
現在でもGS出身者で大活躍されている方も多いですよね
てか、僕はGSは微かな記憶しか残っていませんな~
 
まだ幼かった僕には理解できなかったんでしょうな~ 笑!
 
 
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「新三種の神器」の一つであるマイカーも急激に普及し始めます
当時人気を博したのがトヨタ カローラ日産サニーだったそうです
 
昭和40年の四輪乗用車生産が69万6千台であったのに対し昭和45年には
その4.6倍に当たる317万9千台へと急増し販売先別でも自家用車のウェイトが高まりました
 
自動車の普及は都市部の拡張、ドライブインや広域型ショッピングセンターなどの商業施設の発生
テレビの普及と同様に都市型の生活様式の農村部への浸透などの影響を与えました
 
てか、ウチの親父はバイク乗りで”車に乗らない人”だったから
僕は子供心にマイカーがある友達が当時は超羨ましかった
 
「日曜日に家族で車に乗って・・・」って友達から聞く度に少し惨めな気持ちにもなった
ま、決して今ではそんな親を恨んでなんかいませんけどね 笑!
 
 
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さて、1966年の芸能に目をやると相変わらず洋画は「007 サンダーボール作戦」
興行収入でブッチギリの1位で007人気の程がわかりますね
 
邦画に関しては前年同様に高倉健さんの「網走番外地」シリーズが「網走番外地 大雪原の対決」
「網走番外地 南国の対決」「網走番外地 荒野の対決」と3作も興行収入トップ10に入ってる
 
その中で網走番外地シリーズと人気を争ったのが前年に「君といつまでも」
大ヒットした加山雄三さん主演の「レッツゴー若大将」「アルプスの若大将」若大将シリーズ
 
義理人情の任侠路線と青春の汗や涙、恋の爽やか路線と言った
好対照の作品が人気を二部してたというのが面白いですね~
 
てか、当時は同じシリーズの作品が年間に2本や3本も制作されていたんですね~
日本映画界が繁栄してた事がよく分かりますね!
 
 
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日本歌謡界に目をやると千昌夫さんの「星影のワルツ」、美空ひばりさんの「悲しい酒」
GSサウンズ、スパイダース「夕日が泣いている」、沢たまきさんの「ベットで煙草を吸わないで」
等がヒットしてますが個人的にはマイク真木さんの「バラが咲いた」を押したい
 
当時まだ幼かった僕は当時の流行歌には疎かったですが
マイク真木さんの「バラが咲いた」はよく覚えています
きっと子供にも親しみやすい曲だったんでしょうね
 
ちなみに1966年には山本リンダさんが「こまっちゃうな」でデビューし「リンダこまっちゃう」って言葉と
加山雄三さんの「君といつまでも」の間奏でのセリフ「しあわせだな~」ってのが流行ったそうです 笑!
 
 
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1966年に3歳になった僕は祖父母や叔母からも可愛がられ
すくすく成長したのであります
 
そっか~ ウルトラQやウルトラマンを見てた頃僕はこんなに幼かったのか・・・
ま、僕の記憶も曖昧ですから多少の時代のズレはあるかも知れませんがね 笑!
 
と、言う事で今日はここまで! 次回は1967年(昭和42年)未年やります!
乞うご期待! ジャンジャン!!

やった~~!!

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4月25日月曜日 天気 晴れ
 
 
夜の帳がまだ明けやらぬ3つ半時(午前3時半)某(それがし)は愛馬を走らせ戦場に向かった
暦の上では卯月(4月)も終わろうとしている、そろそろ真鯛家とも決着を付けたいところでござる
 
2週間前の決戦では桜鯛の季節だというのに敵は姿を見せなかった
 
某の今までの経験では早瀬の戦場の本命潮は干潮から満ち上りでの潮変わり時に流れる事が多い
しかも前回タコ壺漁師さんから聞いた話では早瀬の潮は呉湾より30分程早いという事だった
 
だから某が呉の潮見表を見て戦場に行った時には下げ潮の時間帯のはずが
すでに満ち潮が流れていたのか・・・
 
と、言う事で今回の戦は早駈けをして敵の出鼻を狙おうと思ったのでござる
 
 
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某の読みは当たった
案の定、呉の潮止まりである時間の30分前に戦場は満ち潮が流れ出した
 
時合を逃すまいと某は前の晩に撒き餌と仕掛けも作っておいた
昨今老眼が進んだ某は暗い中で仕掛けを作るのに手間取るのだ 笑!
 
 
まず最初に某に討ち掛かって来たのは紛れもなく赤い甲冑に身を包んだ真鯛家の武士だった
 
 
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型は塩焼きにするにはちょうどいい足の裏サイズの真鯛家だが本命の登場に安堵する某
 
しかし例の如く沖に出る本命潮は長く続かない
そのうち潮は左寄りになり能美方面へと流れを変えた
 
ー この潮はメバル家や他家、それにチヌ家がよく出る潮じゃが・・・
 
 
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案の定、某の竿を曲げるのはメバル家や海タナゴ家、ギザミ家の雑魚ばかりだ
そうこうしてると鯛一族らしい頭を振る感触が手に伝わる
 
ー おそらく”黒”じゃろうの~・・・
 
海面に姿を見せたのはやはり黒い甲冑に身を包んだチヌ家の中堅武士だった
タコ壺漁師さんに会ったらあげようと思い某は敵を獄に繋いだ
 
手返しを繰り返し道糸を張ったり緩めたりして誘いを掛けてた某の道糸が走る、アタリだ!
合わせを入れると乗った手応えが伝わる、間違いなく鯛一族だ
 
ー 潮の流れる方角からしておそらく黒じゃろうの~・・・
 
 
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”黒”だと勝手に決めつけてた某は余裕をこいて竿の曲りなどを撮影してた 笑!
 
所が敵は反転して強い絞め込みを見せ沖に逃げようとし始めた
その引きはとてもじゃないが片手で竿が操作できるレベルじゃない
 
昨年の今頃某は自己記録となる52cmのチヌ家を討ち取った
しかし奴も某の両手を使わす程の引きではなかった
 
 
レバーブレーキを駆使しながら竿でタメるがリールが巻けない
某は目一杯竿の弾力でタメて、しゃがみ込んだ分だけ道糸を巻き取る
無理は出来ない、道糸、ハリス共1・5号の細仕掛けなのだ
 
ー こりゃ去年の52cmの非じゃないで、もしかしたら60cm近い大物チヌか・・・?
 
時間をかけて丁寧にやり取りしてるうちにウキが見えてきた、もう少しじゃ焦るな某・・・ 笑!
そう思った次の瞬間に海中に敵の姿が見えた
 
デカイ! しかも色が赤い
 
ー こりゃチヌじゃない、本命の真鯛じゃ! しかもデカイで!!
 
 
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魚体が見えてからはさすがに写真を撮るような余裕がなかった 笑!
 
タモに何とか収まった真鯛家の武士は威風堂々の大物だ
タモを持つ手がズシリと重い
 
敵を手中にした某は勝ちどき上げた
 
「やった~~ 敵の大将討ち取ったり~ エイエイオー!!」 笑!
 
 
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どうよ!この魚体!!
 
 
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すぐさま某はメジャーを取り出し討ち取った敵を検寸する
 
ジャスト63cm
 
某のこれまでの真鯛家の最長寸は50cmだったから記録を13㎝も上回った
しかもその50cmは四国宇和海でのグレ家狙いの戦の時にグレの喰いがシブイので
タナを入れて真鯛家狙いに切り替えた時の記録だった
 
云わば外海でのグレ家狙いの外道に近い形で釣り上げた物だった
 
しかし今回は呉近郊の内海で真鯛家をフカセで狙って釣り上げた物だ
個人的には価値が全然違う
 
 
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ちょうどその時に例のタコ壺漁師さんが現われた
タモに収まった真鯛家の武士を見るなり
 
「やったじゃんか! あんた執念じゃのぉ~ 大したもんじゃ!」
 
タコ壺漁師さんに獄に繋いでおいたチヌ家の武士をあげると今回もマダコを下さった
ありがたい事でござる!
 
 
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初めて地元で狙って釣った真鯛家の大物に喜んだ某だったが某はこんな事を考えていた
 
真鯛は大きくなれば1m近くにもなる魚だ
 
某の私感では真鯛の90cm級がチヌの60cm級だと思う
80cm級の真鯛がチヌの55cm、70cm級の真鯛がチヌの50cm
だから60cm級の真鯛はチヌで言えば45cm級くらいだと思うのだ
 
チヌ釣りの初心者なら45cm級のチヌを仕留めれば嬉しいだろうが
某は45cmのチヌを今更釣ったとしても嬉しくない事はないが感動はない
 
地の波止や磯でフカセで狙うには圧倒的にチヌ狙いの方が確率は高い
呉近海の波止や地磯からフカセで真鯛を狙うのは遠浅の多い呉近海では場所が限られる
 
真鯛は条件的に沖に深みがあり、その深みに向いて潮が流れ
更には潮通しがいい場所でなければ望みは”0”に近い
対してチヌは呉湾内でも、どこにでもいる
 
だから今回の63cmの真鯛と45cmのチヌを同等と扱うのは些か乱暴でもあるとも思う
船釣りやボートフィッシング、更には投げ釣りなら大型真鯛と出会う確率は高いだろうが・・・
 
しかし真鯛の特徴がそうである以上、某は63cmで決して満足してはならないのだ! 笑!
 
 
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今回の尾崎家へのお土産
 
真鯛×4、海タナゴ×2、カサゴ、ギザミ、メバル×3、マダコ
 
と、言う事だったがさすがに尾崎奥さんも63cmの真鯛は躊躇された 笑!
 
「こんなに大きいの無理、捌く事も出来んし・・・」
 
と、言う事で大物真鯛は友人の調理師にシゴウをお願いした
 
今回の真鯛は某にとって魚種を問わねば今まで打ち取った魚の最長寸でござる
しかし某は四国宇和海58cm尾長グレ道糸・ハリス共3号で討ち取った事がある
 
魚寸だけで言うと今回の真鯛の方が5㎝も大きいが
魚の引きの力は比べ物にならないくらいグレの方が強かった
 
聞く所によると真鯛家も80cmクラスになると引きも強烈だという事だ
是非その引き味を味わってみたいですな~
 
しかし何はともあれ今年の目標だった真鯛家の自己記録更新はクリア出来た
されど人間は欲深い物だ、一つの目標をクリアしたら次の目標が出来る
 
次は70cmオーバーの真鯛55cmオーバーのチヌが目標だが
その前にゴルフの80台を出さないといけませんな~ 笑! ジャンジャン!!

戦果の記録

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本格的に呉近郊の波止や磯から真鯛をフカセで狙い始めて約10ヶ月
 
この度釣り上げた63cmと言うのは真鯛師からすると超大物とは言えないだろうが
僕にとっては自己記録更新という自己満足の気持ちは確かにある
 
と、言う事で自分の戦果の記録として昨年の自己記録のチヌ同様に魚拓を取る事にした
 
 
 
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通常なら行き付けの海岸にある佐々木釣具か自分で魚拓を取るのだが
この後の予定を考え呉への帰り道になる警固屋の釣具店「point」に魚を持ち込んだ
 
釣具店さんの希望で店のHPや店内での釣り情報のコーナーに
出させてほしいという事で記念撮影も行いました
 
その写真が記事冒頭の写真です
 
釣具屋さんのHP記事
 
 
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どうやら若い店員さんが魚拓を取ってくれるらしい
 
先ずは魚を塩揉みして真水で洗いヌメリを取り除きます
 
 
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ティッシュで水分をよく拭き取ります
特に体液が出やすいエラの部分と肛門は念入りに拭き取ります
 
魚拓は墨の濃淡が大事です
魚体全部に墨を塗ると味気ない魚拓になってしまうから要注意です
 
今回は真鯛と言う事で黒い墨ではなく赤い墨を使用します
 
先ずは色を濃くする体高の上の部分と頭部、各ヒレを塗ります
腹部は墨に水を含ませて薄く塗る事がポイントです
 
目の部分には墨を塗りません
 
 
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直接法の記録魚拓は絵柄が反転するので出来上がりの頭が
左に来るように魚の右側に墨を塗るのが定説です
 
しかも出来れば頭の方が少し下がるように斜めに取る事もポイントです
 
墨を塗った魚に魚拓紙を被せて丁寧に指で輪郭を抑えていき
各ヒレは魚拓紙を捲りながらヒレを広げて写し取っていきます
 
 
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取りあえず3枚ほど魚拓を取り出来の良い物を選びます
 
 
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魚拓がよく乾いたら目を入れ魚名や記録事項を書きます
 
魚拓は日本の文化でもありますから文字はなるべく漢字を使い
西暦よりも年号で日付を入れるのがベターです
 
しかし長さの「cm」や重さの「g」の記号を漢字で入れてもらったのは初めてでしたね~
 
と、言う事で魚拓は完成しました
 
出来れば次回は70cmオーバーを魚拓したいと思います
と、言う事で今日はこれまで! ジャンジャン!!

