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桜鯛はまだか!?

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3月25日月曜日 天気 曇り  中潮
 
 
当初の予定では当日は鉄馬に乗ろうと思ってた某(それがし)だが
先週の月曜日の祝日に予定していた家族サービスが正室の都合で予定倒れになり
急遽鉄馬に乗る事になったので今週は戦場に様子見に行く事にした
 
現在安芸の国周辺では桜もボチボチ咲き始めたが戦(釣り)の世界では「桜鯛」という言葉がある
産卵を控えた真鯛家の武士たちが浅場に回遊してくる時期を指しての言葉でござる
 
思い返せば某がチヌ家との戦の他に真鯛家を狙っての戦を本格的に始めたのは昨年の巳月(6月)の事だった
通常呉の真鯛家の乗っ込みはチヌ家同様卯月(4月)中旬頃から始まり辰月(5月)に盛期を迎えるらしい
と、いう事で真鯛家に戦を仕掛けるには少々早いとも思われたのでござるが・・・
 
真鯛家の武士をフカセで討ち取るには兎にも角にも一番大事なのは潮の流れでござる
船での海戦なら潮の流れによって本陣を動かす事も出来るが陸の戦いでは本陣を動かす事が出来ない
だから本陣から沖に出る少々早めの潮が出ないと戦にはならないのでござる
 
真鯛家は基本的にチヌ家のように浅場に陣を敷いてはいない
撒き餌を深場にいる真鯛家の本陣に届けるにも沖に出る潮というのが絶対条件なのだ
 
 
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当日某が戦場に到着したのはまだ夜も明けぬ辰の刻半(5時半)でござった
当日の潮は下りの中潮で干潮が巳の刻(6時)という事だった
暗がりの中街灯の灯を頼りに仕掛けを作る某
 
朝マズメを迎え満ち潮が流れ出した時本命潮が出たが早瀬は水道という事で潮流が安定し難いのだ
某の経験ではこの地は本命潮が流れても長くても1時間程しか続かないのだ
この潮を逃すと負け戦になる確率が高くなるから気合を入れて手返しを繰り返す某
 
道糸を張りながら潮に乗せたウキを沈めながら撒き餌と同調させ流す某
暫らくすると当日第一発目のアタリが道糸から伝わり合わせを入れる、乗った!
 
手応えからして小物である事はわかるが首を振っているので鯛一族である事は確かだ
 
ーさあ、赤か?黒か?
 
海面に姿を現したのはソメイヨシノのように桜色に色づく真鯛家の若武者だった
 
ー小物じゃが幸先ええど・・・
 
 
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幸先いいスタートを切った某だったがなかなか後が続かない
 
そうこうしてたら潮が緩んできた
潮が緩むと間違いなく潮流の方向が変わる、急げ、急ぐんだ! 笑!
 
しかし某に討ち掛かって来たのは外道のブダイ家の豪族だった
ブダイは召し取ってもカラスの餌にしかならない
と、いう事で無駄な殺生をしない某は即放流してやった
 
 
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某が危惧した通り本命潮は長くは続かなかった、その後潮は左へと流れを変えた
 
ー う~ん この潮はメバル家が出る潮なんじゃが・・・
 
案の定小型のメバルが1尾出たが次に出たアタリは少々手応えがあった
 
ー 首振っとる、鯛一族という事は間違いないが潮の流れからしておそらく”黒”じゃろうのぉ~・・・
 
案の定水面に姿を見せたのはチヌ家の武将でござった
それが写真トップのチヌ家の武将だ
 
検寸するとジャスト40cm
チヌ家も乗っ込み期が間近という事で腹がだいぶ膨らんでいた
 
 
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ちょうどその時顔見知りのタコ壺漁師さんがタコ壺を上げに来た
 
「オ~イ 釣れるか?」
 
「鯛は小まいのが1匹・・・ 今釣れたチヌいります?」
 
「おっ、くれるんか? ほなら貰おうか!」
 
「どうぞどうぞ!」
 
「タコが入っとったらやるんじゃがタコはボウズじゃ、これがホンマのタコ坊主で!」 爆!
 
と、イカシたオヤジギャグを飛ばして漁師さんは帰って行った 笑!
 
 
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その後35cmのチヌ家の武士を討ち取った某
放流しようかと思ったが1時間前くらいに投げ釣りに来たオジサンに声を掛ける
 
「釣れます?」
 
「いや~ 1回アタリがあったが逃げられてしもうた・・・」
 
「オジサン、よかったらチヌあげましょうか?」
 
「ん? アンタはチヌ食べんのか・・・?」
 
 
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投げ釣りのオジサンは嬉しそうにチヌを袋に入れた
 
「これで今晩一杯やれるわい!」 笑!
 
と、いう事で昼になり下げ潮になったので当日の戦はあえなく終了
撤収じゃ!陣払いじゃ!!
 
 
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当日の尾崎家へのお土産
 
真鯛1、アイナメ2、メバル1
 
さてさて、真鯛家もチヌ家も乗っ込み本番は4月に入って5月いっぱいくらいだと思われるでござる
どちらも自己記録更新といきたいが球打ち鉄馬もシーズンでござる
 
ま、を見て予定を決めたいと思いまする! 笑! ジャンジャン!!

34年前の見合い写真

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「34年前の見合い写真」というタイトルを見て僕か大明神様の
34年前の見合い写真かと思った人もいると思うが残念でした! 笑!
 
てか、僕達夫婦は今年秋に結婚29周年を迎えるという事だし
僕も大明神様も見合いなんて未経験だし見合い写真なんて撮った事もない
 
今日のタイトルの御本人は今年で御年34歳になるウチのゴル子ちゃんの事なんです
 
ウチのゴル子ちゃんは1982年式、昭和57年生まれと言う事です
で、その時代に撮られた見合い写真(カタログ)を入手したという事です
 
 
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フォルクスワーゲンGOLFの登場は1974年(昭和49年)
それから遅れる事6年後1980年カブリオは登場しました
 
ご存知の方も多いと思いますがVWがカブリオレという名の
オープンカーの製作を始めたのは今から約70年前の事なんです
 
古くは空冷時代のビートルカルマンギアにもカブリオレは存在しました
 
1938年(昭和13年)に登場した空冷エンジンのビートルタイプⅠが役目を終え
水冷エンジンに切り替わりVWのフラッグシップモデルとしてゴルフが登場したのが1974年(昭和49年)
 
VWにとってオープンエアモータリングの歓びを満喫できるカブリオレ造りは当然の追及テーマだったのです
 
 
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VWのカブリオレ造りにはヨーロッパ屈指のコーチビルダーである
カルマン社が深く関わっている事はよく知られています
 
カルマン社といえば馬車の時代から長く豊かなキャリアを持ち
カブリオ造りの歴史はすでに80年近くに及びます
 
その豊かなキャリアによって培ってきた技にVW社は大きな信頼を寄せている
VW社とカルマン社はかけがえのない伴侶でもあるんですよね
 
 
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そして1980年(昭和55年)、満を持してカルマン社が手掛けた
VW GOLF CABRIOがリリースされたんです
 
カルマン社が精魂込めて造るカブリオレは職人芸そのものの巧みで綿密な造り
そこから生まれる高いクオリティや高剛性などがゴルフカブリオの
高機能、美しさ、更には信頼性を支える命となっているのです
 
 
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先日「VWゴルフ”今昔”」という記事を書いた時にも言いましたが
現代のゴルフに比べて当時のゴルフは見た目の車格は凄く小さいです
 
当時のカブリオのカタログにはフルオープンにした時の解放感
曙を閉じた時のサルーンのような居住性の確保の二面性が強調されています
 
しかし実際にカブリオに乗ってみると窮屈さはあまり感じませんね
カブリオは2枚ドアですからリアの空間はさほど広いとは言えませんが
座る事には十分のスペースだと思います
 
それより何より大人4人が十分に座れてフルオープンになる車ってそうそうないですからね
 
家族サービスにも使えてフルオープンの解放感も味わえ
エアコンもあって現行車にはない味もある
 
個人的にはとても便利な車だとは思います・・・故障さえなければね! 笑!
 
 
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純正ハンドルってこんなデザインだったのか・・・ あまりカッコよくないな~ 笑!
まあ当時の車はエアバックが装備されてないからハンドルは変えればいいんですけどね
 
ちなみにカタログにはパワステ装備となっていますがウチのゴル子ちゃんは重ステですぞ?!
 
てか、インパネの計器類を見るとウチのゴル子ちゃんとちょっと違うな~
カタログ内の計器を見るとタコメーター内にフュールゲージと水温計が付いている
 
僕がこれまで見たカブリオを含めたゴルフⅠはフュールゲージはタコメーター内ですが
水温計はスピードメーターとタコメーター間の上部に付いてる
 
年式の違いなのか? 輸出国によって仕様が違ったのか?
 
 
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各所のスペック内容が書かれているがカタログには総排気量1780ccと記載されている
ウチのゴル子ちゃんの総排気量は1710cc
 
ゴルフカブリオは1985年1・8リットルに変更されているから
おそらくカタログのモデルは1985年発売のモデルと言う事なんだろうと思う
 
ゴルフカブリオは1989年にスモールバンパーが廃止されバンパーが大型化してるから
カタログは1985年~1989年のモデルだと推測されますね
 
 
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最後のページにはオプションパーツ各種とスペックデーターが載っている
 
カタログには型式がE-15JHKとなっているがウチのゴル子ちゃんの型式はE-15ENK
やはりカタログの車両はウチのゴル子ちゃんのマイナーチェンジ版という事なんだと思う
 
メーカー純正のボディカラーホワイトシルバーメタリックブラックの3種類という事になっている
のトップカラーはブラックが2種類とライトサンドの2色展開だったようだ
シートカラーブラック/シルバーのみだがなぜか同じ物が3種類載っている
 
てか、ウチのゴル子ちゃんのシートはオールブラックレザーだが
これは当時の別注だったと前オーナーから聞いた
 
オプションで純正リアスポイラー(25000円)もあったのか
てか、個人的には似合わないって思いますが・・・ 笑!
 
 
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このカタログは横浜ヤナセからの出物ですね
 
てか、ウチのゴル子ちゃんは現在入院して2週間が経過した
 
例のオイルプレッシャーの誤作動対策として基盤を外注で業者に修理に出している状況だ
他の部分の部品待ちでもある
 
さてさて、今度こそ完治しますかな? 笑! ジャンジャン!!

花燃ゆ

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さて、年に一度の個人的な恒例行事であるTUTAYA宅配レンタルDVDによる
NHK大河ドラマの一気観ですが先日やっと2015年「花燃ゆ」を観終えました
 
現在放送中の「真田丸」高視聴率に加え高評価の声をよく耳にしますが
昨年の「花燃ゆ」に関しては放送当時から低視聴率に加え酷評の声をよく耳にした
 
まあ毎年注目される大河ドラマですから賛否の声は仕方ないにせよ
なぜ花燃ゆ平均視聴率12%という低評価に終わったのか?
 
最近10年内の大河ドラマの幕末物と言えば平成16年の「新撰組 17・3%」、平成20年の「篤姫 24・5%」
平成22年の「龍馬伝 21・3%」、平成25年の「八重の桜 14・6%」となっている
 
ここで注目されるのが平成20年の篤姫24・4%という高視聴率だろう
 
篤姫は江戸時代末期に薩摩藩に生まれ島津家の養女となり江戸幕府13代将軍である
徳川家定公の正室になった女性だが史実的に見てもあまり有名な人でもない
そんな女性を主役に描いた作品が高視聴率をマークした
 
そして二匹目のドジョウを狙ってNHKは平成26年にこれまた史実的にはそこまで有名じゃない
会津藩に生まれ幕末の時代を生き延び新しい女性像の模範になった新島八重さんを取り上げた
 
まあ八重の桜は視聴率で言うと篤姫の二匹目のドジョウとはならなかったようですが
僕は両作品共観ましたが視聴率は度外視してもどちらの作品も面白かったと思いましたよ
 
 
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そんな風評と世間的評価の予備知識を念頭に今回「花燃ゆ」を観ましたが
個人的な感想は結論的に言うと大変面白かったと思いますよ
 
「花燃ゆ」の主役である井上真央さん演じる「杉文・後の楫取美和」は松下村塾で知られる
伊勢谷友介さん演じる「吉田松陰」の実妹であり東出昌大さん演じる長州藩士「久坂玄瑞」の妻となる
 
しかし久坂は禁門の変で自刃に及び文は未亡人となる
 
優香さん演じる文の実姉「寿」の元夫で長州藩士として活躍し
維新後には政府の要人になり更には群馬県令や貴族院議員を歴任した
大沢たかおさん演じる「小田村伊之助・後の楫取素彦」と寿の死後再婚した
 
まあ幕末期における日本の一連の史実は僕もそこそこは知っているし
幕末期における長州藩の史実や志士も素人レベルですが多少の知識もありましたが
楫取素彦・美和さんご夫婦の事は殆ど知りませんでしたな~
 
 
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今回の大河ドラマ「花燃ゆ」の特徴の一つに物語が
大きく分けると3部構成になっていた事が挙げられると思う
 
第1部は文が長州藩の下級武士だった家において兄の吉田寅次郎(後の松陰)と共に
松下村塾を立ち上げ塾生達と将来の日本について学び合い
塾生の一人だった久坂玄瑞と結婚するも死別する件
 
第二部は毛利家の大奥に上がり毛利元徳公の嫡子である興丸の守役となる大奥での件
 
映像では第1部の幕末志士達による地味な色彩が多かったロートーンの画面から
一転して大奥の女達の着物を始め色鮮やかなハイトーンが映し出された
 
 
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第3部では激動の幕末を経て維新となり新しい日本の明治という時代において
近代国家へと変化していく中で欧米文化が取り入れられた件
 
しかし一部報道によるとこの3部作が視聴者には受け入れられなかったと書いてあった
 
主人公が史実上あまり知られていない「文」だったという事で本来主役級である
兄の松陰や夫の久坂が時代に翻弄されて死んでいき
それを見守り耐え忍ぶ姿ばかりが印象に残ったという事だ
 
だからイケメン俳優である伊勢谷さんや東出さん、高杉晋作役の高良健吾さんが
劇中からいなくなると急に観なくなる人が少なくなかったようだ
 
まあ大河を観る人は僕のように歴史好き、歴史ドラマ好きという人ばかりではないとも思う
それこそ内容よりキャストによって観る、観ないを判断する人達も多いんでしょうな~
 
僕も数人はちょっと違うかな~・・・って思った俳優さんもいたけど
主役の真央ちゃんや準主役だった大沢さんも良い演技だったと思いますがね~
 
低視聴率は主役である自分の責任だと真央ちゃんは言ってましたが
僕には他に理由があると思うし真央ちゃんが悪かったとは思いませんがね~
 
 
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こちらの写真が実際の楫取素彦・楫取美和夫妻だそうです
 
これは篤姫の時にも八重の桜の時にも思いましたがドラマで演じる女優さんと
実際の御本人には少なからず見た目のギャップは感じますよね 笑!
 
まあそこは、あくまでドラマだから仕方ない事だと思います
 
昨年夏、僕は「熟年夫婦の旅」と題して山口県萩松陰神社松下村塾、吉田松陰歴史館
更には萩で開催されていたNHK大河ドラマ館「文と萩物語」にも訪れました
 
吉田松陰歴史館の記事      http://blogs.yahoo.co.jp/prains237/14099209.html
 
松陰神社と松下村塾の記事   http://blogs.yahoo.co.jp/prains237/14101646.html
 
大河ドラマ館の記事        http://blogs.yahoo.co.jp/prains237/14104025.html
 
今回ドラマを見てまた改めて訪れたいと思いましたね
と、いう事で今日はこれまで! ジャンジャン!!

俺たちの1975

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ここに2冊の漫画3冊の写真集がある
 
漫画の方は以前何度か記事にも取り上げた東本昌平さんの「CAROLAWAY」という作品で
1975・4・13、雨の野音でのキャロルのラストライブをメインに当時の若者の青春をリアルに描いた作品
 
対して3冊の写真集は言わばCAROLAWAYの写真版という感じで
1974年から1976年にかけての原宿近郊での若者たちの写真集となっている
 
同じ70年代の写真集でも先日記事にした「70’HARAJUKU」とは視点が違う
 
いつの時代もカルチャーは若者によって創られていく
 
1975年前後と言えばナナハンと言われた巨大なオートバイを操る若者たちによって
「暴走族」というカルチャーが加速的に全国へと広がった時代だ
 
そんな時代を撮り続けていた木下裕史さんという写真家の秘蔵カットが写真集にまとめられた
写真集「俺たちの1975」「俺たちの1975 アーカイブス」「俺たちの1975 ラストダンス」
3部作の写真集になっている
 
1975年前後の原宿と言えばキャロルの親衛隊を務めたクールスが生まれた町としても有名だ
 
当時の原宿をクールス目線で描いた遠藤夏樹氏著書の「原宿ブルースカイヘブン」
ルート20という暴走族のリーダーだった遠藤さんご自身の目線で描かれた
「原宿バット・エンジェルス」からも当時の原宿界隈の様子を伺い知る事が出来る
 
 
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上の漫画が東本さんによってディティールまで拘って忠実に当時の様子を描かれたCAROLAWAY
下の写真が木下氏が当時撮影された原宿での暴走族だ
 
 
と、言う事で今回は3部ある写真集の中から初作の写真集「俺たちの1975」を見ながら
僕の体験した1975という視点で記事を進めたいと思います
 
年と言えば昭和38年生まれの僕は当時小学校6年生という事で
世の中でこんな事が起こっているなんてまったく知らなかった
 
夕方5時には家に帰り楽しみにしてたテレビアニメや特撮ヒーロー物に熱中してた頃だ
呉の広の奥地の長浜という超田舎の普通の少年だった僕は夜8時には床に就かされていた
土曜日に限りドリフの「8時だョ!全員集合」を見させてもらう程度だった
 
そんな当時のある日の朝、僕が学校に行こうとランドセルを背負って家を出ると
家の下の道路の真っ黒いアスファルトに白い缶スプレーで「流星参上!」と書かれてある文字を見た
 
その時僕は「流星」ってのもピンとこなかった
後に知る事になるのだが「流星」ってのは当時呉の畑近郊を中心に結成された暴走族だった
 
 
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そんな普通の少年だった僕は1976年に中学校に進学する
半ズボンだったパンツは長ズボンに代りアニメや特撮ヒーロー物も殆ど見る事がなくなった
 
陸上部に入部した僕は学校の帰りも遅くなれば7時頃になった
学習塾にも通い始め塾が終わると帰宅は9時半だった
 
思春期に入った僕は枕元に置いたラジオで深夜放送を聞き入るようになる
土曜日ともなれば10時からテレビで放送されていたウイークエンダーをこっそり見て
当時人気DJだった鶴光の深夜のラジオ番組オールナイトニッポンを朝まで聞いた
 
日曜日ともなれば友人達と自転車で広の商店街に繰り出した
まあ繰り出すと言っても広書房で文庫本を買い求める程度でしたがね
それでも小学生までは広に行くのも母親同伴だったから当時の僕には十分刺激があった
 
更にはバスで呉の街に出て呉シネマで公開される洋画を欠かさず観るようにもなった
学校の先輩にも所謂「不良」と言われた人達もいたが町でも不良らしき人を見かけた
 
街の不良で僕が印象に残っているのが彼等の車やバイクに貼られた「VAN」のステッカーだった
最初はVANの事もよく知らなかったが雑誌でファッションブランドである事を知った
 
 
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思春期に入り少々色気づいた僕はファッションという事が気になり始めた
 
それまでは母が買ってきた服を着ていたが自分なりに好みが出てきたのだ
ファッション雑誌「ポパイ」「ホットドック」を買っていろいろファッションを研究するようになる
 
の写真の男女が履いているシューズはおそらくVANブレーバーブラバスだと思うが
当時の僕には本物は買えなかったが似たようなバッタ物の靴を履くようになる
 
それより何より僕が心を奪われたのはVANオックスフォードのボタンダウンシャツ
トップサイダースニーカーだった
 
ファッション誌を見てると学生服の下に着る規制のカッターシャツがダサいと思い始めたのだ
僕が念願のボタンダウンとトップサイダーを手に入れたのは中学2年になってからだった
とうぜん僕はボタンダウンを着てトップサイダーを履き学校に行くようになった
 
その頃はまだ自分が不良という認識も意識もまったくなかった
 
ちなみにこの後1978年VANは倒産してしまうのだが・・・
 
 
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ボタンダウンを着て学校に行くようになった僕は
人より違う恰好をする事で少し優越感自己満足を感じるようになる
 
この時の気持ちが今でも僕の原点だと思う
 
そんなある日僕は先生にボタンダウンを着ている事を咎められる
要はボタンダウンを着てはいけないと言われたのだ
当時はボタンダウンを着てるだけで不良と言われた時代だった
 
ボタンダウンは僕に更なる悲劇をもたらす
当時中2だった僕は中3の不良な先輩に校舎の裏に呼び出される
 
「オイ!オマエ何生意気なシャツ着とるんな・・・!」
 
僕の意識しない所で僕は先生や先輩に目を付けられる事になったのだ
しかし思春期になり自我が芽生えた僕は先生や先輩の忠告を無視し反抗する
 
あの時先生や先輩の忠告を素直に聞き入れ規制のカッターシャツを着ていれば
その後の僕の人生は大きく違った物になっていたかも知れない
 
しかし僕は先生や先輩が言う事に従わなかった
 
 
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かたくなに先生や先輩の忠告を無視した僕は先生には嫌われ先輩には目の仇にされるようになる
こうなると現代の中学生なら登校拒否になるんだろうが僕は逆に反骨芯に火が付いた
 
「皆が不良じゃ言うんじゃったら・・・」
 
そんな事を思い始めた僕の転落はあっという間だった
まあ僕にも充分不良の資質はあったんだろうが・・・ 笑!
 
秋には中ランヨコスカ(ボンタン)を買って学校に着て行くようになる
更には理髪店でアイパーをかけ髪はポマードで固めたリーゼントになる
数人の同級生も僕に習って規定外の学生服を着るようになった
 
先輩には毎日呼び出され殴られもしたが僕は中ランもヨコスカもやめなかった
もちろん先輩の恫喝には怖さも感じてはいたが僕は反抗し続けた
ジェームスディーンさながらの理由なき反抗である 笑!
 
年生が卒業してからは もうやりたい放題になった
3年の時に広中から転校してきた街の不良にも感化された僕は猛スピードで加速した
他校の不良とも友達になり他校の不良女子とも遊ぶようになる
 
そりゃ自由奔放に行動するんだから楽しくない訳がない
後はもうドナドナですよ! 笑!
 