ラーメンショップ「KANTO」のチビ

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釣りから帰った僕は一旦家に帰り用事を済ませに広島方面に向かいます
 
時間はお昼を大きく回った午後2時、お腹が空いた僕はどこで昼飯を食べるか思案します
 
その時僕は一通のメールを思い出します
 
 
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メールの送り主は呉市天応ラーメンショップ「KANTO」を営む2つ下の後輩のKOUJI
 
実はKANTOはつい先日まで月曜日が定休日だったので
月曜休みの僕はなかなか顔を出す事が出来なかったんです
 
所が先日KANTOオーナーのKOUJIから定休日変更の知らせのメールが届いた
 
そのメールを思い出し、ちょうど広島に行く途中にあるという事で久々にKANTOに行きました
 
 
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KANTOに行った事ある人は知ってるでしょうがKANTOのラーメンは超多い
普通の量のラーメンの1・5倍くらいはあるんじゃないかな~
 
しかも美味い!
 
僕のお勧めは「ねぎみそラーメン」
 
なみなみと注いであるスープに山のようにネギとモヤシが積まれている
ネギはシャキシャキとした食感で超美味くネギ好きにはたまらない
 
 
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麺は中太のストレート
とにかく食っても食って減らないような印象がある
 
まだ食した事がない人は一度是非ご賞味下さい
でも普通でも量が多いので最初は中盛りや大盛りはご注意あれ 笑!
 
 
 
ラーメンを食べながらKOUJIと談笑する
 
「オイ!何で定休日を変えたんな?」
 
「あれ見てや・・・そう言う事なんよ・・・」
 
そう言われて店に貼ってある張り紙に目を通す
 
 
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「な~に~! 腕や腰に限界が来とる~? ワシより若いクセに・・・ 
そんなに儲かっとるんなら蔵が建つんじゃないんか~?」 笑!
 
 
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僕とKOUJIの出会いは35年前1981年に遡る
 
僕は当時高校を退学になって同級生が高校3年の年に美容学校に入学した
ブログ上では便宜上、美容学校と書いてるが正確に言うと呉市阿賀にある
職業訓練高等学校美容科というのが正しいのだ
 
職業訓練校だから学校には他にも色んな科があった
2学年下のKOUJIは当時中卒で職業訓練校の機械科に来ていた
 
機械科にはアキースメンバーのMARUがいたからKOUJIはMARUに可愛がられてた
 
当時学校には美容科に僕、理容科にカツジ、板金科にGANちゃんもいたので
血気盛んだった僕達高校中退組は我が物顔でやりたい放題だった 
 
その甲斐あって?(笑)僕達は職業訓練校始まって以来の最悪の年と言われた 笑!
そんな縁があり僕達アキースメンバーもKOUJIと仲良くなり彼の家へもよく遊びに行った
 
KOUJIは当時学校では最年少でもあり背が低かったし幼い印象があったので
僕達アキースメンバーは親しみを込めて彼の事をチビと呼んでいた
 
悪い事も一緒に沢山やったが、まあそれも若気の至りだったという事だ 笑!
 
ちなみに奥さんはウチの大明神様や僕の妹とも昔から仲がいい
ま、呉は本当に狭いですからな~ 笑!
 
 
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当時17歳だった僕と15歳だったチビも今年で53歳、51歳と言う事になる
 
あのチビも家庭を持ち今では孫もいるそうだ、僕より先におじいちゃんになったという事だ
現在二人目の子供を身籠ってる娘さんも店を手伝ってる
 
こうして家族で協力して店を営み、腕が上がらなくなるほど儲かってる(笑!)なんて
本当に素晴らしい事だと思うしチビも頑張ったんだと思う
 
「ヤマヒー君お願いがあるんじゃけど店の定休日の変更をブログで宣伝しとって~や
ワシも実はヤマヒー君のブログの隠れファンなんじゃけん・・・」 爆!
 
ま、可愛い奴じゃないですか、35年経ってもこうして僕達を慕ってくれるチビ
 
MARUは亡くなったし僕等もいつまで生きれるかはわからないけど
こうして人生で縁があったんだから死ぬまで持ちつ持たれつで生きたいですよね!
 
「オイ、チビ!家の改装が終わったらホンマに招待せ~よ
ウチの大明神様も楽しみじゃって言いよったで~!」 笑!
 
と、言う事で今日はこれまで! ジャンジャン!!

ゴル子ちゃんの車検

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KANTOでラーメンを食べた僕は安芸区の矢野にある
「オートサロン広島中央」という民間車検場ゴルフを持ち込みました
 
ゴル子ちゃんがウチに嫁いで来たのは2014年の8月の事だった
 
納車の頃はすこぶる調子が良かったゴル子ちゃんですが
走行距離が延びる度に至る所に綻びが出てきた
 
まあゴル子ちゃんは30年以上前の車だし納車以前にはあまり頻繁に乗られてなかったのだろう
それがウチに来てからは九州阿蘇まで駆り出されたり姫路の城を見に行ったり・・・
 
急に走行が伸びて一気に経年劣化の症状が出た物と思われる
 
それらを一つ一つ修理して現在では小さな不具合は残っているが
大方の不具合は改善され元気よく走ってくれている
 
 
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そんなゴル子ちゃんだが彼女は今月4月の末で車検が切れる事になっていた
車検を受けるに当って僕の頭には3つの選択権があった
 
一つはゴル子ちゃんの前オーナーであるZepetのヨーちゃんにお願いするという事
二つ目は現在ゴル子ちゃんの修理をして下さってる近所の須田モータースさんにお願いするという事
三つ目は「一家に1人尾崎さん」に頼んでユーザー車検を受ける事
 
どれを選択するかと考えたのだが正直に言うと「どれを選択すると安く上がるか」
と言う事が決め手になり尾崎さんに頼む事にした 笑!
 
所が尾崎さんはウチのゴル子ちゃんをユーザーに持ち込んで
すんなり車検に合格させる自信がないと言うではないか
 
ウチのゴル子ちゃんは至っていじり回したカスタム車ではないが
マフラーやタコ足は社外品だし何と言っても年式が古い
 
陸自に持ち込んで不備が出たら2度手間3度手間になる可能性もあるし
不合格にでもなれば本業に差し支えるという事だった
 
 
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と、言う事で尾崎さんの仕事仲間が経営してるオートサロン広島に持ち込めと言う事になった
 
オートサロン広島には僕も何度かお邪魔した事もあるし
オーナーのフクちゃんとも面識があり知らない仲でもない
 
ウチのマッハCBをユーザーで陸自に持ち込む時に
オートサロン広島でいつも光軸を合わせて貰ってますからね
 
そんな縁もあり今回の車検はオートサロン広島にて行う事にしたんです
 
 
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平素から小マメにメンテしてるから不具合はないと思いますが
もちろん点検や検査を一通り受けます
 
案の定致命的な不具合は出ずすんなり車検に合格しました
これでまた2年間は僕の足になり活躍してくれるでしょう
 
とは言え、車検に影響しないが少々修理しなければならない部分がある事も確かです
それらは現在部品待ちの状態になっています
 
ま、これで安心と言えないのが旧車の定めですからな~ 笑!
 
 
てか、聞く所によると今年度から更に年式の古い車は税金が高くなるらしい
 
う~ん 日本って国はどうも弱い者いじめするのが好きな国ですな~
「物を大事にしなさい」って小学校の頃に習ったぞ!
 
あの伝統や文化を大事にするイギリスでは古い車ほど税金が安くなるんですよね
まあ国の考え方はそれぞれでしょうが税金に関する日本の考え方は
僕個人はちょっとおかしいんじゃないかと思います
 
弱い者いじめする前に法の隙間で国民の血税をむしばみ
おいしい事してる輩たちを何とかしろって話ですよ! ジャンジャン!!

夢!全国制覇!

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今日の記事のタイトルは「夢!全国制覇!」と題したが僕もこの歳になって
甲子園に出て優勝したい訳でも 男一匹ガキ大将戸川万吉のように
全国の不良を集めて日本一の番長になりたい訳でもない 笑!
 
 
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僕のブログをご愛読下さってる方はよく御存じだと思いますが僕は昔から無類の歴史好き
特に日本の戦国時代から江戸時代、更には幕末から近代歴史までが好きな分野です
 
中でも神社仏閣には一方ならぬ思い入れがあり若い頃から城巡りや神社仏閣巡りに勤しんだ
結婚前の大明神様とのデートで城巡りをした事もあるくらいだ 笑!
 
人類は過去より未来、未来より”今”が大切だという事は僕も重々承知している
しかし僕は歴史にロマンを感じるんですよね~
 
しかも歴史から今を生きる上でのヒントを貰う事は沢山ありますからね
 
 
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そんな”城好き”な僕ですが僕は全国にある現存天守を全て制覇したいという夢があるんです
 
全国には大小合わせて沢山の城や城跡があります
しかし数ある天守の中でも江戸時代から現存している天守閣は全国で12城しかありません
 
あとの天守閣と言えば昭和になって復元された物や歴史上存在してないのに建てられた城です
 
それでも太平洋戦争以前には名古屋城広島城のように現存12城以外に
8城が現存していましたが空襲や原爆などによって焼け落ちてしまいました
 
戦争がなければ単純に現在20の現存天守が存在していたという事ですよね
まあ失った物を今更どうこう言っても仕方がないですけどね・・・
 
と、言う事ですが僕はこれまで12現存天守のうち、8城に訪れています
 
 
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① 播磨国 姫路城 2015年1月訪問
 
先ずは何と言っても姫路城でしょう
 
平成の大改修を終えた姫路城は別名「白鷺城」とも言われていますが
大改修を終えたばかりの天守閣は眩いくらい白かった
 
姫路城には1987年(昭和62年)に結婚前の大明神様とも訪れましたね
 
 
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② 出雲国 松江城 2011年10月訪問
 
島根県の松江城にも結婚前の大明神様と訪れたしツーリングで何度か訪れました
 
写真は5年前に「俺たちの旅」で訪れた時の物ですね
 
 
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③ 尾張国 犬山城 2014年4月訪問
 
犬山城には「俺たちの旅」が雨でバイクツーリングが中止になり
急遽車で名古屋に行く事になった時に訪れました
 
平成16年まで個人所有だった事を知って驚きましたね~
 
 
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④ 近江国 彦根城 2013年8月訪問
 
彦根城は三重県の鈴鹿サーキットで行われた8時間耐久レースを見た帰りに
尾崎さんと長男の3人で訪れました
 
安政の大獄桜田門外の変で有名な幕府大老「井伊直弼」の居城でした
 
彦ニャンにも会いました 笑!
 