 
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僕にとってはこんな「俺たちの1975」でしたが当時小中学生だった僕のイメージでは
当時の大人?の不良はこんな感じの人が多かったように思います
 
男はアイビーをちょっとだらしなく崩した感じの人が多かった
髪はポマードでキメタ感じじゃなくパーマリーゼントにしてた
今考えたらオッサンみたいに見える 笑!
 
女は化粧品会社の美容部員さんを筆頭に「オネエサン」って感じの人が多かった
現代のティーンエイジの女の子は僕には凄く幼く感じますが
当時のハイティーンのオネエサンは大人の女の色気を感じる人が多かった
 
オネエサンは本当に良い匂いがしましたからね~ 笑!
 
これが僕等の時代になると特攻服ピンクといった派手な竹の子族みたいな格好になった
そして80年代に入ると湘南爆走族みたいな超ヤンキーへと進化?した 笑!
 
 
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この写真集に出てる人達も今では還暦前後になってらっしゃると思う
写真の女性たちもがいる年代になってるんじゃなかろうか?
 
人間は誰にでも思春期という青い時代がある
 
今回使用した写真は3部作初作の「俺たちの1975」の写真集からだが写真集の見出しには
「人間の死亡率は100% 生きてるうちに、若き日の思い出を見直せるのは幸せである」
と、書かれている
 
確かに昨今、この歳にもなれば毎年誰か同世代の知人が死んだという話を耳にする
 
過去を振り返っても過去は変える事は出来ないが自分が生きてきた生き様が”今”なのだ
決して人に自慢できる事でもないが思春期にヤンチャしたのも自分自身だ
 
だからと言ってヤンチャしてた人が皆人生の落伍者ではない
人生をツッパリ続けて出世したり幸せになってる人も山ほどいる
 
 
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「人生は筋書きのないドラマ」であると言われる
 
更にはそのドラマの主人公を演じるのも脚本を書くのも自分自身だ
ドラマの序盤が波乱万丈だった作品はいくらでもある
 
逆に言えば波乱万丈だったという事は滅多に出来ない経験をしたとも言える
 
その経験を生かすのも人生
 
人生3毛作とも4毛作とも言われるが1975年にヤンチャしてた人達も
今では人生の終盤に差し掛かかろうとしてると思われる
 
VANの創設者である故、石津謙介氏は人間50を過ぎたら還元の時期だと言われてた
 
確かに当時と時代性は違うが経験して来た事を良かった事も悪かった事も
今からの若い人に伝え還元する事も大事な事なのかも知れない
 
別にこの歳にもなって見せかけだけのカッコつける必要もないし
逆に中身が伴わずカッコつけてる人はカッコ悪い
 
それは出世してるとか、金持ちになってるという事が条件じゃないし関係ない
僕はそう思いますね!
 
と、いう事で「俺たちの1975」はまた次回視点を変えてやります! ジャンジャン!!

年賀切手シリーズ (卯年) 1963年 のごみ土鈴

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1963年(昭和38年) のごみ土鈴
 
 
さて、今回で4回目となる年賀切手シリーズですが
今回は1963年(昭和38年)卯年という時代を振り返ってみたいと思います
 
1963年は卯年という事ですが卯年生まれの性格は行儀がよく優しさがあり上品です
一般的に静かな生活を好み落ち着きがあります
 
卯年の干支の人は強運の持ち主と言うことが出来ます
商才に長け交渉上手なためどんな分野でも若くして成功を収める人も少なくありません
気分屋で機嫌が悪くなると自分の殻に閉じこもって周りの人にも冷たくなります
 
また中傷に弱く些細な事でも傷ついてしまいます
他人にはうわべだけよく内面には残忍な面を持っている人もいます
物腰は柔らかですが自分の幸せを一番に考えます
 
卯年生まれの人は誰よりも自分を大切にします
自分に危険が及んだり自分に損害が出るような時は身を守るために何でもします
誰でも犠牲に出来ることを覚えて接すると良いでしょう・・・
 
と、言う性格分析ですが僕は昭和38年生まれの卯年生まれですが
自己分析してみても納得する部分と違うって思う部分がありますな~ 笑!
 
という事でここからは1963年の大ヒット曲である
梓みちよさんの「こんにちは赤ちゃん」を聴きながらご覧ください
 
 
 
 
 
こんにちは赤ちゃん/梓みちよ 1963
 
 
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1963年の世界情勢を見てみると11月22日に時の第35代アメリカ合衆国大統領
ジョン・F・ケネディーがテキサス州遊説中に銃撃され暗殺されています
 
ケネディー大統領暗殺については当時不倫関係にあったと言われる
前回の記事に登場したマリリン・モンロー死亡説同様に謎の部分も多く未だに論議を呼んでいます
 
何はともあれアメリカが一番輝いていた時代の象徴だったケネディー大統領の死は
アメリカ全土に暗い影を落としたという事は間違いないでしょうね
 
 
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日本国内に目を向けると大相撲からプロレスに転身して人気を博した
力道山が1963年12月に路上で暴力団関係者とトラブルになり
ナイフで刺されて死亡するという事件が起きている
 
後のプロレスブームの2枚看板になったジャイアント馬場
アントニオ猪木両氏は当時力道山の弟子だった
 
 
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昭和の時代を過ごした方には懐かしい初代内閣総理大臣「伊藤博文」氏が描かれた旧千円札
 
この千円札が発行されたのが1963年だった
 
 
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日本初の連続テレビアニメとして手塚治虫原作の「鉄腕アトム」が1963年元日から放送開始された
 
ちなみにこの年の10月には「鉄人28号」、11月には「エイトマン」が放送開始されている
 
テレビが一般家庭に普及し子供達の娯楽になる記念すべき年だったという事だ
 
 
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1963年の洋画も名作が数多く誕生している
 
年間興行収入第1位はジョン・ウェイン、ヘンリー・フォンダ等が出演した「史上最大の作戦」
第2位がピーター・オトゥール、アレック・ギネス等が出演した「アラビアのロレンス」
しかし僕の一押しはスティーブ・マックイーンが主演した「大脱走」
 
第二次大戦中に脱出絶対不可能とうたわれたドイツの捕虜収容所から
連合軍捕虜が大量脱走したという実話の映画化作品
 
その題材の面白さもさることながら見せ場に次ぐ見せ場を盛り込んだ脚色と
ダイナミックな演出によって類稀な娯楽作品に仕上がっている
 
ま、何よりトライアンフ トロフィーを操る主演のスティーブ・マックイーンが超カッコいい!! 笑!
 
 
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日本歌謡界に目をやると1963年も後世に残る名曲が数多く誕生している
 
坂本九さんの「見上げてごらん夜の星を」、舟木一夫さんの「高校三年生」、
翌年に東京オリンピックを控えてるという事もあり三波春夫さんの
「東京五輪音頭」もヒットしている
 
他にはザ・ピーナッツ「若い季節」などもヒットしているが
個人的には同年の日本レコード大賞も受賞した当時のヒットメーカーコンビである
中村八大&永六輔の名作、梓みちよさんの「こんにちは赤ちゃん」を押したい
 
それはなぜかと言うと・・・
 
 
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昭和38年10月22日に不肖、私めが呉の舟橋産婦人科にて産声を上げたからだ! 
まさに「こんにちは赤ちゃん」だったという訳だ 笑!
 
当時ウチの両親は呉市の清水通りに住んでいた
当時、親父は26歳、母は28歳だった事になる
 
待望の長男誕生に両親はさぞ喜んだんじゃないかな~?
 
と、言う事で今日はこれまで! 次回は1964年辰年やります
乞うご期待! ジャンジャン!!

入学式につき・・・

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何かと忙しくって髪がボサボサに伸びてましたが先日仕事が終わって
ブルーベルベッツにてカキちゃんに髪を切ってもらいました
 
白髪サイドバックリーゼント! いかがでしょうか? 笑!
 
 
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今日はこれから娘の万凛の高校の入学式がありますからね~
チョイ悪オヤジの僕にとっても今回が我が子達の最後の高校の入学式です
 
何事も最初が肝心!
 
入学式でナメられるわけにはいきませんからね~ 笑!
 
 
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と、言うのは冗談ですよ 笑!
娘の為に目立たないようにおとなしくしときます
 
てか、僕は自分の高校の入学式前の学校説明会でナメられないようにと
メッシュを入れたリーゼントにして行った
 
それを咎められた科の先生にナメた口を利いて目を付けられた
その事が尾を引き僕の高校生活はドナドナになった
 
逆の意味で「最初が肝心」という事です! 笑! ジャンジャン!!

入学式

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4月6日水曜日
 
 
つい先月の中学の卒業式で別れの涙を流した愛娘の万凛ですが
昨日は高校の入学式と言う事で始めて高校の制服に袖を通し学校に足を踏み入れました
 
入学式は学校の体育館にて午後2時から行われました
と、言う事で僕も娘の入学式に参列して来ました
 
今年度からブレザーからセーラー服に制服が変更になった宮原高校
僕は昨日初めて娘のセーラー服姿を見ましたね! 笑!
 
 
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よくよく思い出してみたら僕の時の呉工業高校の入学式は
体育館じゃなく確か学校のグランドで行われたような記憶があります
 
いや!リーゼントにボンタン履いた生徒会長が朝礼台に上がって
挨拶した事はハッキリ記憶にあるので間違いない
 
当時呉工は8クラス×40人=320人だったから体育館に入りきらなかったのか?
入学式の後に何かしらで体育館に移動した事は覚えているのだが・・・
 
 
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宮原高校の新入生は5クラス×40人=200人という事だった
入学式には在校生の姿はなく新入生だけで行われました
 
う~ん 37年前の事だからハッキリ覚えてはいないが
確か僕の時は全校生徒が参列してたような記憶があるんですがね~
 
逆に親は来てたのか? 親が来てた記憶がまったくないぞ・・・
しかし現代では母親は元より父親の参列者も多いですね~
 
 
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入学式はあっという間に終わり教室に移動して初めてのホームルーム
 
黒板には「祝 御入学おめでとうございます!」の文字が・・・
 
 
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万凛へ
 
高校入学おめでとう!
先ずは君が志望した高校に無事入学できた事は父さんも嬉しいです
 
入試の会場でインフルエンザになって先生に保護されたと連絡があった時
「もしかして・・・」って心配もしたからね
 
今日からいよいよ高校生活が始まるんだね
これから始まる高校生活は楽しみかな? それとも不安かな?
 
中学に入学した時にも言ったし昨日の入学式で校長先生も言ってたけど
3年後の卒業式には中学の時のようにいっぱい涙が流せる3年間を送ってほしい
 
楽しい事ばかりじゃなく悲しい事や辛い事もいっぱいあると思うけど充実した3年間にしてほしい
いっぱい友達作って、いっぱい思い出を作って下さいね
 
それと一つだけ君に言っておきたいのは高校3年間の間で
将来どんな仕事に就きたいのかをじっくり考えて欲しい
それがこれからの3年間での最大の課題だと思います
 
迷うような事があったら父さんにも相談してくださいね
父さんはどんな事があっても君の見方だからね、応援してるよ!
 
 
白髪リーゼントの父さんより
 
 
と、言う事で今日はこれまで! ジャンジャン!!