 
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⑤ 土佐国 高知城 2012年7月訪問
 
戦国武将ゲームで人気があるらしい「長宗我部元親」や、”あげまん”女房で有名な「山之内一豊」
更には幕末の志士「坂本龍馬」「中岡慎太郎」で有名な高知城
 
宇和島で行われたKAWASAKI Zミーティングの帰りに高知泊した時に訪れました
高知入りした夜に僕は体調不良でぶっ倒れたんですけどね 笑!
 
 
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⑥ 伊予国 松山城 2014年2月訪問
 
松山と呉は近いので松山城には何度も訪れていますが写真は2年前に
大明神様と万凛ちゃんの3人で訪れた時の物です
 
ロープウェーに乗って天守閣まで登りました
下りは僕だけリフトに乗って彼女達はロープウェーでした
 
 
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⑦ 備中国 備中松山城 2016年4月訪問
 
今年の4月にツーリングで訪れた備中松山城
現存する城で一番標高が高い所にある山城です
 
約20分かけて古山道を老体に鞭打って登りました 笑!
 
 
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⑧ 伊予国 宇和島城 2015年10月訪問
 
仙台藩祖「伊達正宗」の長子「伊達秀宗」を藩祖とする宇和島城
 
個人的にはKAWASAKI Z750FXに乗ってた20代の頃に一度訪れたんですが
その時には城が休みで天守閣に入れなかった
 
竹に雀伊達の家紋は感慨深かったですね!
 
 
 
と、言う事なんですが僕にはまだ訪れていない現存天守が残り4城あるんですよね
一番近い所は讃岐国丸亀城なんですが、ここはいずれ訪れる事もあるでしょう
 
信濃国松本城、越前国丸岡城はバイクで行くにはちょっと遠いな~
ま、2泊くらいして車で行けば両城共一度に制覇出来るでしょうけどね
 
問題は陸奥国弘前城でしょうな~ 青森までどうやって行くんだ? 笑!
 
ま、いつかは僕が一番好きな戦国武将の仙台藩「伊達正宗」公の居城がある
仙台「青葉城」にも行きたいのでその時までお預けだと思います
 
こうして見ると現存12天守は西日本に多いね
しかし四国には4城もあるのに九州には皆無だという事も面白い
 
と、言う事で全国制覇出来るのはいつになるのやら?! ジャンジャン!!

年賀切手シリーズ (未年) 1967 ひつじ

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1967年(昭和42年) ひつじ
 
 
さて、ご好評頂いてる?(笑)年賀切手シリーズですが7回目となる今回は
1967年(昭和42年)未年の年賀切手と共に当時の世相を振り返ってみたいと思います
 
昭和42年のお年玉郵便切手を見ると、この年から切手が5円切手から7円切手に代っています
この年からハガキの郵便代が7円になったという事ですね
 
<未年生まれの傾向>
 
未(ひつじ)年生まれの性格は思慮深く人情味もありおとなしいタイプです
人と対立することを好まず人と人のつながりを大切にします
 
この干支の人は何事においても悩み決断が出来ずに考え込むことが多く
折角のチャンスを逃がすこともあります
 
また軌道に乗っていることでも何か問題が起きると嫌気がさして手を引いてしまうような面も持っています
未(ひつじ)年生まれの人は頼みごとがあると徹底的にごまをするような面も持っています
 
人と争わないで欲しいものを手に入れることが出来ます
 
 
と、言う事ですが ここからは昭和42年のヒット曲である
森山良子さんの「この広い野原いっぱい」を聴きながらご覧ください!
 
 
 
 
この広い野原いっぱい/森山良子 1967
 
 
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1967年の出来事を調べてみると吉田茂元総理の死去やグループサウンズブーム
ラジオ番組「オールナイトニッポン」が放送開始された程度で大した事は起きていない
 
前年の1966年に人気絶頂のイギリス出身のバンド「ビートルズ」の初来日して盛り上がったが
1967年には同じイギリス出身の人気モデル「ツイッギー」が初来日している
 
そんな影響もあって日本ではミニスカートモッズファッションが大流行したそうだ
 
ツイッギー(1949年9月19日 - )はイギリスの女優、モデルおよび歌手で本名はLeslie Hornby
14歳からヘア・ドレッサーのアシスタントを始めてファッション界に入る
 
小枝のような(Twiggyの意味)細い手足とロリータ系の魅力で60年代のファッション文化を象徴する
トップ・モデルとなり、67年に来日してミニスカートの女王と呼ばれた
 
その後女優として71年に「ボーイフレンド」でデビュー
「ブルース・ブラザース」や「マダム・スザーツカ」などに出演している
83年に前夫と死別、88年にリー・ローソンと再婚した
今見てもツイッギーは可愛らしいですね、しかも英国出身と言う事もあるのか気品を感じますね!
 
 
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1967年には誰でも知ってる「リカちゃん人形」タカラ玩具から発売になった
 
リカちゃん人形は着せ替え人形で全長21㎝の塩ビ製人形
 
リカちゃんの本名は香山リカ,身長 142cm,体重 34kg,血液型O型,
小学5年生で5月3日生まれの牡牛座と設定されているそうだ 笑!
 
1967年以前の美女フィギュアと言ったらアメリカ製のバービー人形が人気があったそうだが
リカちゃんは瞬く間に大人気になりその後リカちゃんのパパやママやボーイフレンドも登場した
 
男の子だった僕はリカちゃん人形にはまったく興味もなかったが
同世代のの女の子には人気があったように思います
 
そう言えば小学校か中学校の時に読んだ週刊少年ジャンプ「こち亀」
リカちゃん人形のオタクの話があった事を覚えてるぞ
 
今でも熱心にコレクションしてる人もいるんだろうな~
でも女のコレクターならわかるが個人的に男のコレクターはビミョーだな~ 笑!
 
 
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1963年に発売された資生堂MG5シリーズが1967年に従来「資生堂男性化粧品」と総称されていた
ヘアケア・スキンケア・フレグランス製品を含め一連の製品が統合され
日本初の「本格的男性化粧品」ブランドとして生まれ変わり大ヒットしたそうだ
 
以前も記事にした事があるがMG5の意味はイギリスのスポーツカー「MG」
「Modern Gentlemen」の頭文字を取って「MG」
 
「5」
「ベタベタしない」「テカテカ光らない」「ソフトに仕上げる」「栄養を与える」「簡単に洗い落ちる」
以上5つの特長を意味している
 
全盛期にはシャンプーやオーデコロンなど全23種類の製品が存在したが
現在はヘアトニック、ヘアリキッド、ヘアソリッド、ヘアクリーム、ポマード、チック、ヘアスプレー
シェービングクリーム、アフターシェーブローション、スキンクリーム、スキンコンディショナーの
13種類となっている
 
僕が中学生の時初めて買ったポマードがMG5だったが今MG5を臭うとオッサンの臭いがするし
油性だからメーカーが謳ってるように決して「簡単に洗い落ちる」と言うのは眉唾物だと思う 笑!
 
しかしこれだけのラインナップが廃版になっていないという事は
今でも愛用されてる方もいらっしゃるという事なんだろうな~ 笑!
 
 
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1967年4月には僕が子供の頃に観てた沢山のテレビアニメが放送開始された
 
先ずは第一動画製作の「黄金バット」
黄金バットは戦前から紙芝居で活躍する怪奇ヒーローを新設定でテレビアニメ化した作品だそうだ
 
<あらすじ>
超兵器で武装された飛行塔ナゾータワーに陣取る怪人ナゾーが、世界征服を企む
善意の科学者ヤマトネ博士はナゾーの野望に対抗するが敵は強大だ
 
だがヤマトネの周囲の少女マリーが黄金のコウモリに願いを掛けるとき
高らかな笑いと共に怪人・黄金バットがいずこからともなく現れる
彼こそは古代アトランティス時代の石棺から甦った正義の味方だった!
 
いや~ 改めて今、黄金バットを見ると何とも言えない不気味さを感じますな~
「♪どこ どこ どこから来るのか黄金バ~ット・・・コウモリだけが知っている ハハハハ…」
って主題歌は今でも覚えています 笑!
 
 
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藤子不二雄の冒険SFギャグコメディの第一回アニメ化作品「パーマン」
 
<あらすじ>
 
小学生・須輪ミツ夫はある日妙な男に出会う
それはスーパー星から地球に正義の代行官を任命に来た宇宙人スーパーマンだった
 
力が6600倍になるマスクと時速99㎞/hで飛べるマントを託されたミツ夫は
同様の立場のチンパンジーの2号、おてんば少女の3号と共に世の悪と戦い困っている人を救う
 
だけどパーマンの正体が他の人にばれると大変な罰が待っているのだ・・・
 
 
いや~ 僕はパーマンが大好きで当時夢によくパーマンが出てきた
僕もパーマンの仲間になってマスクを被ってマントを付けて空を飛んでた
パーマンが最終回の時とっても悲しかった事を今でもよく覚えている
 
「♪真っ赤なマントをひるがえしー 来たぞ僕らのパーマンが・・・」
もちろん主題歌も今でも覚えています! 笑!
 
 
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タツノコプロのアニメ第2作で同社初のカラー作品であり
近年まで海外でも大ヒットを飛ばした「マッハGO GO GO」
 
<あらすじ>
 
世界各地のカーレースに参加する新進レーサー・三船剛
彼の愛車マッハ号は職人気質の三船モーターズ社長でもある父・大造が
設計、製作した七つの特殊能力を備えたスーパーカーだ
 
時にはレースの中で悪質な妨害や窮地も生じるがそんな剛を助け
また敢えて厳しい言葉をかけるのは謎の覆面レーサーだ
 
果たして彼の正体は?・・・
 
 
考えてみれば僕が生まれてこの方一番最初に車に興味を持ったのは
「マッハGOGOGO」だったのかも知れない
 
当時日本のレースシーンが盛り上がりを見せ始めた頃だったんだろうな~
「♪風も震えるヘアピンカーブ 怖いものかとGOGOGO・・・」
あの頃覚えたアニメの主題歌は半世紀近く経っても覚えてるんですよね 笑!
 
 
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宝塚歌劇に魅了された手塚治虫がその影響下に描き綴った
少女ロマンをアニメ化した「リボンの騎士」
 
<あらすじ>
 
シルバーランドの眉目秀麗な王子サファイア
だが実はこの王子は天使チンクの悪戯により誕生前に男女両方の心を宿した少女だった
 
女性は王位を継承できない国法から要職ジェラルミン公はサファイアを失脚させて
息子プラスチックを王座に据えようと彼女の秘密を暴こうとする
平安ならぬ国情を憂いたサファイアは王子として頑張ろうとするが・・・
 
 
いや~ とっても懐かしい!
当時僕はリボンの騎士は少女漫画かと思っていたが大好きな作品だった
 
「♪わたしの見る夢ひみつなの~ だれにも言わないひみつなの~・・・」
もちろん覚えています! 笑!
 
 
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と、言う事ですが大人の映画の洋画では「007は二度死ぬ」が興行売上トップになっている
 
邦画に目をやるとトップは「黒部の太陽」という作品になっているが
個人的には先日記事にした「日本の一番長い日」を押したい
 
作品は昨年リメイクされて話題になりましたが、こちらが元祖です
てか、僕は元祖の方は見た事ないから今度TUTAYA宅配レンタルで
先日観たリメイク版と比べてみたいと思いますね!
 
 
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歌謡界に目をやると1967年は僕も知ってる曲が本当に多い
 
ジャッキー吉川とブルー・コメッツの「ブルー・シャトー」、石原裕次郎さんの「夜霧よ今夜もありがとう」
美空ひばり・ブルー・コメッツの「真っ赤な太陽」、ザ・ピーナッツの「銀色の道」
 
黛ジュンさんの「恋のハレルヤ」、ザ・タイガースの「君だけに」
ザ・フォーク・クルセーダーズの「帰ってきたヨッパライ」など盛り沢山だが
個人的には”ざわわ”事、森山良子さんの「この広い野原いっぱい」を押したい
 
なぜかこの曲を聴くと幼い頃を思い出しセンチな気分になる
とっても良い曲だと思います!
 
 
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ハッキリとは覚えていないが確か1967年に僕は母の実家だった長浜に引っ越しをしたんだと思う
この年に弟が生まれているからたぶん間違いないと思う
 
自分では覚えてないし、特に目立ちたがりの子でもなかったと思うのだが
こんなひょうきんな一面もあったんでしょうな~
 
たぶんこれは当時流行ってた赤塚不二夫の漫画作品「おそ松くん」の登場人物
イヤミが行うギャグで「シェー!」を真似てるんだと思う
 
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と、言う事で今日はこれまで!次回は1968年(昭和43年)申年やります!
乞うご期待! ジャンジャン!!

臨時休業のお知らせ

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PRAINSからの臨時休業のお知らせです
 
GWに付き、5月4日(水)、5日(木)を臨時休業します
尚6日(金)より通常営業いたします
 
お客様各位には大変ご迷惑をおかけしますが、御用の方、ご予約は
(0823)23-7540までお電話ください
折り返し連絡させていただきます
 
PRAINS 山下
 
尚、店休中はブログの更新はお休みさせていただきます
よってコメントのお返事・ブロ友さんへのご訪問が遅れる事をご了承ください

GWツーリング

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5月2日月曜日 天気 晴れ
 
 
さて、今年のGW「二日休めば10連休」と何かのCMでやってましたが
長い休みの人は今日を含め明日、明後日まで連休の方もおられると思います
 
昨年まで僕も大学生だった次男が北九州で一人暮らしをしていた事もあり
GWには連休を取って次男の所に訪れていましたが昨年秋に次男は家に戻ってきた
 
と、言う事で今年は「休まず営業!」って当初は思ってたんですが
GW近くになっても予約の入りが悪い
で、急遽GWの予約を全て調整して4日、5日と臨時休業する事にしたんです
 
そんな今年のGWですが今年のGWは月曜日の祝日という日がなかった
そんな中、集まれる人は限定されましたが2日の平日の月曜日にミニツーリングを行いました
 
 
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当初の予定では2日の月曜日から尾崎さんを始め、GANちゃん、KEN,グッチの4人は
九州熊本阿蘇に2泊3日でロングツーリングに行く事になっていた
 
しかし先月終盤に熊本南阿蘇を中心に未曾有の大震災が勃発した
沢山の方が亡くなり家屋も崩壊し阿蘇周辺の道も陥没したり分断されているという
現在もボランティアの方を始め多くの方が復興作業や行方不明者の探索をされている
 
そんな状況の所へノコノコ遊びに行くのは不便でもあるし
不謹慎と言う事で彼らのツーリング計画は中止になった
 
 
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ならば、月曜の平日なら僕やカツジも参加出来るという事で日帰りツーリングをしようと言う事になった
 
しかし数日前になってGANちゃんが急に仕事になったという事で不参加になった
う~ん もし熊本大震災が起きていなかったらGANちゃんはどうしていたんだろうか? 笑!
 
そんなGANちゃんは当日集合場所には顔を出したが後ろ髪を引かれる思いで仕事に行きました
てか、禿げ散らかしてるGANちゃんは引かれる後ろ髪もないんですがね 爆!
 
ま、何はともあれ急に決まった平日のツーリングだから多くの人に声は掛けられなかったけど
取りあえず集まれる身近な者達が集まってバイク9台で僕達は出発した
 
 
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バイクは国産、外車を取り混ぜ構成はバラバラだったが「物」なんて何だっていい
青春時代を共にした時から何十年も経った現在、こうして皆でバイクに乗れる事が嬉しい
 
 
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しかし今回嬉しかったのはアキースメンバー最後の砦だったKENが
大型二輪の免許を取ってバイクを購入しバイク仲間に加わった事だ
 
購入したバイクはドカッティー650パンタだが不動車を安く引き取り
アキースメカニック班の尾崎さんとグッチが昨年秋頃から
仕事の合間を縫って整備しようやく乗れるようになった
 
KENとは彼がYAMAHA SRX400、僕がKAWASAKI Z750FXに乗ってた
20代前半の頃以来一緒にバイクに乗る機会がなかった
 
またこうして一緒にバイクに乗れるようになったというのは本当に嬉しい事だ!
 
 
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更には僕達アキースのアニキ分であるHISASHI君が今回ツーリングに参加した事もある
 
アニキも高校時代にはSUZUKI GT380、20代の頃には東京でドカッティー900MHR
乗ってらしたがバイクを降りて30数年余のブランクがあった
 
「もうバイクはええわい・・・」って言われてたHISASHI君に
「HONDA CB750K1を貸すけ~行こうや~!」って誘ったのは僕だった
 
僕は例の如くマッハで最後尾を走りながらKENやHISASHI君のライディングを見ましたが
二人ともブランクを感じさせない安定した走りをしてましたね
 
まあHISASHI君はライディングフォームが大股開きでブラックエンペラーみたいでしたがね~ 
「アニキ! もう暴走族じゃないんだから、ちゃんとニーグリップしましょうね!」 爆!
 
 
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新緑が眩しい山道をバイクで走ると超気持ちいい!
当日は前回の備中松山城見学の時とは打って変わって快晴で気温も高かったですからね~
 
こうして僕達は編隊を組んで目的地を目指します
と、言う事で今日はこれまで! ジャンジャン!!

美女と野獣たち 笑!

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さて、今回のミニツーリングですが実は今回”紅一点”の参加がありました
彼女は相当の美女ですが彼女の職業はモデル・女優・歌手なんですよね
 
だいぶ昔の記事にも書きましたが彼女は後輩KIYOMITSUの愛娘の松岡李那(まつおかりな)ちゃん
彼女は主に香港・台湾で活躍してるんですが昨今では日本でも活躍の場を広げています
 
昔の松岡李那ちゃんとの記事 http://blogs.yahoo.co.jp/prains237/10894691.html
 
 
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僕は彼女が生まれた時から知ってますが彼女がまだ乳飲み子だった頃に
モヒカン頭だった事が今でも強く印象に残ってる 笑!
 
モヒカンに髪を切ってたんじゃありませんよ
まだ生え揃っていない髪がモヒカンみたいに生えてたんです
 
そんなモヒカン娘だった李那ちゃんが今や国際的に活躍するスターですからな~
他人の子とは言え昔ヘアーショー等のモデルにもなってもらった事もあり
僕にも感慨深いものがありますね~!
 
 
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そんな彼女がちょうど帰省中だという事でKIYOMITSUが李那ちゃんを連れて来た
 
写真は”親子で羊を見る図”ですが知らない人から見たら親子には見えないかもね~
KIYOMITSUも若振りだし極悪中年男に騙されてる若い女の子に見えるかも 爆!
 
 
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と、冗談はさて置き、ここは何度か当ブログにも登場した事がある
戸河内から近い北広島町の八幡高原にある森のレストラン「ファーム ノラ」
 
 
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何と尾崎さん、KEN、グッチは前日もバイクでノラに来たそうで
二日続けてのノラになったという事だそうです 笑!
 
 
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いや~ この季節の森のレストランは最高ですな!!
 
ロケーションは最高だし空気は美味いし、もちろん食べる物も美味い
 
 
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若い頃にはバイカーだったノラのマスターも食卓に加わって
バイク談義や昭和談義にも花が咲きましたね!
 
 
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ちなみにマスターは若い頃に今の僕の愛車であるマッハH2に乗ってらしたそうだ
 
写真のYAMAHA XS650SPはマスターの愛車だったそうだが
今では土に還る気配を醸し出している 笑!
 
 
 
と、言う事ですが自然溢れる景色と美味い空気と美味い飯に癒された僕達は帰宅の途に就きます
 
 
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絶世の美女の李那ちゃんですがバイクに乗る時はご覧の様相です
大きなサングラスに、大きなマスク
 
変質者にも見えないではありませんが(笑)女優は顔が命!
仕事的にも日焼けするのはマズイんでしょうな~
 
と、言う事で無事帰還しました
 
皆さんまた行きましょうね! 今回誘えなかった皆さんごめんなさいね! ジャンジャン!!

条件が悪い中・・・

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5月4日水曜日 天気 晴れ
 
前日の3日になって急遽GW休みにする事にしたGW休み初日の4日水曜日
某(それがし)は次男坊を伴ってに出かけた
 
当日晴れてはいたが天気予報では前日の大雨の影響で強風が予想されていた
厳しい戦いになる事は予想されたが次男坊とはそうそう休みが合わないから強行出陣した
次男坊も山下家の人間として戦の手順や戦術も叩き込んでおかないといけない 笑!
 
当日は午後からの潮に分があると判断した某は12時半に釣り場に到着
強風が予想されてはいたが当日は祝日で空は晴れている
 
他家の武将が先に陣を敷いているかもと危惧しながら戦場に着くとやはり二人程先客がいた
しかし彼らは運良くサビキの釣り人だったから湾向きに陣を敷いていた
某たちはフカセでの真鯛・黒鯛狙いだから沖向きに陣を敷くので問題ない
 
案の定、波止場先端に陣取りすると竿を持つ手も疲れるほどの強風が吹いている
しかしその中で幸運だったのが風が向かい風ではなく追い風ぎみだった事だ
 
ところが戦を仕掛けてみると前日に降った大雨の影響だと思われるが
潮が二枚潮になっているじゃないか・・・
 
目視すると撒き餌は左に沈んでいくが仕掛けは強風にも煽られて右に沈んでいく
仕掛けを巻き取るとやはりウキは釣り座に対し右方向から浮いてくる
 
どうやら表層の潮は左へ、底潮は逆の右へと流れているようだ
ここの戦場での二枚潮は初めての経験だ、さてさて厳しい戦になるぞ・・・
 
 
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フカセ釣りの生命線は如何にして撒き餌と差し餌を同調さすかと言う事だ
しかし二枚潮の場合、撒き餌と差し餌を同調させ難い
 
こうなると底潮を拾う水中ウキは必需品になるが作戦的には撒き餌を広範囲に打って
ピンポイントじゃなく広範囲のエリアで同調させるしかない
餌取りが活発な時期だったらお手上げだが季節的にまだ餌取りの活性もそれほど高くない
 
そんな事を念頭に置き某たちは戦を仕掛ける
 
道糸は強風に煽られ膨らみ更には二枚潮の影響もあり釣果に直結する道糸の張りが出来ない
某の釣りはウキの沈め釣りだから尚更道糸が張れないとアタリが取り難い
小型のメバル家なんて巻いたら釣れていたみたいな感じだ 笑!
 
そんな悪条件が重なる中、某は42cmを筆頭に本命の真鯛家を4枚釣り上げた
まあ残念ながら先日打ち取った自己記録の63cmを超える敵は姿を見せませんでしたがね~
 
しかし戦素人の次男坊は某が某とまったく同じ仕掛けを作ってやり
釣り方のアドバイスを送るがまったく釣果に結びつかない 笑!
唯一アタリらしいアタリだった、まあまあの手応えの敵は針外れで取り逃がしてしまった 笑!
 