8年ぶりの・・・

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4月6日水曜日 天気 晴れのち雨
 
さて、先日娘の入学式があった日の夜
 
PINK BEEの森君に「カープのチケットがあるから行かないか」と誘って頂いたと言う事で
店を少し早仕舞いして山崎屋弁当社長の河野君と3人でマツダズームズーム球場
カープVSヤクルトの試合を観戦に行きました
 
僕はマツダズームズームに訪れたのは何と8年ぶり二度目の事だった
 
僕はカープが1975年に赤ヘルになって感動の初優勝を飾る以前の
セ・リーグのお荷物球団と言われてた小学生のガキの頃から大のカープファンだった
 
広島市民球場には数えきれないくらい試合観戦にも訪れたし
二人の息子達が小学生の頃は家族で春の宮崎日南キャンプにも訪れている
 
しかし僕は息子達が野球を引退した時からプロ・アマ問わず野球を観る事を一切やめた
 
野球界という世界に嫌気がさした事が最大の理由だったがカープ球団に対しては
可愛さ余って憎さ百倍という事で時代錯誤を売り物にして企業努力をしない姿勢に腹が立ち
これまた嫌気がさしていたと言うのが理由だった
 
おかげでカープは1991年(平成3年)以来実に四半世紀も優勝していない
日本一に限れば1984年(昭和59年)という32年前の出来事だ
 
昭和50年代に強かったカープには逆指名FA等の度重なるルール改正で逆風が吹いた事は確かだ
親会社を持たないカープは赤字を出せない事もよくわかる
 
しかしルールは12球団平等だし近年カープ人気で球団は儲かってるはずだ
その金はいったい何に使われているんだ? 笑!
 
 
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マツダズームズーム球場はオープンして今年で8年目になるそうだ
確か僕の記憶ではズームズーム初年度の監督はブラウン監督だったと思う
 
僕はもうその頃には野球観戦を辞めていたが新球場がオープンと言う事で
一度球場を見に行こうと誘われて秋に消化ゲームの雨の阪神戦を観戦に行った
 
その時も誘ってくれたのが偶然にも今回同行した二人の先輩だった
 
確かその日の試合は青木(高)だったか大竹だったかが先発して初回から大乱調で
見せ場もなくワンサイドゲームになり雨脚も強くなり途中で帰った 笑!
 
プロ・アマ問わず野球を生で見たのはその時以来という事だ
 
 
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数年前からなぜかカープはカープ女子というのが全国的に大流行し
どこの球場に行っても多くのカープファンが盛り上がりを見せている
 
それ以前のカープはセ・リーグ断トツのマイナー球団で平日のホームゲームなんて
人気球団の巨人戦や阪神戦以外のカードだったら閑古鳥が鳴いていた
 
何で急にこんなに人気球団になったのかは僕には未だまったくわからない 笑!
しかし世の中って、いつ、何が流行るか分かりませんな~
 
ま、地元広島が盛り上がる事は良い事だとは思うんですがね・・・
 
 
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当日試合は初回からヤクルトの先発が大荒れの自滅でカープは順調に得点を重ねる
カープの先発は安定感抜群のジョンソンだからゲームはワンサイドの様相に・・・
4回にトリプルスリーの山田選手にソロを打たれたが他はまったく危なげないピッチングだ
 
長い間僕は生の野球観戦はしていませんでしたが時々テレビでカープの試合は観るし
スポーツニュースは野球に限らずチェックするので大体の事は把握はしています
 
今年のカープはエースのマエケンが抜けて下馬評は決して高くない
 
僕は個人的にマエケンの移籍の影響は差ほどないとは思ってましたが
昨年同様に中継ぎ以降のピッチャーと打線の核が弱いと思ってた
 
中継ぎに関しては案の定ですが(笑)打線は予想外にまあまあ好調だ
4番のルナはイマイチのような気がしますが、あのエルドレットが率を残してるのが超意外だ 笑!
 
まあ何はともあれ打線に関しては今は新井様々でしょうな~
 
 
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そうこうしてると試合中盤になった頃何と雨が降ってきた
雨男の本領発揮と言ったところか・・・
 
と、言う事でビニールのCARPカッパ500円で購入
まさかこんな恰好で自分が野球観戦するとは・・・ 笑!
 
 
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ゲームはすんなり終わると思われたが完投を目指したジョンソンが最終回に捕まる
 
2点を返され一発出たら同点の場面でクローザーの中崎が登場
一人三振に切って取ったが次の打者にヒットを打たれツーアウト満塁
ホームランが出たら逆転という展開に・・・
 
バッターボックスには代打森岡
 
芯で捕らえた火の出るような当たりが一塁線を襲う、万事休すか・・・
と、思われたがファースト新井が好捕!ゲームセット!!
 
 
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まあ個人的には勝った、負けたにはそこまで執着はありませんが(笑)
それでも負けるより勝った方が良いとは思う
 
ペナントレースはまだ始まったばかりですが現在カープは個人的には
僕の予想以上の成績だと思います
 
ま、いつまで続くか分かりませんが是非広島を盛り上げて欲しいと思います
 
てか、セ・リーグは6球団なんだからせめて6年に一回は優勝できるように
球団も企業努力してほしいと思います、ブームは永遠には続かないですぞ! 笑!
 
ま、またチャンスがあれば僕もこれからは観戦に訪れたいと思います
最後に、森君、河野君、ありがとうございました! ジャンジャン!!

やった~!北海道旅行当選?! 笑!

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4月4日月曜日 天気 雨のち曇り時々晴れ
 
先日の月曜日は呉カントリークラブにプライベートゴルフに行きました
 
今年の目標は相も変わらず80台を出す事と100を叩かないって事
しかし以て今年になって80台は出ないのに、もう2回も100を叩いてしまった
 
進歩がないのぉ~・・・ 笑!
 
 
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当日の天気は雨の確率が80%という事だった
 
予報通り朝起きると雨が降ってる
今日は合羽着てゴルフか・・・
 
と、思っていたがスタート時には雨も上がり時折晴れ間も覗いてきた
 
 
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しかし以て僕のゴルフの雨は上がらない
 
スタートホールからいきなりOB連発
1番、2番、3番のパー4でOB4本
 
出足からトリプル、ダブルパー、9、と大荒れ
何と3ホールが終わった段階ですでに12オーバー
 
まともに球に当たらない、何でじゃ~?
ー OH MY GOD! こりゃ~恐ろしいスコアーになるど・・・ 笑!
 
しかし4番パー3からなぜか急にショットが当たりだした
 
二つのロングホールも両方ともほぼ2オン
しかし両方ともバーディーが取れないのは実力の無さ 笑!
 
 
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最悪の出だしでスタートしたのに上がってみれば95
 
まあ目標の80台は当然出ませんでしたがリズムが修正出来た事が収穫だった
せめて出足3ホールが+12じゃなくダボペースの+6だったら89だったのにな~
 
ま、ゴルフに ”たら” ”れば” は無い、これが実力なのだ! 笑!
 
 
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3月の呉カンのロングランコンペ抽選会
 
北海道ペア旅行当選者「山下様」おめでとうございます。
 
「オイ!お前当っとるで・・・」
 
「マジ?!こりゃ大明神様が喜ぶど~!」
 
と、一瞬喜んだのだが・・・
 
「あの当選しとる山下様って・・・」
 
「申し訳ございません、山下違いです・・・」 笑!
 
チャンチャン!! 爆!

呉の桜は・・・

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季節柄もあり皆さんのブログやFBを拝見すると全国各地のの写真をよく見ますが
先日の月曜日には呉市近郊も桜が満開で新しい春の訪れを感じましたね
 
ま、現在は週中の雨でだいぶ桜も散った様相ですがね
 
淡い薄ピンク色に色付いた桜が咲いた景色を眺めると本当に日本人で良かったと思いますね
やはり日本人にとって桜という花は特別ですね
 
 
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先日の月曜日、ゴルフから帰宅した僕は高校の入学式を直前に控えてた
娘の万凛を伴って二人でプチ花見に出かけました
 
生憎当日は小雨交じりの曇り空でしたが呉の桜のメッカの一つである
二河峡で桜を眺めながら二人で美味しいショートケーキをいただきました
 
新しい門出を迎えた彼女にとっても今年の桜は
例年以上に思い出深い桜になったんじゃないでしょうかね
 
そう言えば昨年の桜の時期も長男と3人でこの場所で桜を見ましたね!
 
 
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日本人にとって桜は別れと出会いを連想させます
 
卒業や入学、入社のシーズンである事もそうですが
春の訪れや新年度の始まりだという事もそうなんだと思います
 
 
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今から71年前1945年4月5日呉の象徴の一つでもある「戦艦大和」
最後の決戦に挑むべく片道分の燃料を積んで呉港から沖縄へと出撃した
 
大和には”特攻”の勅命が下っていた
 
戦艦大和は同年4月7日に九州南方海域の坊ノ岬沖で米軍機に爆撃され沈没した
 
71年前の呉は3度にわたる呉空襲により焼け野原になってましたが大和の乗組員たちは
呉の桜を眺めながら酒を酌み交わし二度と戻れないと覚悟して大和に乗り込んだんだと思います
 
あれから71年、今でも呉では各地に沢山の桜が咲き誇っている
そんな歴史を持つ呉の桜は呉市民にとっては特別な物なんだと思います
 
ジャンジャン!!

年賀切手シリーズ (辰年) 1964年 竜神と辰

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1964年(昭和39年) 竜神と辰
 
 
さて、今回で5回目となる年賀切手シリーズですが
今回は1964年(昭和39年)辰年を振り返ってみたいと思います
 
辰年生まれの性格は非常にプライドが高く負けず嫌いでリダーシップを貫こうとするタイプです
自己顕示欲が強くマイペースに行動します
人を見下したり自画自賛して周囲の反感を買うことがあります
 
また何事も思い通りにしならないと怒り出すようなわがままな面を持っています
自分の考えに反対されると敵対心を強く出します
先見の明があり人より先を行かないと気がすまない人が多いです
 
愛想が悪くぶっきらぼうなところがあるので仲間には恵まれません
理想主義のため不運なことが続くと自暴自棄になる面も持っています
 
辰年生まれの人は知性と行動力を発揮できればその魅力が評価され多くに人に受け入れられます
広い視野を持っているので専門分野で実力を発揮する人も多いです・・・
 
 
と、言うのが辰年の人の性格診断ですがウチの大明神様は昭和39年の辰年生まれです
自己顕示欲が強くマイペース、思い通りにならないと怒る・・・
いや~ まさに言い得て妙ですな~ 笑!
 
と、言う事ですがここからは昭和39年の大ヒット曲である
坂本九さんの「明日があるさ」を聴きながらご覧ください!
 
 
 
 
明日があるさ/坂本九 1964
 
 
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1964年と言えば2012年に公開された映画「ALWAYS 3丁目の夕日 64’」
で、描かれたという事は記憶に新しいですが1964年と言えばやはり東京オリンピックでしょう
 
1964年の東京オリンピックは1940年大会の開催権を返上した日本及びアジア地域で
初めて開催されたオリンピックで有色人種国家における史上初のオリンピックでもありました
 
日本の歴史的には第2次世界大戦で敗戦し急速な復活を遂げた日本が
再び国際社会の中心に復帰するシンボル的な意味を持った大会でした
 
 
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この切手シートは僕の切手コレクションの一部ですが開催国である日本
金メダル16個、銀メダル5個、銅メダル8個の計29個のメダルを獲得しています
 
中でも圧倒的な強さで金メダルに輝いた日本女子バレー東洋の魔女と言われ大人気になり
アニメ「アタックNO1」やテレビドラマ「サインはV」などを生み出しました
 
さてさて、2020年の東京オリンピックでは東洋の魔女は復活するのか?
 