次男がメバル家を釣って魚を外す時にハリスが傷ついたと推測される
その辺りをチェックする事はフカセ釣り師には常識なのだが・・・
 
「逃がした魚は大きい」と言われるが彼のやり取りを見てた某の見立てでは
おそらく敵は40cm前後くらいの大きさだったんじゃないかと思う
 
まあ”赤”か”黒”かはわかりませんが当日”黒”は一枚も釣れなかったから
真鯛家だった確率が高いとは思いますがね
 
 
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当日の尾崎家へのお土産
 
真鯛×4、ウマヅラハゲ×2、ギザミ、メバル×5
 
この釣果で次男坊が仕留めたのはウマヅラ1尾とメバルが2尾
その他は食えないクサフグと磯ベラが各1尾づつ・・・
 
釣りを知らない素人は釣りは”運”だと思う人が多い
確かに釣りに限らずゴルフでも麻雀でも運の要素は少なからずある
 
しかし最終的に成果を上げる要素は運より知識技術執念
技術や勘は経験によって磨かれていく物だし知識は経験によるデーター分析の蓄積が大事になる
 
これは趣味に限らず仕事や他の何にでも当てはまる事だと思う
 
某は戦の最中や戦場への行き帰りの車中で次男坊にそんな話を言って聞かせる
行きには当日の状況の予測、帰りには釣果に基づく「なぜそうなったのか」という理由
その話に信憑性を持たせるには結果を見せてやる事が一番説得力が高い
 
そして何より時間を共有して趣味を通し生き方や物事の考え方を教える
決して某が言う事が100%正しい訳でもないし方法論は他にもあるだろう
 
しかし「運任せ」だけでは決して実りある成果は得られない事は間違いない
 
それらを見聞きし、体験して自分なりに活かせばいいし反面教師にしてもいい
ま、今回超大物を討ち取れなかった事は残念でしたがね~ 笑!
 
「世の中そんなに甘くない」って事は感じ取ってくれたんじゃないかな? 笑! ジャンジャン!!

結果オーライ!?

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5月5日木曜日
 
 
個人的にGW休み最終日だった5月5日は子供の日の祝日だった
が、僕には3人の子供がいるが上の2人の息子達はもう年齢的にも”子供”と言える歳でもない
 
と、言う事で5月5日は当初の予定では大明神様と娘の万凛と3人で
世良郡世羅町にある世羅高原花畑を見に連れて行って欲しいとのリクエストで
夜には息子達も合流して家族5人で夕飯を食べる予定になっていた
 
現在世羅高原は季節の花として沢山のチューリップが咲き誇っていますからね~
 
当日は9時半に家を出ようという事になっていたが初老の僕は6時には目が覚めた 笑!
家を出るまで3時間半もあるという事で僕は何をしようと考えた結果
ゴルフの早朝練習をしようと焼山にある二河峡ゴルフセンターに打ちっ放しに行った
 
そろそろ練習を終えて帰ろうと思ってた8時半頃に娘の万凛から電話が入る
「父さん、ちょっと話があるんじゃけどGW中の宿題がまだ終わってないんよ~・・・」
 
何と出発1時間前になって娘からドタキャンの電話が・・・
すぐさま僕は大明神様に電話を入れる
 
「どういう事や・・・?」
 
「いや~ 万凛が勘違いしとったみたいで・・・」
 
「・・・・・・んで、ワシはいったいどうすりゃええんな?」
 
「どうぞフリーで・・・」
 
彼女達に言いたい事は山ほどあったが僕は言葉を飲み込みグッと我慢した 笑!
 
 
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急に予定がなくなった僕はどうしようかと考えた
 
ー そうじゃ、そう言やあ今日MORI君やKIYOMITSUが波輝でバーベキューやるって言いよったの~・・・
 
実は当日僕は仲間に波輝カフェでバーベキューをしようと誘われていたんですよ
しかし世羅高原に行く予定になってた僕は誘いを断っていた
 
バーベキューの事を思い出しMORI君に電話を入れ事情を話すと昼頃来いと言ってもらった
 
昼までは時間があるという事で僕はグッチの店に寄る事にした
前日にグッチは尾崎さんやGANちゃん、KENたちとツーリングに行っていた
 
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そのツーリング先でGANちゃんとKENのドカが故障してロードサービスを呼んだ(笑)という話は
前日釣りの釣果を尾崎家に届けた際に尾崎から聞いていた
 
その話を詳しく聞こうとグッチの所に行ったのだ
 
 
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「で、今日はGANちゃんやKENは何しようるんな?」
 
「ツーリングから帰って呑気に酒飲みに行ったけん二日酔いで寝ようるんじゃないん・・・?」 笑!
 
で、GANちゃんに連絡を入れると今からKENと来るという事だ
 
「GANちゃん、KEN,、昼から波輝でバーベキューするんじゃけど一緒に行かんかいや~」
 
「いやいや、ワシらは昨日ツーリング行って夜は酒飲んで疲れとるけんやめとくわ・・・」
 
「そんな事言わんとワシが車出して帰りも送って帰るけん・・・」
 
僕としては一人で行くのは道中がちょっと寂しいと思ったんですよね
 
で、結局彼らは僕に押し切られ3人でオープンカーにした
ゴルフカブリオに乗って波輝に向かったのだった 笑!
 
 
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半分無理やり連れて来られた2人だったが本来酒飲みの彼らは酒が進むにつれ
オイルの周りが良くなってきたレーシングカーのように絶好調に・・・ 笑!
 
僕は酒飲みじゃないし運転手だから飲まなかったがアニキ分のHISASHI君夫婦の登場もあり
彼らの酒のペースは急ピッチで上がり口のペラも絶好調に・・・ 爆!
 
用意されていたビールも底を突き終いにはコンビニまで焼酎を買いに走ったほどだ
 
 
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焼き物係はKIYOMITSUの愛娘のモデルの李那ちゃん
 
こんなベッピンさんが焼いてくれるんだから酒も進みますよね 笑! 
 
しかも酒に酔って絶好調になった二人は夜の山下家のディナーにも参加すると言いだした 
 
 
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で、結局ウチの家族を含めた大人数で「権三」に場所を移し大宴会になった 
 
もうこうなったら誰も彼らを止められない 笑!
 
 
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「カラス」に店を変え時計を見ると0時を回っている
二人を誘った僕もさすがにこれ以上は付き合えない
 
と、言う事で山下家はここで退散しましたが彼らはまだ次に行く気配濃厚だった 笑!
 
この後皆さんがどうしたのかは今の所僕は知りませんが、まさかこんな日になろうとは・・・
ま、僕も楽しかったし結果オーライと言う事か?! 笑! ジャンジャン!!

年賀切手シリーズ (申年) 1968 のぼりざる

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1968年(昭和43年) のぼりざる
 
 
さて、昨今毎週火曜日の週初めの恒例記事になった年賀切手シリーズですが
今回は記事の関係で水曜日になりましたが1968年(昭和43年)申年の年賀切手と共に
当時の世相を振り返ってみたいと思います
 
申年生まれの人は意志が強く個性的、頭が賢くなんでも器用にこなします
好奇心旺盛で素早く行動する行動的な面もあり何をしても凄く早くものにします
 
明るく人懐っこいので人気者になりやすくどんな場面でも臆することなく挑戦するので適応能力は高いです
賢いので人にあまり見せたりはしませんが本当は目立ちたがり屋の派手好きです
 
人にほめられるのが大好きです
頭が賢いので要領がいいのでお調子者だという風に人から思われやすいです
 
 
 
と、言う事ですがここからは1968年の大ヒット曲である
いしだあゆみさんの「ブル・ーライト・ヨコハマ」を聴きながらご覧ください!
 
 
 
 
ブルー・ライト・ヨコハマ/いしだあゆみ 1968
 
 
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1968年に起きた事件に、あの有名な「3億円強盗事件」があります
 
1968年12月10日午前9時20分頃、東芝府中工場従業員のボーナスのための現金約3億円を積んだ
日本信託銀行の現金輸送車が府中刑務所北側の路上で後を追ってきた白バイ警官に止められた
 
白バイ警官は爆発物らしき物を発見したと言って行員たちが車外へ出て避難すると
運転席に乗りこみそのまま走り去った
 
このようにして3億円はまんまと奪われてしまったのである
その後75年12月に時効成立し戦後最大のミステリーとされる
 
この事件は色んな憶測が飛び交いドラマや映画にもなった
モンタージュ写真は誰もが一度は見た事あるでしょうが真犯人って今でも生きているのか?
もし生きてれば手記を執筆したら印税は3億円くらいは入るんじゃないか? 笑!
 
 
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前年の1967年にはイギリス出身のツイッギーの来日もありモッズファッションが流行ったと思ったら
翌年には自然に帰れと称し金を使わずに楽しみ月並な生活を避け
時には既成の社会秩序に反逆して大衆行動を取るヒッピーが大流行
 
その流れは日本にも影響を及ぼし男性の長髪が流行り彼らは「フーテン族」と呼ばれるようになる
 
フーテン族に端を発したシンナー遊びが中高生にも大流行になります
路上でもシンナーを吸引する姿が頻繁に見られ病院に運び込まれ死者も出ます
 
 
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ヒッピーの誕生は若者を中心に爆発的な人気を誇ったロックバンド
ビートルズによるインド巡礼マリファナLSDを使用した精神解放等により
全米へとそのムーブメントは広まったとされています
 
ビートルズに端を発したヒッピーはサイケデリックファッションをも生み出します
 
サイケデリックとはLSDなどの幻覚剤によって生じる幻覚や陶酔状態を想起させるさまの事で
そのような原色を駆使した美術やロック音楽、ファッションが流行になりました
 
 
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と、そんな当時の大人の流行は5歳の僕にはまったく別世界の事でしたが(笑)
人生ゲームの事はよく覚えています
 
人生ゲームは1960年にアメリカで開発されたゲームなんだそうで
日本ではタカラトミーが商品化し大ヒットしました
 
“~人生、山あり谷あり~”のコピーで始まるテレビコマーシャルと共に
人生ゲームが日本で発売されたのは1968年(昭和43年)の事でした
 
盤ゲームといえばサイコロを振っていかに早くゴールを目指すかという
いわゆる”すごろく”式のゲームしか存在しなかった当時
 
”人生”というテーマ、自分を表すピンを刺した自動車型のコマ、ボード上の立体的な山や建物
ドル札を模したおもちゃの紙幣のやり取り、そしてなによりサイコロの代わりに回すルーレットは
画期的なものとして受け入れられ「人生ゲーム」は子供から大人まで夢中になる大ヒット商品となりました
 
当時から約半世紀がたった現代ではゲームと言えばスマホなどに代表されるデジタルゲームです
 
僕はゲームの類はまったくやらないから詳しい事はわかりませんが
大の大人がスマホでゲームに熱中してる姿を見るとちょっと違和感を感じますがね~ 笑!
 
 
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1968年には「一人前入りで、お湯で温めるだけで食べられるカレー、誰でも失敗しないカレー」
というコンセプトの元にわが国初のレトルト食品として大塚食品からボンカレーが発売されました
 
ボンカレーと言えば個人的には笑福亭仁鶴さんが子連れ狼のパロディーで
「3分間待つのだぞ!」ってやってたCMが印象に残ってますな~ 笑!
 
小学校の野外授業で広の小滝で飯盒炊飯やってボンカレー食べた事も覚えてます
ま、僕は子供の頃に人参と玉ねぎが嫌いだったからボンカレーも好きでもなかったんですがね 笑!
 
ちなみに1968年には日清食品「出前一丁」サンヨー食品「サッポロ一番みそラーメン」
明治製菓「カール」も発売になっています
 
 
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テレビの普及と共に続々とテレビアニメも制作・放送され始めます
 
昨今お亡くなりになった妖怪漫画の巨匠・水木しげる先生の代表作の
第一回目のアニメ化として「ゲゲゲの鬼太郎」が放送開始
 
「♪ゲ、ゲ、ゲゲゲのゲ~ みんなでうたおうゲゲゲのゲ・・・」
って主題歌を知らない人はいないでしょうな~
 
 
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あの名作、梶原一騎先生の日本出版界に劇画というジャンルを確立させた名作野球漫画
スポ根の元祖「巨人の星」が放送開始されたのも1968年だった
 
禁断の魔球・魔送球を使ったがために読売巨人軍を追われた星一徹
彼は息子の飛雄馬に夢を託し巨人軍の投手を目指す人生を歩ませる
 
幾度も一徹に反発し高校野球で複数のライバルと闘いながらも
ついに巨人軍のマウンドに立った飛雄馬・・・
 
大リーグ養成ギブスや大リーグボールも印象深かったが何と言っても印象的なのは
一徹がちゃぶ台をひっくり返すシーンですよね 笑!
 
でも、この場面はシリーズを通して本編では確か一度しかなかったはずです
 
現代ではウチもそうですが父親の威厳は失われ邪魔者扱いされる 笑!
星一徹こそ本来の日本の家庭の父親のあるべき姿だと思いますぞ! 爆!
 
 
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「♪やみにか~くれて生きる おれたちゃよ~かい人間なのさ・・・」
 
って主題歌で人気を博した無国籍的な雰囲気と異形の主人公たちの独特の哀愁が人気を集め
幾度も再放送された怪奇アニメの名作「妖怪人間ベム」も1968年に放送開始された
 
どこかの研究所で生まれた怪異な3匹の生物
彼らベム・ベラ・ベロは気高い正義の心を宿しながらも決して人間ではない妖怪人間だった
 
善行を重ねればいつか本当の人間になれるという信念から世の中の悪人や魔性の存在と戦い
人々を助ける旅路を歩み行く彼らだが、そんな3人に人々は必ずしも理解の目を向けなかった・・・
 
当時僕は子供心に怖い漫画だと思ってましたが今大人になって考えてみたら内容がとっても深い
現代の社会問題になってる「いじめ問題」にも通ずるんじゃないかと思います
 
当時ブスな女をよく”ベラ”と表現してましたが今では深く反省しております 笑!
 
 
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さて、映画界に目を向けると洋画ではダスティン・ホフマン、キャサリン・ロス、アン・バンクロフトなどが
出演した「卒業」が興行収入1位に輝いています
 
大学を卒業し前途洋々のベンジャミン、彼は祝賀パーティの席で誘惑をかけてきた
中年女性ロビンソン夫人と逢瀬を重ねる事になる
 
だが彼女の娘エレインが現れた事でその関係は崩れていく
親の勧めで不承不承エレインと付き合うことになるベンジャミンは彼女に惹かれていったのだ
一方そんな若い2人に嫉妬するロビンソン夫人
やがて彼女とベンジャミンの関係がエレインの知るところとなるのだが……
 
ダスティン・ホフマンが乗ってたアルファロメオ・スパイダー・ヴェローチェがカッコ良かったですね!
ちなみに1968年の洋画興行収入2位は「猿の惑星」でした
 
 
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歌謡界に目をやると1968年は後世に残るヒット曲が目白押しです
 
黛ジュンさんの「天使の誘惑」、水前寺清子さんの「三百六十五歩のマーチ」
タイガース「花の首飾り」、青江三奈さんの「伊勢佐木町ブルース」
都はるみさんの「好きになった人」、キング・トーンズ「グッド・ナイト・ベイビー」
 
しかし個人的にはいしだあゆみさんの「ブルー・ライト・ヨコハマ」を押したい
昭和歌謡を代表する曲だと思いますね!
 
 
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1968年に5歳になる僕は長浜專徳寺が母体になってた專徳保育園年長さんになります
写真は長浜の入江神社で行われた七五三ですね
 
この頃の思い出と言えば毎日毎日飽きもせず泥団子を作ってた事ですかね~
專徳保育園は仏教系の園でしたから弘法大師親鸞聖人の事を習いましたね
 
お昼ご飯や3時のオヤツの時、帰りの歌を毎日歌ってた事も覚えています
 
「♪たのしいおひるになりました~ みんな なかよくおててをあわせ・・・」
 
「♪とけいがうたうよボンボンボン おいしいオヤツいただきましょう・・・」
 
「♪きょうもたのしくすみました なかよしこよしで かえりましょう・・・」
 
いや~ 48年経った今でも全部覚えてますからね~ やはり三つ子の魂百までって事ですね!
 
と、言う事で今日はこれまで!次回は1969年(昭和44年)酉年やります!
乞うご期待! ジャンジャン!!
 

条件が悪い中・・・ Part Ⅱ 笑!

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5月9日月曜日 天気 雨 呉カントリークラブ
 
先日「条件が悪い中・・・」と題した釣りの記事を書いた
前日の大雨の影響で台風のような強風が吹き荒れ雨による真水の影響もあり
フカセ釣りには最も厄介な二枚潮での釣りとなった
 
そんな悪条件の中、僕は自分の知識・技術・勘を総動員してそれなりの釣果を上げた
しかし釣り素人の次男は芳しい釣果を上げる事が出来なかったが、ここが素人と玄人の差なのだ
 
 
と、いう事なのだが先日のお休みは仲間と呉カンにゴルフに出かけた
当日は雨の予報だったが3週間ぶりのゴルフと言う事で
「雨、何のその・・・」と気合を入れていたのだが・・・
 
 
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天気予報では当日は一日中雨の予報だったから全員レインウェアを着込んでのプレーとなった
僕は出足の10番ロングホールこそボギーで凌いだが、その後は久々の最悪ゴルフになった
 
僕は雨の日のゴルフが苦手だ
 
まあ誰でもそうだろうが僕はグリップが濡れて滑る事が異常に気になるのだ
そんな事に気を取られるから他に考える事や確認事項が疎かになり必然的にリズムも悪くなる
 
前回GANちゃんやKENと東映をラウンドした時には一発もOBを打たなかったのに
先日のラウンドはトータルで二桁以上のOBが出てしまった
 
まあそれは雨だけのせいではなく実力の無さと言える事は重々承知だ
先日の釣りの時の次男同様に状況判断を含む知識や技術、勘に劣っている事は自覚している
こうなるとラウンド中の気持ちの自己修正が出来ずスコアに対する執念もなくなるのだ 笑!
 
 
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と、いう事だが自分の腕前は棚に上げて一つ言い訳をさせてもらうと(笑)実は呉カンでは
今月の25日(水)26日(木)の二日間においてLPGA女子プロトーナメントが行われる事になっている
と、いう事で地元に近い出場選手が既に練習ラウンドに訪れているようなのだ
 
聞く所によると女子プロがプレーするのは一般男子が通常プレーする「白ティー」が使われるらしい
と、いう事でティーグランドもいつもより長めの設定になっていたホールもあった
 
しかし何より厄介なのはコースの難易度を上げるのにラフを伸ばしているという事だ
当日は長いラフが雨による水を含み重く粘い、ラフに捉るとボールが出ない
 
ウェッジで出すのが精一杯という感じで無理するとミスがミスを呼びドナドナになってしまう状況だった
ラフに捉るとそれだけで一打罰という感じだった 笑!
 
当日はゴルフが上手い宮西先生やMORI君、HISASHI君も軒並みスコアを崩してた
ま、そんな状況でしたから僕がいいプレーが出来るわけがない 笑!
 
てか、ツアーのダイクレレディースカップのスポンサーのボードに
僕のミヤニシ時代の先輩である城戸君が営む「SNOB」の名前があったぞ
300万円くらい寄付したのか~? いや~ 儲かってる店は違いますな~! 爆!
 
 
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午後からのラウンドは雨に加え深い霧が出てきた
ご覧のようにティーグランドに立ってもまったく先が見えない
 
まあ地元人の僕等は知らないコースじゃないから何とかプレーは出来ましたが
とてもじゃないけどコースを知らない人は何所に打って行っていいかわからんでしょうな~
 
とは言え、いろんな能書きを垂れましたが上がり3ホール前に打ち方を思い出した僕は
急にショットが当たりだして上がり2ホールは連続パーだった 笑!
 
3週間程度のコースブランクで打ち方を忘れるなんてまだまだ僕も修行が足りないという事ですよ
練習場には今でも週に2度くらいは行きますが練習場の打ち方とコースでの打ち方は全然別物です
 
自分で言うように知識と技術と勘と執念を磨く必要がありますね
息子に言って自分に言い聞かせた僕でした! 笑! ジャンジャン!!

MODS MAYDAY HIROSHIMA 2016

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5月7日土曜日 天気 晴れ
 
1960年代のイギリスを彷彿させるドレスアップした若者と
ヴィンテージスクーターのオールドヴェスパ
 
 
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と、言う事で先週の土曜日に毎年恒例の
 
「MODS MAYDAY HIROSHIMA 2016」
 
が行われモッズカルチャーを愛する者たちがスクーターランを行ったようです
 
 
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長男は僕の愛車であるヴェスパ125GTRに乗って・・・
 
 
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長男の愛車であるヴェスパ180SSは彼女のあっちゃんが乗って・・・
 
 
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モッズと言えばやはりフルデコされたヴェスパランブレッタ
 
 
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凄いね~! 笑!
 
しかもこのフルデコされたライト類は飾りじゃなく全て点灯するんですよ
 
 
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快調に走ってたモッズ軍団のチーム「リアーズ」だったそうですが旧車のお約束「故障」が勃発 
しかもその故障車両はウチの長男の180SSだった 笑!
 
どうやらクラッチワイヤーあたりのトラブルだったそうですがリアーズメンバーの
スクーターのエキスパートによって応急処置が取られたようです! ジャンジャン!!
 
尚、MODS MAYDAY HIROSHIMA 2016 & SCOOTER RUN の詳しい事が知りたい人は
チーム「REARS」を主宰するSUMII氏のHP↓をご覧ください!
 
 
 

俺たちの1975 アーカイブス

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今から遡る事41年前
 
そんな時代の若者を捉えた写真集「俺たちの1975」
あの時代を体験した者にとっては、ついこの間の事のようにも思えるし遠い昔のようにも思えるだろう
 
あの時代は現代では当たり前とも言えるスマホもパソコンもデジカメもなかった
情報を得るには先輩から習い、自分の足で探し、考え、工夫するのが当たり前の時代だった
便利な現代に慣れた者にとっては不便で不自由な時代だったと思うかもしれない
 
しかし今回取り上げる「俺たちの1975アーカイブス」の見出しにもあるように
 
「反発したけど、今よりずっと自由だった!」
 
と、僕も思う
 
前回4月3日に書いた「俺たちの1975」では1975年前後の僕の思い出を中心に綴った
 
今回の「俺たちの1975アーカイブス」では当時の写真を見ながら
当時の世相や当時の若者の特徴などを僕なりに綴ってみようと思う
 
 
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1975年(昭和50年)と言えばちょうど二輪免許が改正され
「小型二輪」「中型二輪」「大型二輪」と分けられた年だ
 
都道府県の公安公認の自動車学校では400cc以下の中型二輪の免許までしか取れなくなった
 
大型自動二輪免許を取るには限定解除審査で合格するしかなくなった
当時「一発」と言われ世に言う司法試験に合格するより難関と揶揄された試験だった
 
「俺たちの1975」シリーズの写真を見ると二輪に関しては圧倒的にナナハンが多い
しかも殆どのナナハンがホンダCB750KカワサキZ750RS
 
1975年のホンダCB750Kと言えば前年の1974年にK4が発売され国内ではK4が継続されていた
カワサキZ750RSに関してはZ2B茶玉、青玉がリリースされた年だ
 
とは言え当時の10代の若造で新車を買えたのは極一部のボンボンだろうから
殆どのCB、ZⅡはそれ以前のモデルであろうと推測される
 
旧車ブームの現代においてCB、Zは国産旧車人気の両横綱だが
当時はニューモデルの新しい物の方が人気が高かったと聞く
 
しかし今ではCBもZも年式が古い方が価値も価格も高いと言うのは皮肉な物だ
当時40年後にこんな時代が来ると予想した人はいなかったでしょうな~ 笑!
 