 
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巨人軍に入団した王貞治選手はバッターに転向し努力の末に一本足打法を習得し
1964年には当時の日本記録となる55本というシーズン最多本塁打記録を樹立し
ホームラン王に輝いています
 
この後巨人軍は長嶋茂雄、王貞治、両選手を中心に快進撃を続け
後に今でも伝説と言われるV9を達成する事になるんですよね
 
そして1966年にはあの名作「巨人の星」が誕生するんですよね
 
 
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前出の2012年公開の映画「ALWAYS 3丁目の夕日 64’」でも描かれていましたが
1964年にはファッションブランドVANの創設者である石津謙介氏が
アイビー革命を起こしアイビーファッションが大流行し銀座には5月頃から
アイビーファッションに身を包んだ「みゆき族」なる集団が現われました
 
それまでお洒落をするという概念がなかった日本の若者男子はアイビーファッションに身を包み
VANと書かれた紙袋を小脇に抱え銀座みゆき通りや並木通りにたむろするようになりました
 
アイビーファッションの流行に大いに貢献したのがファッション雑誌「メンズクラブ」だった
メンクラ紙面上で「くろすとしゆき」さんがコメンテイターとして人気を博した
「街のアイビーリーガース」通称「街アイ」は大人気企画となり
街アイに写真が載る事が当時の若者のステイタスにもなった
 
しかし、みゆき族も一夏を境に9月から始まる東京オリンピックに向けての風紀取締りとして
築地警察が一斉に補導し始めた為に短期間で姿を消す事になりました
 
 
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1964年には後にロングセラーになるカルビー「かっぱえびせん」が発売されています
1964年に登場したかっぱえびせんの初期型パッケージは1981年まで続いています
 
そうそう、僕が子供の頃のかっぱえびせんは写真左のデザインだった
 
1972年に発売され、カード欲しさに菓子は捨てられるという社会問題を起こした
仮面ライダースナックがかっぱえびせんだったら僕は菓子は捨てられてないと思う
何たって「やめられない とまらない」ですからね~ 笑!
 
てか、あの仮面ライダースナックの甘い菓子はいったい何だったのか?
 
 
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さて、1964年の芸能に目をやると洋画の年間興行収入NO1はエリザベス・テイラー、レックス・ハリソン
等が出演した「クレオパトラ」になっているが残念ながら僕はこの作品は観た事ない
 
1964年には「007/ゴールドフィンガー」「007/危機一髪」と2本の007シリーズが公開されているが
個人的には年間興行収入NO2になってるオードリー・ヘプバーン主演の「マイ・フェア・レディー」を押したい
 
ヘプバーン主演によるミュージカル映画の大作であるマイ・フェア・レディーは
ロンドンの下町、夜の巷で花を売っていた少女イライザの所にたまたま通りかかった
ヘンリー・ヒギンズは、彼女の余りにもひどい訛りに対し正しい発声と淑女としての
行儀を身に付けさせると断言する・・・という内容で描かれている
 
ちなみに1960年に発売されたダットサンのスポーツカーであるフェアレディーのネーミングは
映画「マイ・フェア・レディー」の元になってるミュージカルの題名が語源になったんですよね
 
 
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日本歌謡界に目をやると坂本九さんの「明日があるさ」「幸せなら手をたたこう」
年間ランキング1位、3位という事になっている
 
この時代の坂本九さんはホント、向かうとこ敵なしって感じですな~
 
その他には青山和子さんの「愛と死をみつめて」、村田英雄さんの「皆の衆」
都はるみさんの「アンコ椿は恋の花」、美空ひばりさんの「柔」等がヒットしています
 
 
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と、言う事ですが昭和39年の10月22日に1歳になる僕は母に抱かれて
同年の亀山神社祭に行ったようですな~
 
アルバムにはS、39,10,17と書かれていますが当時の亀山神社祭は
体育の日の10月10日じゃなかったのか?
 
ま、とうぜん僕はまったく記憶にありませんがね~ 笑!
 
という事で今日はこれまで!次回は1965年(昭和40年)巳年をやります
乞うご期待! ジャンジャン!!

日本のいちばん長い日

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さて、先日記事にしたTUTAYA宅配レンタルDVDによる「花燃ゆ」ですが
実はツタヤの宅配レンタルは基本的にDVD2本が1回の宅配の条件なんですよね
 
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」全13巻という事で最後の1本を宅配してもらうには
何か他のDVDをレンタルする必要があった
 
何を観ようかと考えた僕ですが昨年夏に公開されたがタイミングを逃して観に行けなかった
「日本のいちばん長い日」をレンタルする事にした
 
僕は個人的に、この作品は公開当時から大変興味があった作品だった
 
 
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映画「日本のいちばん長い日」1967年に一度映画化されているが
半藤一利のノンフィクションを基にした群像歴史ドラマ大作だ
 
太平洋戦争での日本の降伏決定から それを国民に伝えた玉音放送
敢行されるまでの裏側を見つめていくと言った史実を元に描かれた作品だ
 
もうすでにご覧になられた方も多いと思うが作品を見終えた僕からのアドバイスとして
ご覧になられる前にあらかじめ当時の史実や主要人物について少し予習しておいた方がいいと思う
 
作品はいきなり鈴木貫太郎氏の総理就任から始まり当時の内閣や
陸・海軍の主要人物が次々と沢山出てくるので史実や主要人物を知らないと
ドラマの内容を把握するまで少し時間がかかると思いますよ
 
これから「日本のいちばん長い日」をご覧になられる方は是非↓のYou Tubeをご覧になって下さい
ちょっと長い動画ですがより深く映画の内容が理解できると思います
 
更には「日本のいちばん長い日」をもうすでにご覧になった方も
この映像を見たら映画の復習にもなると思いますね
 
 
 
 
終戦エピソード  池上彰の戦争を考えるSP
 
 
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(あらすじ)
 
 
1945年7月・・・
 
太平洋戦争での戦況が悪化する日本に対して連合軍はポツダム宣言の受託を迫る
連日にわたって降伏するか本土決戦に突き進むかを議論する閣議が開かれるが結論を一本化できずにいた
 
やがて広島、長崎に原爆が投下され日本を取り巻く状況はさらに悪くなっていく
全国民一斉玉砕という案も取り沙汰される中、阿南惟幾陸軍大臣(役所広司)は決断に悩み
天皇陛下(本木雅弘)は国民を案じていた
 
そのころ、畑中健二少佐(松坂桃李)ら若手将校たちは終戦に反対するクーデターを画策していた・・・
 
 
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作品は史実を元に製作されていますが終戦時の詳しい経緯は
当時まだ一般にあまり知られていませんでした
 
終戦日前日の8月14日昼の御前会議から15日正午の玉音放送までがちょうど1日
僕は当然当時はリアルに体験していませんが当時の国民や軍人はどう思っていたんだろう?
 
現代人の僕達はこうして史実として知る事が出来ますが
軍事教育されていた当時の日本人にはいろんな思いをした人がいたんでしょうな~
 
敗戦は濃厚だという事を感じて一刻も早く終戦した方がいいと思ってた人もいただろうし
神国「日本」が負けるはずないと信じてた人もいたんだと思う
 
当時はマスコミも軍に取り込まれ「○○の戦いで日本大勝利!」等と
嘘の報道ばかりしてましたしね~
 
 
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僕は作品を見終えて俳優さん達の演技が素晴らしかったと感じました
昭和天皇や鈴木総理、阿南陸軍大臣の心の葛藤が手に取るように見て取れた
 
海軍大臣を含め会議ではポツダム宣言を受け入れ終戦するか
あくまで本土決戦に及び一億玉砕するか意見が半々に割れた
 
タブーを冒し御前会議にて終戦の英断を下したのは陛下だった
 
当時日本人の誰しもが愛国心を持っていた事はよくわかる
しかし一口に国を愛すると言っても、いろんな人がいろんな愛し方をするわけです
 
ただ最も危機的な状況にあって一つの重大事が決定される時に人間としてどう動くかというのは
立場や環境、国の行く末の考え方で違ってくるんですよね
 
 
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玉音放送の後、陸軍大臣の阿南氏は責任を取って腹を切り自決します
阿南氏は何に対しての責任を取ったのか?
 
阿南氏自決の理由については色々な意見があるようですが僕的には
陸軍の暴発を少しでも抑え国体を守る為の人柱の役割を選んだと思います
 
陸軍大臣就任以来戦争継続を主張し続けた責任を果たすには
自決しかなかったんだろうと思います
 
 
 
 
 
クーデターに失敗した畑中少佐以下の若者も自決します
 
「自分がやった事や立場に対しての責任を取る」
 
僕は決して軍国主義国家賛成論者じゃありませんが
現代人に最も欠けている部分かなと思います
 
だから平和ボケしてる現代において理解に苦しむような事件や事故が後を絶たない
 
そんな事を感じた作品でしたね! ジャンジャン!!

宿敵現われず・・・

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4月11日月曜日 天気 曇りのち晴れ
 
 
今まさに某(それがし)は宿敵である真鯛家を狙って戦いの真っ最中でござる
某に切り込んで来てる敵は首を振っているから鯛一族である事は間違いない
 
さあ!赤か黒か・・・?
 
 
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先日の月曜日、某は真鯛家の桜鯛を狙っての戦に訪れたでござる
 
呉の陸地の桜はほぼ葉桜になったが海の桜はまだ開花していない
そろそろシーズンと言う事は間違いないのでござるが・・・
 
 
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格闘の末海面に姿を見せたのは黒い鎧を身に纏ったチヌ家の武士でござった
 
姿は見えずとも敵とやり取りしてたら手に伝わる感触で大体の大きさはわかる
しかも潮の流れる方向やアタリがあった場所から推測すると
同じ鯛一族でも黒武者である事も大体推測できる
 
この日も真鯛の潮が続かない
沖に出る真鯛潮は正味1時間ほどであったろうか・・・
 
しかもその時間帯は突風の向かい風が吹いて某には厳しい条件だった
強風に煽られ何度も仕掛けが絡む・・・
 
ー 何をやっとるんじゃ! この時間帯に こんな事やっとったら戦にゃならんぞ! 笑!
 
 
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チヌ家の武士を討ち取る前にいつもの顔見知りのタコ壺漁師のオジサンが現われた
 
「どうな? 釣れるか?」
 
「いや~なかなか厳しいでござる」
 
「この間はチヌありがとの!お礼にタコやるけん・・・」
 
、言う事で援軍の漁師さんに立派なマダコをいただいた
 
ー う~ん ありがたい事だがタコを持って帰ったら大明神様が何と言うか心配だ・・・ 笑!
 
 
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お礼のお礼にと(笑)チヌ家の武士を獄に繋いでおいたのだが
その後タコ壺漁師のオジサンは現れなかった
 
 
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「運のいい奴よ! 然らばそなたの領地へ帰れ、武士の情けじゃ!」
 
と、言う事で無駄な殺生をしない某はチヌ家の武将を敵国に帰してやった
 
てか、そろそろ桜鯛の時期である事は間違いないがチヌ家も乗っ込みが近いはずである
 
しかし討ち取ったチヌは少しは腹も膨らんでいたが
まだまだ乗っ込み最盛期と言う感じでもなかった
チヌの鎧の色からして居付きのチヌ家でもなさそうなのだが・・・
 
真鯛家もチヌ家も乗っ込み本番まであとひと潮か?ふた潮か?
 