 
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1975年4月13日に日比谷の野音で行われたキャロルの解散コンサートにおいて
バイクに乗り親衛隊を務めたクールスはライブ映像に見る事が出来るが
映像にあるバイクに乗るクールスは全員ヘルメットを着用していない
 
しかし写真集「俺たちの1975」に見る彼らの殆どは
暴走族であるにもかかわらずヘルメットを着用してる
 
調べてみるとバイクでのヘルメット着用義務は1965年から始まっている
 
1965年に高速道路でのヘルメット着用努力義務(罰則なし)が規定され
1972年には最高速度規制が40kmを超える道路でのヘルメット着用が義務化(罰則なし)された
 
ここまではヘルメットを被らず走行しても罰則がなかったが1975年から政令指定道路区間で
51cc以上のバイクのヘルメット着用が義務化(罰則あり)になっている
 
う~ん と、言う事はクールスのノーヘルってのは交通違反だったという事か?
それともヘルメットの着用義務(罰則あり)は4月13日以降だったと言う事なのか・・・?
 
 
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写真集に見る2輪は殆どの車両が同じようなカスタム?改造?をしてる
 
まあカスタムや改造って程でもないが車両の多くは旭風防と言われたウインドシールド
FIAMMに代表される3連ホーンや6連、8連ホーンが取り付けられている
 
写真で見る限りはその他の部分はほぼノーマルに見える
 
集合管を取り付けてる車両も確認は出来るがノーマルマフラーの方が圧倒的に多い
まだこの時代は集合管って高価な物でノーマルマフラーに穴を開けたり
レンコン(消音器)を抜いたりして排気音を大きくしていたんだろうな~
 
 
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4輪に関しては多種多様な車両が確認できる
 
日産車はスカイライン、ローレル、ブルーバード、チェリー、フェアレディーZが確認できる
トヨタ車はカローラ、セリカマツダ車はサバンナ、カペラ辺りが目に付きますね
 
どの車両もチームやパーツメーカーのステッカーチューンをしてますね
 
 
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この車両は日産チェリーX1-Rだろうか?
 
昨今国産旧車4輪もこの時代の車両が大人気ですがチェリーは見ないな~
僕が中学生の頃はチェリーはよく見ましたがね~
 
 
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何とパトカーもフェアレディーZです、シブイね~ 笑!
 
昨今、何の分野でも昭和レトロが流行ってるという事をよく耳にします
乗り物に関しても旧車ブームと言われていますが2輪も4輪も、これらの70年代車両が一番人気が高い
 
もちろん60年代レトロモダンな車両や80年代ネオクラッシックにもファンはいますが
専門誌を見ても2輪も4輪も70年代の車両が値段も高く流通も多い
 
しかもそのブームを牽引してるのが現在40代後半~50代の当時を見たり経験した世代の人が多い
 
確かに現代は乗り物も進化し全ての分野で便利な時代になった事は間違いありませんが
あのアナログだった時代の熱さや自由さを皆さん懐かしく思っているんじゃなかろうか?
 
まだ体が元気なうちに「青春をもう一度!」って思ってるんじゃなかろうか?
少々の事では感動しなくなった心に感動や刺激を求めてるんじゃなかろうか?
 
僕は個人的には良い事だとは思いますよ
僕の持論では「感動は忘れていた過去の記憶にある」って思ってますからね
 
 
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でも一つ言いたいのは僕等の世代は今や立派な大人です
人に迷惑かけたり法律違反はいただけませんぞ!
 
この歳にもなって、そんな事してたら只の馬鹿だしカッコ悪い!
その辺りをわきまえて楽しみましょうね! 笑! ジャンジャン!!

年賀切手シリーズ (酉年) 1969 とり

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1969年(昭和44年) とり
 
さて、毎週火曜日の恒例記事になった年賀切手シリーズも今回で10回目を迎えます
モノクロの時代というイメージだった1960年代が終わりを告げる昭和44年
と、言う事で今回は1969年(昭和44年)酉年の世相を振り返ってみましょう
 
酉(とり)年生まれの性格は理解力に優れ先を見抜く直感を持っています
そのためピンチが続くと諦めが速く必要以上の苦労を避ける傾向があります
どちらかと言うと楽な方楽な方へと選択していきます
 
また、おとなしそうに見えても内心ではライバルを出し抜くチャンスをじっと待っています
もともとは強運の持ち主で自分の利益だけを追わずに汗を流して働く事をすれば成功して
人も羨むような地位や名誉を手に入れることが出来るでしょう
 
 
と、言う事ですがここからは1969年のヒット曲である
皆川おさむ君の「黒猫のタンゴ」を聴きながらお楽しみください!
 
 
 
 
黒猫のタンゴ/皆川おさむ 1969
 
 
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1969年のニュースを調べてみると7月16日にアメリカのケネディ宇宙センターを飛び立った
アポロ11号が 同月21日に「静かの海」と呼ばれる月面の平地に着陸しました
長い間人類が夢見てきた月への到着に成功したのです
 
このニュースはこの年6歳になる僕も何となく覚えていますね
当時僕は月にはウサギがいて餅をついているのかと思ってましたが
テレビに映し出される月の映像にウサギはいなかった 笑!
 
人類が初めて月に足を踏み入れて今年で47年の歳月が経ちますが
今でも庶民が簡単に月旅行出来る時代にはなりませんでしたな~ 笑!
 
 
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1969年の日本国内のニュースに目をやると昭和44年には大したニュースは起きていないが
昭和の時代を経験した人には懐かしい岩倉具視氏がデザインされた500円札が発行されている
 
とは言え当時6歳だった僕にはお札なんてまったく縁のない物だった
僕の記憶では確か当時の1日のお小遣いが10円とか20円の世界だった
余所の家はどうだったかは知りませんがお正月のお年玉でも300円くらいだったと思いますよ
 
そんな時代だった1969年は後にバイク王国になる日本製バイクが世界を驚かせた年になった
 
それまでの日本のバイクの排気量はせいぜい350ccクラスが主流だった
英国車を真似たメグロに端を発した650ccKAWASAKI W1はありましたが海外では評価は低かった
 
そこにホンダが前代未聞の4サイクル空冷4気筒750ccエンジンとディスクブレーキを標準装着した
HONDA DREAM CB750Kをリリースし世界を驚かせ大ヒットした
CB750の大ヒットで国内では「ナナハン」という言葉が生まれた
 
1969年は日本4大メーカー最後発のカワサキが”世界最速”をコンセプトに
2サイクル空冷3気筒500ccのKAWASAKI 500SSマッハⅢをリリースし大ヒット
 
この革命的な2台のバイクの登場で国産バイクは高度成長期に突入する
 
ちなみに1969年当時の各車両の新車価格はCBが385000円、マッハが298000円だったが
47年後の現在、初期型のCBやマッハの中古価格は200万円~300万円くらいの値が付いている 笑!
 
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ファッションに目をやるとヒッピーに端を発したサイケデリックブームの影響もあり
パンタロンという裾がフレアーに広がった所謂「ラッパズボン」が大流行
 
そう言う僕も確か小学校の高学年頃までラッパズボンを履いてましたぞ
ラッパズボンを履いて自転車に乗るとズボンの裾が自転車のチェーンに絡むんですよね~ 笑!
 
当時のミュージシャンやアイドルもパンタロンを履いてましたね~
「学生街の喫茶店」でよく知られるガロ等のフォーク系ミュージシャンや
「どうにもとまらない」「狙いうち」等がヒットした山本リンダさん等が僕の記憶のイメージですね!
 
 
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ヒッピーの登場で日本ではフーテン族が全国的に繁殖しました
 
フーテン族はシンナーマリファナ、LSDを使用した精神解放を流行らせ
それに伴い男女の”性”も急激に乱れ始まます
 
そこに登場したのが岡本理研が発売したスキンレススキンコンドーム
商品は大ヒットしたそうですが、もちろん当時の僕には必要ない・・・てか、知る由もなかった 笑!
 
まあ僕的には岡本理研の「OKマーク」
当時のレーシングマシーンに貼られてたステッカーのイメージが強いですね!
 
 
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1969年には現代では当たり前にある缶コーヒーが世界で初めて登場した
缶コーヒーを作ったのは「日本のコーヒーの父」と呼ばれるUCC上島珈琲の創業者・上島忠雄だった
 
コーヒーに魅せられていた上島氏は趣味が高じてUCCを設立する
ある日上島は駅の売店で瓶入りのミルク入りコーヒー(コーヒー牛乳)を買った
 
ところが飲もうとした途端に発車のベルがホームに鳴り響いたため一口だけ飲んで慌てて電車に飛び乗った
瓶を売店に返さなければならなかったからである、そもそも瓶を使うから飲み残しが生じるのだ
 
「そうか、缶や!缶入りのコーヒーならいつでもどこでも飲めるから飲み残すことはない
しかも常温で流通できるから商材としても扱いやすいはずや」
 
それは、電撃のような閃きだった
 
上島は自らが中心となりすぐさま「缶コーヒー開発プロジェクト」をスタートさせた
そして誕生したのが世界初の缶コーヒー「UCCコーヒー」だったのだ
 
 
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新三種の神器の一つであるカラーテレビが急激に普及した事もあり
1969年には子供向けアニメも続々と放送開始されます
 
先ずは戦後の新聞漫画ジャンルを代表する国民的漫画の「サザエさん」
放送開始から47年経った現在も最長不踏距離を更新する最強の長寿番組ですよね
 
しかし感心するのは放送開始から約半世紀が経とうとしているのに
未だに話の設定が「昭和」になってるのが凄い!
 
当時僕はカツオ君より年下だったのにいつの間にか
マスオさん、いや、波平さんと同じくらいの歳になったぞ 笑!
 
しかし時代は進化したけど「サザエさん」の中には現代において忘れ去られた何かがある
僕はそんな事を感じますけどね・・・
 
 
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北欧の女流作家トーベ・ヤンソンの妖精ファンタジーの一回目のアニメ化「ムーミン」
初期の半年分を東京ムービー(現TMS)以降を虫プロが制作した
 
カルピス漫画劇場としての初作は1969年の「どろろと百鬼丸」ですが僕的には
同年に放送開始された「ムーミン」が印象深い
 
当時僕はムーミンってカバかと思ってたんですがムーミン谷に住む妖精なんですよね 笑!
おさびし山に住むギターの達人スナフキンが好きでしたね~!
 
 
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梶原一騎と辻なおきによるプロレスロマン劇画の「タイガーマスク」
時代はジャイアント馬場さんとアントニオ猪木さんを筆頭に空前のプロレスブームでしたからな~
 
プロレス界に潜む闇の組織・虎の穴で修業した日本人孤児・伊達直人
彼は悪役タイガーマスクとしてリングにデビューする
 
だが彼は組織に上納すべきファイトマネーの一部を自分が出身した
孤児院ちびっ子ハウスを守るため無断で使ってしまう
 
裏切り者となったタイガーに、虎の穴の刺客が迫り来る・・・
 
やはり今考えてみれば当時の漫画は子供に向けての強烈なメッセージがあったと思う
今でもエンディングテーマの「みなしごのバラード」を聞くと切ない気持ちになりますね・・・
 
 
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浦野千賀子原作の少女漫画界の古典とでもいうべき名作スポ根「アタックNo1」
当時はスポ根アニメが沢山ありましたがスポ根は男の子だけの物ではなかった
 
中学生の鮎原こずえははみだし者の同級生たちを集めて高慢なバレーボール部とのバレー対決に勝利
そんな彼女がキャプテンとなったバレー部は数々の困難に直面しながらも
幾多の強敵を退けやがて全国大会優勝を成し遂げるに至った・・・
 
1964年の東京オリンピックで金メダルに輝いた日本女子バレーは東洋の魔女と呼ばれ人気を博した
そんな世相を反映し人気を博したのがアニメ「アタックNo1」とドラマ「サインはV」だった
 
アタックNo1のオープニングテーマで鮎原こずえが言う
「だけど涙が出ちゃう女の子だもん」ってセリフが印象的でしたね!
 