 
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当日の尾崎家へのお土産
 
メバル×4
 
う~ん 尾崎奥様、小物ばかりで申し訳ない
味噌汁に入れるか煮付けにでもして成仏させてやって下さい! 笑!
ジャンジャン!!

CBを駆り出してはみたが・・・

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釣りから帰った僕は久々にCB号を駆り出した
この時の段階では今週の日曜日から恒例のロングツーリングに出る事になっていたからだ
 
毎年春・秋の年2回として行ってきた2泊3日のロングツーリングだが
昨年秋には四国に行ったという事で今回は本来なら九州阿蘇に行く予定だった
 
しかし今春は昨年リターンライダーに返り咲いたアキースの他メンバー達が
GWを利用してドカティー軍団で阿蘇に行く予定になっている
 
彼等は初阿蘇だと言う事でナビゲーター役として尾崎さんが同行する手筈になっている
 
時を置かずして尾崎さんが2度も阿蘇に行くのもどうかという事で
僕達は阿蘇は今秋に見送って東方面を目指そうという事になっていた
 
 
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実は正直な所、僕達もすでにロングツーリングに10回以上行ってるという事で
「ここに行きたい!」って場所もなくなってきた
 
九州・四国は全県制覇したし山陰も島根・鳥取と京都の北側まで制覇した
 
東は名古屋が一番遠かったが三重・和歌山・奈良・大阪・兵庫と2泊3日の行程で
足が延ばせる場所は殆ど制覇したのだ
 
と、いう事もあり今回は軽く近場での1泊2日という行程にしようという事になっていた
 
 
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しかしどうだ!
今週末からの週間天気予報を見ると何と日曜日が雨の確率90%となっている
 
確かにこれまで雨の中レインスーツを着込んで強行突破した事も一度や二度じゃない
しかし今回行きたい当てもないツーリングで雨という事に僕達のテンションは上らない 笑!
 
「オイ!今回は泊まりは中止にせんかい」
 
「月曜に晴れたら近場の日帰りツーリングにせんかい」
 
「ま、秋の阿蘇があるんじゃけん無理せんでもえ~んじゃない!」
 
と、いう事で3人の意見はまとまった 笑!
 
この日の段階で僕は泊まりツーならCBで行こうと思っていた
だからCBの調子を見て洗車もしとかないといけないとCBを駆り出したのだ
 
しかし日帰りツーだったらマッハを駆り出そうと思う
今の段階で決まっているのはこれだけだ
 
さてさて、雨の日曜日を含めどうしますかな~・・・ 笑! ジャンジャン!!
 
 
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おまけ
 
広大川に架かる広古新開と大広を結ぶ木橋「真光寺橋」
リニューアルされたという事で行ってみました
 
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真光寺橋は広が廣村と呼ばれていた江戸時代から利用されている歩道橋です
 
呉市内に残る木橋では最も長く橋はヒノキが用いられています
 
呉を舞台に製作される映画やドラマのロケにも数多く使われています
 
 
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そう言えば共政会小原組3代目組長だった門広氏が和服姿で
真光寺橋で仁王立ちしてる写真かポスターを見た事があるぞ・・・ 笑!

セカンドキャリアについて考える

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4月12日 火曜日
 
 
僕がBOB君と知り合ったのは1981年(昭和56年)の事だから今から35年も前の事だ
当時僕は美容学校に行ってた17歳の時であり3つ年上のBOB君は20歳だったという事だ
 
高校を退学になり暴走族をやってた僕は美容学校に入学し先輩のHISASHI君と美容学校同期生となり
彼の影響を受けた僕は族ファッションを卒業しアメリカンオールドファッションに目覚めた
 
時代はブラックキャッツザ・ヴィーナスの登場もありフィフティーズが流行り始めた頃だった
 
時を同じくその頃広島市の三川町にフィフティーズファッションブランド「ペパーミント」がオープンした
いち早くペパーミントの常連になったHISASHI君に連れられ僕達同級生も店に出入りするようになる
 
呉の中央公園にラジカセを持ち込みオールディーズナンバーに合わせてツイストを踊ったり
ディスコ「よしまつ」を借り切ってロックンロールパーティーを催したりもした
 
その頃HISASHI君を介して広島在住だったBOB君と知り合った
BOB君もペパーミントの常連だったのだ
 
 
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中でも当時の事で忘れられないのが1982年(昭和57年)2月20日(土)
山口県の岩国市民会館ホールで開催された「アメリカン・ジュークボックス」と題された
ザ・ヴィーナスのコンサートに呉の仲間やBOB君達と駆けつけた時の事だ
 
当日半ドンだった美容学校の授業を終え僕達は車に乗り合わせ岩国に向かった
 
僕達アキースのメンバーは全員真っ赤なブレザーやタキシードでドレスアップして
HISASHI君やBOB君達は揃いの「A」のレタードが貼り付けられたレタードセーターを着ていた
 
ドレスアップした格好で広島ペパーミントの宣伝チラシを会場入り口で配った僕達は
当日の来場者からヴィーナスの関係者だと思われた 笑!
 
ライブが始まって暫らくした頃僕達はステージに飛び上がり演奏してるヴィーナスの真ん前で踊った
最初驚いてたヴィーナスのメンバーも僕達が危害を加える輩じゃない事を悟りノリノリで演奏してくれた
 
しかし僕達は舞台袖から出てきた警備員と舞台上で揉み合いになった
これ以上続けると強制退場させると言われて僕達は抵抗を辞めた 笑!
 
 
 
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そんな青春時代を過ごした僕も今年53歳になるし3つ上のBOB君に至っては今年56歳になる
BOB君は高校を卒業と同時に公務員の仕事に就いていた
高校卒業当時と言えば18歳だから今年で約38年も勤め上げたという事だ
 
そんなBOB君だが何と先月いっぱいで仕事を早期退職してセカンドキャリアを始めるという・・・
何と広島から出て遠い鹿児島種子島に移住するという事だ
 
先日の火曜日夜、そんなBOB君の送別会が催された
 
彼の早期退職からセカンドキャリアについては年下でもあり他人の僕がとやかく言う問題ではない
BOB君も大人なんだから奥様ともよく話し合い決めた事なんだと思う
 
「何で種子島?・・・」という事も僕がとやかく言う話でもない
転職や移住は人生を大きく左右する事だから熟慮を重ね決断したんだと思う
 
 
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しかし個人的な見解で言えばBOB君も思い切った行動をしたもんだ
 
僕が自分に置き換えると今の自分の環境を考えてもとても無理だと思う
僕には今年高校に入学した娘もいるから尚更そんな冒険は出来ない 笑!
 
「仕事をリタイヤしたら田舎暮らしがしたい・・・」って聞く事がある
僕も満更そう思わない事もないが僕は故郷「長浜」に帰るくらいが想像できる関の山だ
 
僕は公務員でも会社員でもない自営業者だから定年がない
しかし言い方を変えればボーナスもないし退職金もないし年金もスズメの涙ほどしかない
てか、僕が65歳になった時に年金ってもらえるのか? 笑!
 
自分が何歳まで生きれるのかは僕にもわからないが僕の今の生活環境では
宝くじで高額当選でもしない限り死ぬまで働き続けないと生きて行けないと思う
 
 
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しかし僕は「美容」という仕事が好きだから仕事が苦になるという事はない
 
だから出来れば生涯現役でありたいと思うが僕の仕事は商売だから
僕の技術やデザインを買って下さるお客様がいないと成り立たない
 
その為にはとうぜん技術力やデザイン力も大事だが
先ずは何はともあれ心身ともに健康である事が第一
 
体の健康も大事だが心の病も要注意だ
それでなくても臆病な部分がある僕はストレスを抱えますからな~ 笑!
 
 
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しかし永ちゃんも著書で語っていますが永ちゃん自身も自分の事を臆病だと言っている
臆病だから考える、臆病な奴は常に怖いから必死で探り、探し、調べ計算する
 
日本では臆病な奴は情けない奴で臆病じゃなくとことん行ける奴が勇敢だと思われるけど
勇敢と無謀は違うし臆病じゃない人はただの無神経だそうだ
 
臆病な人が考え決断し、勇気を持つ事が大事だとも言っている
 
だから僕は仕事もするががストレスを発散するためによく遊ぶ
逆に言えば遊ぶために仕事も頑張るし家族サービスもする
 
ま、それも自分なりにと言う事なので他人の評価はわかりませんがね 笑!
 
さてさて僕にはセカンドキャリアはないとは思いますがBOB君には
種子島でのセカンドキャリアを頑張リ過ぎず楽しんで欲しいと思います
 
僕も機会があれば是非キャディーバック釣竿送ってバイクででも遊びに行けたらと思います!
 ジャンジャン!!

年賀切手シリーズ (巳年) 1965 麦わらへび

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1965年(昭和40年) 麦わらへび
 
 
さて、今回で干支で言う所の半分の6回目となる年賀切手シリーズですが
今回は1965年(昭和40年)巳年を振り返ってみたいと思います
 
巳年生まれの人は意思が強く爆発的なエネルギーを秘めていますが瞬発的に使うことはないそうです
じっくりと時間をかけて継続しながら使い努力家で執念深く思い込みが激しいタイプでもあるそうです
 
感性が鋭く細やかな思考力を持ち自分の思いに拘りがあり
損をする事もありますが最終的には決めた事を成し遂げます
 
負けず嫌いで根性があり最後までやり通す力を持ち途中で挫折や失敗をしても逆転運が強く成功します
特に若いうちはプライドが高い傾向で束縛されるのを嫌がるために孤立しがちですが
年をとるごとにどんどん運は良くなっていくそうです
 
 
と、いう事ですがここからは昭和40年の大ヒット曲である
加山雄三さんの「君といつまでも」を聴きながらご覧ください!
 
 
 
 
君といつまでも/加山雄三 1965
 
 
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昭和の時代も30年代が終わり40年代に突入した1965年
 
戦後の日本の復興や高度成長期のシンボルともなった東京オリンピックが終わった翌年の1965年
庶民の生活レベルも急激に向上し時代の象徴として3C時代が到来した
 
日本で初めてカラー放送された東京オリンピックに合わせカラーテレビが普及し始め
家庭用クーラー、マイカーと共に2代目三種の神器と言われた
 
初代三種の神器と言えば1950年代後半の「白黒テレビ」「冷蔵庫」「洗濯機」だったが
1965年の二代目三種の神器「Color terevision カラーテレビ」「Cooler クーラー」「Car カー」
三つの頭文字「C」を取って3Cと言われた
 
しかし以て1963年生まれの僕が物心ついた時にはウチにはまだ3Cの何もなかった 笑!
 
僕の記憶で一番古い番組の記憶は1966年に放送された「ウルトラQ」だが
その頃の記憶ではテレビは全て白黒放送だったしウチではカラーテレビを購入する前に
白黒テレビに色付きのセルロイドのようなフィルター画面を取り付けた物を
カラー画面だと言って見せられてた記憶もある 笑!
 
僕の親父はバイク乗りで”車に乗らない人”だったから我が家がマイカーを手に入れたのは
僕が無免許でローレルを買った1980年まで待たなければならなかった 笑!
 