 
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赤塚不二夫が「りぼん」誌に連載した少女ファンタジー漫画の第一回アニメ「ひみつのアッコちゃん」
 
愛用の手鏡を割ってしまったひばりヶ丘小学校5年生の加賀美あつ子はその破片を庭に手厚く葬る
その行為に感激した鏡の精は魔法の呪文で何にでも変身できるコンパクトをあつ子にくれた
 
不思議な力を手に入れたアッコちゃんは時にイタズラや失敗もしながらも人々のために役立とうと考える
この秘密を知っているのは愛猫のシッポナだけだ・・・
 
僕は男の子だから真似はしませんでしたが今はオバサンになってる(笑)当時の少女は
誰もが一度は「テクマクマヤコン テクマクマヤコン ○○にな~れ!」って真似たと思いますよ 笑!
 
 
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初期タツノコプロのギャグコメディアニメの代表作「ハクション大魔王」
 
魔法の壺の中で平穏に暮らすハクション大魔王の一家
魔王とは名ばかりで少しも恐くない姿の大魔王は、魔法の法則により
 
クシャミをした人間界の少年カンちゃんに召喚される
カンちゃんのみならずクシャミをしたらどんな人でも動物にでも仕えねばならぬ決まりの大魔王
やがて可愛いアクビ娘も壺の中から現れる・・・
 
主人公の魔王を演ずる声優・大平透さんの声が印象的でしたね!
 
 
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さて、1969年の映画界を見ると個人的には洋画・邦画とも印象的な作品がない
 
その中で僕が気になったのが1969年の邦画興行収入でブッチギリのNO1に輝いている
笠原剛三の原作「栄光への5000キロ東アフリカ・サファリ・ラリー優勝記録」(荒地出版刊)を
蔵原惟繕が監督し映画化した「栄光への5000キロ」という作品だ
 
主演に石原裕次郎さんを据え仲代達矢、浅丘ルリ子、三船敏郎、伊丹十三、笠井一彦さんと
出演者も豪華な顔ぶれとなっている
 
是非見てみたいと思いますね!
 
 
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日本歌謡界に目をやると1969年は佐良直美さんの「いいじゃないの幸せならば」を筆頭に
由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」、和田アキ子さんの「どしゃぶりの雨の中で」
 
内山田洋とクールファイブ「長崎は今日も雨だった」、ピーターさんの「夜と朝のあいだに」
ザ・ドリフターズ「ドリフのズンドコ節」、菅原洋一さんの「今日でお別れ」
ビリー・バンバン「白いブランコ」と当時子供だった僕でも覚えてる曲が多い
 
その中で僕の一押しは皆川おさむ君が歌って大ヒットした「黒猫のタンゴ」を押したい
この曲のおかげでこの時代以降黒猫を見るとついつい「タンゴ」と呼んでしまう 
 
タンゴとはもちろん音楽のジャンルの事なのだが当時幼かった僕は
黒猫の名前がタンゴだと思い込んでいましたからね~ 笑!
 
 
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さて、1969年(昭和44年)の僕は3月に專徳保育園を卒園して4月に呉市立長浜小学校に入学した
当時長浜には3つの保育園があったから小学校入学時に初対面の友達と出会う事になる
 
入学式の時に僕は出席番号が前後だったその後親友になる運命の奴と出会う
「友達になろうね!」「仲良くしようね・・・」
こう言葉を掛け合った事は47年経った今でも鮮明に覚えている
 
しかし奴はこの後約10年余りしか生きる事が出来なかった・・・
 
と、言う事で今日はこれまで!次回はいよいよ1970年代の幕開けと言う事で
1970年(昭和45年)戌年やります!乞うご期待! ジャンジャン!!

アキースボーイズクラブのルーツ (Ⅰ)

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今から35年前1981年同級生6人で結成された「アキースボーイズクラブ」というチーム
 
チームの結成に深く関わっているのがメンバー6人の内、僕、カツジ、GANちゃん、MARUの
4人が当時在籍してた呉市阿賀にある呉高等職業訓練校だった
 
高校を早期卒業した僕達4人(笑)は特に申し合わせした訳ではなかったが
同級生が高校3年生の時に偶然職訓に集結した
 
僕とGANちゃんは呉工の同級生で高校時代から仲が良かった
カツジとは初対面の事は覚えてないが高校時代にお揃いの愛車だったHONDA CB400FOUR
二人で一緒に走るなどいつの間にか友達になっていた
 
MARUはGANちゃんと同じ中学出身であり当時高校生だった尾崎とKENはカツジの幼馴染だった
 
そんな僕達6人は意気投合しアキースボーイズクラブを結成した
 
翌年、1学年下の後輩、グッチとSAGAWAの2人がコマンド部隊としてチームに加わった
彼等二人は僕とGANちゃんの高校の後輩だった
 
それから暫らくしてやはり1学年下のSHIMADAとKIKUCHIがコマコマンドとしてチームに加入した
 
 
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アキース結成当初は時代性もあり僕達はテカテカリーゼントロカビリーチームだったが
職訓を卒業し各自就職してからはチームの雰囲気も徐々に変わっていった
 
僕達も徐々に大人になっていったという事だったんだと思うが
やってた事は決して褒められるような事でもなかったんですけどね 笑!
 
アキースの結束力は異常に強く僕達は全員でいろんな事を経験した
それこそ時代の流れに乗るようにスキーゴルフ、マリンスポーツなど何にでもチャレンジした
 
 
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その中でも夏のキャンプは僕達が30代になる頃まで続いた夏の恒例行事だった
 
アキース結成当時は島根県浜田市にある畳ヶ浦に行く事が恒例だった
 
時には山口県の周防大島にも行ったし20代半ば頃からは近場の蒲刈県民の浜
倉橋、能美、音戸と場所こそ変われどキャンプは30代になるまで続けられた
 
その時々で僕達は今でも酒の肴の笑い話になる数々の伝説を創った
 
伝説とは言い伝えの全てを指す場合もあるが学問的には語り物や昔話とも区別して
狭い範囲の特殊な語り方だけを指す事を言うんだそうだ
 
だから僕達アキースを語るには夏のキャンプ、取り分け
「浜田キャンプ」はアキースのルーツとも言えるんですよね
 
 
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あれから30余年の月日が流れ僕達も50歳を超えた
幹部メンバーだったMARUとコマコマンドだったSHIMADAはあの世に旅立った
 
コマンドのSAGAWAは現在呉オールドモータースクラブの4輪担当責任者として交流はあるが
彼はもっぱら4輪専門でバイクには乗っていない
 
コマコマンドのKIKUCHIは仕事の関係で東京や海外での生活を送っている
まあこの歳にもなれば若い頃と違ってそれぞれ色んな事情があって当然だ
 
 
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そんな僕達だが昨年グッチ、GANちゃん、KENと3人のメンバーが矢継ぎ早に
大型自動二輪の免許を取りバイクを買ってリターンライダーとしてカムバックした
 
で、来年にはアキースのルーツを辿るという事で皆で浜田にツーリングに行こうという話になった
しかし若い頃と違って各自が自由な時間を持て余してる訳じゃない
と、言う訳で5月の第3日曜なら気候的にもいいし全員が行けると判断して日時を設定した
 
残念ながらKENのドカが先日故障してKENは借り物のバイクでの参加と言う事になったが
まあ僕に言わせれば大切な事は「物」ではなく「者」なんですよね
 
こうして僕達アキースは先日の5月15日に主要メンバーだけで浜田に向け出発した
 
 
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アキースのメンバーが揃って浜田に行くのは実に約30年ぶりの事だった
しかもバイクに乗って行く事は今回が初めての事だ
 
僕の記憶ではフルメンバーで浜田に行ったのは僕がまだ大明神様と結婚する前の
1987年(昭和62年)以来だと思う
 
僕は数年前に尾崎と浜田の畳ヶ浦には訪れたがGANちゃんやKENは
あの時以来だったんじゃないかな~?
 
 
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昨今浜田に行くには浜田道っていう便利な高速道路が出来ている
しかし僕達は敢えて浜田道ではなく昔のルート国道54号線経由で行く事にした
 
2・3枚目のの写真はアルバムの日付を見ると昭和58年7月17日となっている
昭和58年と言う事は1983年と言う事だから33年前の事で僕達同級生が二十歳になった年の事だ
 
当時僕はミヤニシで働いていた頃だから当日は7月の第3日曜日だったんだろうと思う
アキースが結成されて3年が経った頃だという事だ
 
 
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今から7年程前に僕はカツジと二人で初めてロングツーリングに出かけた
二人で阿蘇を走り宿泊先の熊本で酒を酌み交わし思い出話に花を咲かせた
 
「二人でツーリングしても楽しいんじゃけんフルメンバーで出来たら最高じゃろうの~」
 
「また50前にして伝説が出来るで!」
 
「まあ先ずは手始めに尾崎を引き込まんかい・・・!」 笑!
 
こうして僕とカツジの計画はスタートした
 
そしてそれは今年現実になった
 
 
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いい写真だね~! 笑!
 
写真トップや昭和58年時と比べると皆オッサンになったけど
オッサンになって皆でこうして時間が共有できるなんて素晴らしい事だと思うんですよ
 
と、言う事で今日はこれまで!続きはまた明日! ジャンジャン!!

アキースボーイズクラブのルーツ (Ⅱ)

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30年ぶりに浜田海岸の畳ヶ浦に立った僕達アキースボーイズクラブ
 
二手に分かれ打ち上げ花火を打ち合い花火戦争をしてた砂浜は埋め立てられ狭くなり
当時「覗き」が出来た(笑)特設シャワールームの掘っ立て小屋もなくなって
ずいぶんと海を望む景色が変わった事は否めない
 
そりゃそうだ、30年の時の流れは決して短い時間じゃない
 
 
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しかし変わっていない物もある
 
老朽化してお化け屋敷みたいになってる海岸前のラブホテル
忍び込んで風呂替わりに使ってた小学校のプールや仮眠室にしてた体育館
 
グッチが飛び込んで岩に直撃し頭部流血した沖波止
なぜかヌード撮影が行われてた浜田海岸県立自然公園に指定されている千畳敷
 
地元の婦人会の方が営んでるイカ焼きの海の家みたいなお店・・・
 
現存してるそれらの全てに思い出がありアキースの伝説になってる
 
 
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それに何より砂浜に隣接して建ってる国民宿舎の建物
 
確か↓の昭和58年7月に来た時は雨が降ってた
雨が止むのを国民宿舎の駐車場に停めた車中で待ってたが、誰かが
 
「泳いだらどうせ濡れるんじゃけん一緒よ~ 泳がんかい!」
 
って言って雨の中海に飛び込んだ
 
 
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若かったな~ あの頃・・・
 
 
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グッチを埋めた砂に立てたロケット花火を打ち上げて遊んだな~ 笑!
 
ちなみに写真奥の建物が当時の国民宿舎の建物です
 
 
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HISASHI君やKUWABARAのアニキもよく一緒に訪れた
 
こちらは僕が独身最後の年になった1987年(昭和62年)
結婚前の大明神様を伴い訪れた時の物だ
 
この年の11月に僕は大明神様と結婚した
 
 
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僕も細いがカツジは超細い、ガリガリじゃん! 笑!
 
 
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当時呉にあったヒットスポーツで時代遅れの三角テントを例年借りていた
まあ僕はテントでは寝れないタイプだったから小学校の体育館のマットか車の中で大体は寝てた
 
ある年、Be-1の車中で寝てたら朝方ガサガサする音で目が覚めた
 
何の音かと思ったら車の中に数えきれないくらいのフナムシが・・・
イタズラ好きのHISASHI君の仕業だった 笑!
 
 
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そんな数々の思い出や伝説を創った浜田に、こうしてまた皆で訪れる事が出来た
言葉にはしなくても皆、感慨深いものがあったんじゃないかな~・・・
 
てか、今回も齢52歳にして「洞門の変」という伝説も創ったし! 爆!
 
と、言う事で30数年前の思い出の地を訪ねた僕達は畳ヶ浦を後にします
ツーリングレポは明日で最終回!乞うご期待! ジャンジャン!!
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