クーラーに至っては僕がミヤニシに就職した年に自分の給料で自分の部屋に付けたのが
最初だったから我が家にクーラーが付いたのは1982年の事だった
 
3C時代と言っても3Cが全て揃った家というのは
そこそこ経済的にも恵まれてた家庭だったという事だ
 
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1963年に日本初のテレビアニメ「鉄腕アトム」が放送開始されたが
1965年には日本初のカラー放送テレビアニメ「ジャングル大帝レオ」が放送開始された
 
ジャングル大帝レオは鉄腕アトム同様に手塚治虫作品であり皆さんもよく御存じだと思う
 
ジャングルの平和を守り続けた白いライオン・パンジャ
その遺児レオは人間社会に送られる寸前船から脱出し故郷のアフリカを目指す
 
父が遺したジャングルで動物と人間の共存を目指すレオは
度重なる苦難にも負けず多くの仲間を増やしていく
 
そんなレオの心に人間を理解するため人間の文明を学びたいという欲求が芽生えた・・・
 
 
と言う内容だが当時の手塚作品は子供に対して強烈な社会的メッセージを含んでいたと思う
当時幼かった僕にはそのメッセージはわからなかったが今思えば理解できますね
 
 
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スポーツ界に目をやると1965年には日本プロ野球史上初のドラフト会議が行われている
しかしドラフト指名されたのに拒否してる選手が思いの外多い事に驚く
 
当時はまだ職業野球であるプロ野球よりは不安定な職業であり
大学進学や企業への就職の方が人気が高かったんだろうか?
 
1965年の主なドラフト入団選手でプロで活躍したのは東京オリオンズの木樽正明投手
阪急ブレーブス長池徳二外野手、近鉄バッファローズ鈴木啓示投手
読売ジャイアンツ堀内恒夫投手、阪神タイガース藤田平内野手
広島東洋カープ水谷実男外野手と言ったところだ
 
 
1965年のスポーツ界はプロ野球よりプロレスの方が人気が高かった
 
1963年に暴力団関係者とのトラブルで殺傷された力道山の愛弟子である
ジャイアント馬場アントニオ猪木がプロレス人気を牽引した
 
何とプロレス中継が51・2%という驚異的な視聴率を上げている
僕も当時のプロレス人気は今でもハッキリ記憶していますね!
 
 
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1965年に誕生し、その後ロングセラーになった商品に大塚製薬の「オロナミンC」
森永製菓の「チョコボール」がある
 
「元気ハツラツ!」のキャッチコピーで人気を博した
大村崑さんのオロナミンCの琺瑯看板は今では高値で取引されている
 
「うれしいとねぇ、めがねが落ちるんですよ!」ってセリフも懐かしいし
1976年からの「オロナミンCは小さな巨人です!」ってフレーズも懐かしい!
 
 
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芸能に目をやると洋画は前年の1964年に公開された「007ゴールドフィンガー」
「マイ・フェア・レディー」が年を跨いで興行収入を上げている
 
邦画に目をやると当時は任侠映画の全盛期で1965年だけに限っても
高倉健さんの「網走番外地」シリーズが3作も公開されている
 
その中でも一番興行収入が高かったのが↑の「網走番外地 北海編」
 
1970年代に人気を博す「仁義なき戦い」等の実録やくざシリーズ「ヤクザ映画」と言われるが
1960年代のそれは「任侠映画」と言われていた
 
同じヤクザを描いた映画も両者ではメッセージ性が大きく異なる
 
任侠映画は義理人情や仁義ってのが強く感じられるがヤクザ映画は
仁義なき・・・に代表されるようにヤクザ社会の無法状態が色濃い
 
任侠映画の第一人者である健さんんも、ヤクザ映画の第一人者である文太さんも亡くなったが
昨今のヤクザ映画は個人的にはリアリティーに欠けると思うんですよね~ 笑!
 
 
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歌謡界に目をやると1965年のヒット曲は都はるみさんの「涙の連絡船」
マヒナ・スターズ「涙くんさよなら」、北島三郎さんの「兄弟仁義」などがヒットしている
 
しかし個人的には1965年のオリコン第1位にも輝いている
若大将と異名を取った加山雄三さんの「君といつまでも」を押したい
 
1965年と言えば日本ではエレキブームが訪れていたが
加山さんは日本のエレキの第一人者と言っても過言じゃない
 
「君といつまでも」は翌年の1966年の第8回日本レコード大賞の特別賞にも輝いているし
加山さん主演の映画の「エレキの若大将」「アルプスの若大将」の主題歌にもなっている
 
 
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と、言うのが1965年(昭和40年)だがこの年僕は2歳になる
古いアルバムには浴衣を着た幼い僕の姿がある
 
アルバムには昭和40年盆と記されている
 
盆に浴衣を子供に着せるなんて当時はまだ
日本文化や伝統行事が色濃かった時代だったんだろう
 
この頃僕はまだ長浜に引っ越す前で呉の清水通りに住んでいた
あまり濃い記憶は残ってないが何となく当時の家の記憶はありますね・・・
 
と、いう事で今日はこれまで!次回は1966年(昭和41年)午年やります
乞うご期待! ジャンジャン!!

突風吹き荒れる中・・・

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4月17日 日曜日 天気 雨のち晴れ 東映カントリークラブ
 
 
さて、先日の日曜日は4月の第3日曜日と言う事で本来なら例年の如く
バイクでの2泊3日のロングツーリングに出る予定の日だった
 
しかし以て今年の春のロンツーはGWに尾崎さんが初阿蘇に行く仲間達の
ナビゲーター役として同行する手筈になっていたため日程的にちょっとハードだという事で
僕達のロンツーは比較的早い段階で1泊2日東方面への行程に変更されていた
 
所が先週になって週間天気予報を見ると日曜日の雨の確率が90%に・・・
で、木曜日くらいに尾崎さんとカツジから日曜は雨じゃけん今春は泊まりを中止にして
月曜の天気を見ての日帰りツーリングにしようと報告があった
 
しかもその日の夜、未曾有の熊本地震が発生したとあって仲間達の予定も白紙になった
 
そんな事があった先週だったが僕は日曜日に何しようかと考えた
 
「GANちゃん、日曜日にKENとゴルフに行く言いようたけどワシ入れん?」
 
「今の所3人じゃけん入れるで・・・」
 
と、言う事で急遽僕は東映カントリークラブにゴルフに行く事にした
 
土曜日の段階で日曜の雨も9時頃には止むという予報になった
遅いスタートなら雨に濡れる事もないという希望的判断だったのだが・・・
 
 
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前回のラウンドでスタートからOB連発で3ホールで12オーバーと散々なスタートを切った僕
何回ゴルフに行ってもスタートホールのティーショットは緊張する
 
ー ナイスショットまで欲は言わんけん、せめてOBだけには・・・
 
と、念じて放ったティーショットは何と勢いよく打ち出されグリーンまで50ヤードのロングドライブ
 
ー やった~!
 
と、思ったがここからが万事休す
50ヤードを寄せきれず無情にもボールはグリーン手前のバンカーへ・・・
 
バンカーも出るには出たがグリーンオーバーしてグリーン奥からの下りの難しいアプローチが残る
巧く転がしはしたが奥からの下りの傾斜でまたしてもボールはグリーンの外に・・・
 
結局スタートホールは絶好のティーショットを打ったのに痛恨の5オン3パットのダブルパー
OH MY GOD! 笑!
 
この日の午前中のハーフはとにかくドライバーは好調なのに100ヤード以内の
コントロールショットとアプローチが全然ダメ
 
で、結局朝のハーフは50オーバーに・・・ 笑!
 
 
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「オイ!ショートアイアンもウェッジもアプローチもワル~はないんじゃけど全部強めに入っとるんよ
じゃけんボールが飛び過ぎてグリーン奥に行って難しい寄せとパットが残るんよ・・・」
 
シングルプレーヤーのGANちゃんが攻め方のアドバイスをくれる
 
確かに昨今練習の成果か確実に飛距離が伸びているとは感じる
ドライバーならいいのだが自分の思っているアイアンの距離より
芯で捕らえたら確実に距離がオーバーしてしまうんですよ
 
しかしGANちゃんにも言われたがアイアンは飛距離より距離と方向をコントロールする事が大事
もっと楽に柔らかく打てとも言われたが、そうすると今度はリズムが合わないんですよね~ 笑!
 
昼からのラウンドもなぜか当日はドライバーが好調だった
しかしセカンドが殆どグリーンオーバーして奥目からの寄せが残る
 
パーオンしても奥からの下り傾斜が残ってパットが3パットになる
アプローチを寄せ切れない僕はボギーの連発
 
結局午後のハーフは1バーディー、7ボギー、1ダブルボギーの「44」
何とパーが1個も取れなかったが何とか100は叩かず「97」でラウンドを終えた
 
 
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う~ん 本当にゴルフって難しい
 
ちょっと前まで苦手なドライバーが上達すればスコアも出せると思っていたが
この日はドライバーを含めOBは一発も出なかった
 
のに、思ったスコアが出ない
 
まあ言い訳をさせてもらうと当日は雨上がりと言う事もあり台風並みの突風が吹いていた
GANちゃんが言うには当日は雨上がりにも関わらず強風でグリーンが乾き硬くなって
ボールが止まり難く、更にはピン位置も難しくタッチも速かったって事だった
 
確かにGANちゃんはグリーンを外すにしても必ず手前に外してた
一度もグリーンオーバーさせなかった、この辺りがシングルプレーヤーなんでしょうな~
 
ま、言い訳にはなりませんよね、そう言った条件でプレーするのもゴルフですからな~
と、言う事で今度はショートアイアン以下の球質と安定した飛距離と方向性ってのも課題になった
 
どうも性格的に手加減するショットが苦手なんですよね 
若い頃から何でも力づくで・・・って性格でしたからね 笑!
 
ま、先は長いんだから練習も楽しんでやろうと思います! ジャンジャン!!

春ツーリング (1) 東へ・・・

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4月18日月曜日 天気 曇り
 
 
さて、例年ならこの時期の記事は「俺たちの旅」と称して2泊3日での
泊まりのバイクツーリングの日記記事をアップしているはずだった
 
しかし何度もお伝えしてるように今年春はリターンライダーに返り咲いた
GANちゃん、KEN、グッチのアキースメンバーがGWに阿蘇に初めて行くという事で
尾崎がナビゲーター役で彼らに同行する手筈になった
 
僕達が「俺たちの旅」で最後に阿蘇にツーリングに訪れたのが昨年春だったが
実は阿蘇には一昨年の秋にも訪れたので順番で言うと本当は昨年春は九州以外に行くはずだった
 
僕達は年2回4月と10月にロングツーリングに出かけているが1回は阿蘇を含む九州方面
もう一回は九州以外に交互に行くと言う事が暗黙の了解で決まっていた
 
しかし一昨年秋と昨年春に二度続けて九州に行ったのはある理由があった
ちょうど昨春の僕達のツーリングの日程中に九州長崎
COOLSの40周年ライブが開催されると知り僕が長崎に行こうと提案したからだった
 
 
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あの時に長崎で見たクールスのステージは結果的に僕達呉オールドモータースクラブ
クールスを招いて開催された5周年記念ロックンロールパーティーに繋がった事は間違いない
 
あの時カツジや尾崎がクールスを見ていなかったら5周年記念パーティーで
クールスを招くという大それた事は実現していなかったかもしれない
 
彼等はあの段階では僕ほど熱心なクールス信者でもなかったから僕がクールスを
KOMM5周年に招きたいと提案しても果たして彼等が首を縦に振ったかどうかはわからない
 
しかし長崎で見たクールスのステージに彼らは昔を思い出し感銘を受けたようだった
そのおかげで彼らの賛同を得る事が出来クールスライブは実現に至ったのだ
 
同年夏前に僕にクールスサイドの方から呉でクールスをと話を持ちかけられた事も含め
今考えたら全てがベストタイミングだったと思うし運命の赤い糸が繋がっていたのかもと思う
 
 
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こうしてツーリング日程の順番抜かしをした僕達は昨年秋には四国一周の旅に出た
この時から僕達アキースメンバーのコマンド部隊の一人だった後輩のグッチが加わった
 
そして今回は満を持して九州阿蘇に再訪する筈だったが前記した理由で阿蘇は秋に見送られた
4月の3週目と5月の1周目に続けて尾崎が阿蘇に行くのはどうかという事になったからだ
 
しかし今回九州・四国以外で2泊3日の行程で行きたい場所が見当たらなかった
そこで今回は1泊2日に短縮して東方面の近場に行こうという事になった
僕もカツジも本来なら火曜日は営業日だからリスクを避けようという事にもなる
 
そんな内情だったから日曜日の雨の確率90%に僕達はテンションが上がらない
これまでのロングツーリングで雨具を着て強行突破した事も一度や二度じゃない
しかし今回は誰一人として雨具を着て・・・とは言わなかった 笑!
 
先週木曜日の昼にはカツジと尾崎が申し合わせて泊まりを中止にする事を報告して来た
そして僕は暇になった日曜日にGANちゃんやKENとゴルフに行く事にした
 
しかし、その夜まさかの熊本地震が発生する
沢山の死傷者や被害が出て阿蘇周辺の道路も被害で封鎖されてるようだ
まさかそんな状況の所へノコノコとツーリングに行けるはずもない
 
GWには阿蘇では多くのバイクイベントも予定されてたはずだがおそらく中止はやむ得まい
GWの稼き入れ時に観光地としては痛手だろうが事はそんなレベルじゃない
 
と、言う事でGANちゃん達の阿蘇行きは止む無く中止となった
 
 
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ゴルフ当日、日曜日の朝8時には呉は雨が止んだ
僕がゴルフに行く前にグッチの店に寄ると尾崎が来ていた
 
「オイ、朝カツジから電話があって昼からバイクに乗らんかいって言いよったで!」
 
「オイオイ急に言われてもワシは今日GANちゃんやKENとゴルフに行く事にしたんで・・・」
 
「知っとるわい、じゃけんカツジには無理じゃって言うといた・・・」
 
「でも明日はバイク乗るんじゃろうが? どこ行くんな?」
 
「集合は朝7時に”ここ”じゃけど行き先はまだ決めとらん
てか、オマエもち~た~行き先くらい考えや!」
 
「いやいや、ワシャ~前から今回は○○に行きたいって言いようるじゃないか!」
 
 
いつもの会話だが広島以外の人が聞いたら喧嘩してるように思うかもね 笑!
 
とは言え、僕も大概には提案はするが大体の決め事は尾崎とカツジが話し合って
最終的には尾崎の判断で殆どの事が決まるんですからね~
 
 
だから僕は決まった事に従うし反対する事も殆どない
僕は方向音痴でもあるから提案する時も遠慮しながら提案するんですよ 笑!
 
 
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そしてツーリング当日朝7時
 
今回は僕と尾崎、カツジ、グッチに加えグッチの義兄のTAKUちゃんも参加で計5台
行き先は僕が提案した”ある場所”に決まったみたい
 
ああは言っても尾崎さん、ちゃんと僕の提案を取り入れてくれてる! 爆!
 
しかし以て当日は雨こそ降ってないが曇り空が広がって超寒い
僕はある程度寒い事を予想して中にヒートテックも
ダウンセーターも着込んでいたが、それでもず~っと寒かった
 
僕はヘルメットシールドがあまり好きじゃないからジェットヘルメットに
サングラスで行ったんですがネックウォーマーを持って来てたのが大正解だった
 
まあ知らない人が見たら怪しい人に見えたでしょうがね 笑!
 
 
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と、言う事で午前11時には目的地に到着!
 
端午の節句と言う事で鯉のぼりが泳いでましたね
さてさて、ここはどこでしょう? 笑! ジャンジャン!!

春ツーリング (2) 天空の城

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朝7時半に呉を出た僕達5人は11時過ぎには目的地である
今回のツーリングで僕がリクエストした”ある場所”に到着しました
 
その場所は山の頂にあるのですがバイクはここまでしか登れないので各自バイクを停めます
 
 
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バイクを停めた所からはバスに乗り込みます、まるでオヤジの遠足です 笑!
ちなみにバスの運賃は往復で300円です
 
目的地までは徒歩でも行けるそうですが1時間程歩くという事だった
齢50を過ぎた僕達は山道を1時間も歩ける訳がない 笑!
 
 
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それでもバスの終点から目的地に行くには徒歩で20分かかるという事だった
 
老体に鞭打って僕達は山古道をひたすら歩きます
中には杖を突いた奴もいます 笑!
 
 
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山古道の所々に城主からのメッセージ立札が立てられています
城主からのメッセージに励まされながら老体5人は息を切らせ目的地を目指します
 
てか、すれ違う人の中にはどう見ても70歳、いや、80歳を超えていると思われる老人もいます
 
歳を取ったと言っても僕達はまだ50代
ご老人の方から見たら弱音を吐く歳でもありませんが日頃の運動不足は顕著です 笑!
 
 
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ようやく目的地の一部が見えてきました
 
天然の岩盤と組み合わされた石垣は間違いなく野面積みでしょうな~ 笑!
 
自然の岩盤と組み合わされた石垣ってのは”ここ”だけの特徴の一つで
とても雄大で見事としか言い様がありません!
 
 
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ようやく目的地の天守閣が見えてきました
 
もうとっくにお気付きの方もいらっしゃったと思いますが
ここは岡山県高梁市にある備中松山城なんですよね!
 
 
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備中松山城は高梁市市街地の北端にある臥牛山にそびえる山城で
現存する山城としては日本一高い所にある城(天守、標高430m)として有名です
 
昨今テレビCMで使用され「世界のマチュピチュ」と言われ幻想的な雲海が見られる事で有名なのは
兵庫県朝来市の竹田城ですが日本には他にも天空の城があったのです
 
それがここ備中松山城ですが竹田城は天守もなくあくまで城跡ですが
備中松山城は天守も存在し、しかもその天守は日本の現存12天守にも数えられています
 
17世紀後半に建築された天守と二重櫓は当時のままの姿で残り
平成9年(1997年)には本丸に五の平櫓、六の平櫓などが復元されたそうです
 
 
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備中松山城は高梁川という一級河川が横切る番地という地形上
冬11月~2月頃には各所で幻想的な雲海が発生します
 
雲海から城山が出るタイミングと合致すればこの風景に出会うことができます
 
まるで極楽浄土みたいな景色ですな~ 笑!
 
 
 
 
こちらが高梁市が制作した雲海に浮かぶ備中松山城の公式映像です
 
 
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備中松山城は現存天守ですからもちらん天守閣内も当時物です
 
築城は鎌倉時代の1240年とされており中世の遺構を残した近世式城郭としても貴重です
 
 
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と、いつもの城の記事だったらこの辺りで城の歴史や歴代藩主のエピソードを書くのだが
どうも備中松山城には特筆するような歴史も著名な藩主もいなかったようだ
 
山城だし築城は鎌倉時代と古いのだが特筆するようなエピソードもない
山陰と山陽の中間点であった事から戦の拠点としての役割はあったようなのだが・・・
 
強いて言えば天正2年(1547年)毛利氏が宇喜多直家と同盟を結んだ事から
当時の城主だった三村元親が毛利氏から離反して織田方についた
そのため毛利軍の小早川隆景公に包囲され落城している
 
戦国時代には毛利領だったが関ヶ原以降は城主もコロコロ変わったみたいだ
 
エピソードとしては同じ備中にあった備中高松城の方が有名ですよね
信長軍の総大将として秀吉水攻めしたのが毛利に使えた清水 宗治の居城備中高松城だった
 
 
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観光地名物の顔出しボードもあったが誰を模写したのかもわからない 笑!
 
と、言う事ですが備中松山城の事がもっと知りたい人は↓の動画をご覧ください
今日はここまで!また明日! ジャンジャン!!
 
 

春ツーリング (完) 千屋牛

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備中松山城がある小松山から下山した僕達は昼も過ぎ
お腹が空いたと言う事で何を食べようかと思案します
 
「オイ!何が食いたいんな?」
と、尾崎さん
 
「ここまで来たんじゃけん、うどんや蕎麦じゃ堪えられんど!肉じゃ!エエ肉が食いたい!」
と、グッチ 笑!
 
と、言う事で僕達は高梁市の隣にある新見市まで一走りします
 
 
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新見市にはこのような牛のオブジェが多数飾られています
 
新見市千屋地区は「千屋牛(ちやうし)」という黒毛和種の和牛ブランドの畜産地なのです
 
 
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写真2枚目の牛のブロンズ像や↑の写真もそうですが千屋牛が碁盤に乗っています
 
これは地元の伝統芸能「千屋牛の碁盤乗り」なのだそうです
千屋牛は訓練次第でこういった芸能もこなす賢い牛だそうです
 
千屋の古い民家の多くでは家の中に牛舎がある造りになっていて
「牛も家族であり、家族なら一緒に寝起きするのは当然」と考えられているそうです
 
 
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そんな貴重な千屋牛のカルビがこれだ!
 
イイ感じで霜降りが入って脂が乗って見た目にも高級である事がわかる
 
 
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千屋牛の焼肉はカルビ、レバー、ホルモンをいただきましたが流石はブランド牛
超美味かったですぞ!!
 
カルビなんて口に入れたら柔らかくて溶けてしまいましたぞ 笑!
 
 
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更には各自「千屋牛のロース焼肉定食 1600円」をいただきました
 
 
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千屋牛は小規模生産のため出荷頭数も少ないんだそうです
もともと新見市の千屋地区では鉄山業が盛んで千屋牛は労役牛として使われていたんだそうです
 
千屋地区は冷涼で降雨量が比較的多く牛の飼育に適している土地であった為
古くから牛の生産が盛んであったそうです
 
もちろん現在でも肉用牛生産は千屋地域の重要な産業であるそうです
 
 
と、言う事ですが当日のお食事代は全てTAKUちゃんに御馳走になりました
「TAKUちゃん、ありがとうございました! ゴチです!!」
 
 
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行きは一般道を走った僕達ですが帰りは中国道~山陽道と高速を乗り継ぎ帰路に着きます
 
中国道のSAのGSでは熊本に救援に向かう沢山のトラックが列をなしていました
トラックのナンバーが「なにわ」ナンバーだったから大阪から救援に向かってたのでしょう
 
熊本では今でも余震や地震が続いていますが一日でも早く事態が収拾する事を祈っています
 
そう言えば阿蘇に行って熊本泊の時いつも美味しい店を教えてくれる
熊本市内のピンサロの呼び込みの通称「ハマさん」大丈夫なんだろうか?
 
フト、そんな事を思った僕でした! ジャンジャン!!
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