深作欣二
1930年(昭和5年)7月3日生まれ 茨木県水戸市出身
2003年1月12日没 享年72歳
仁義なき戦いシリーズの監督である深作欣二氏の監督起用については当初
主演が決まっていた菅原文太さんの強い推薦があったそうだ
従来の任侠映画とは違うものにしたいとプロデューサーの俊藤 浩滋氏に頼み
深作監督の作品を観た俊藤 氏の判断で深作監督起用が決まった
深作監督は俊藤氏から今度京撮で製作するやくざ映画の監督をする気があるか打診された
「週刊サンケイに『仁義なき戦い』というのが連載されてるのは知ってるか?」
「はい読んでますよ、あれは面白いですねえ」
「京都でやろうと思ってるんだ、やる気があるか?」
「私で良かったらやらしてください」
というやりとりがなされた
しかし脚本家の笠原和夫氏が「あいつはシナリオをいじりまくる」と難色を示し
笠原と当時の東映社長の岡田茂氏は共に京撮の若手エース監督
中島貞夫氏を推していて、中島は内々の監督の打診を受けていた
俊藤氏が深作監督の起用を強引にすすめ深作氏も笠原氏の脚本には一切
手を入れない事を約束し最終的には岡田社長が笠原の説得にあたり深作起用が決定した
日下部五朗プロデューサーは
「深作さんが脚本に文句をつけたら、違った仁義なき戦いになっていたのは確か」
と述べている
深作監督は当時まだ一般にはあまり知られておらず、"映研派"監督などといわれ
大学生の間では熱狂的に人気があったが自分の撮りたいものを撮るという姿勢を
崩さなかったため、撮っちゃ干され、撮っちゃ干されの時期が長く続いていた
更に日下部氏は当時をこう回想している
「まあ扱いにくい監督だった、結論が出たかと思ったら蒸し返して元へ戻る
建設屋じゃなく壊し屋、その内に頭の中で作っていくんだ
脚本家は幾人も泣かされた、イチャモンをつけて最後には一緒にやる脚本家はいなくなった
徹夜好きで、麻雀も好きで、いつまでもいつまでもディスカッション
いつ寝てるかと思うほどタフな人だった、深作組は深夜作業組とも呼ばれた
まあ結果的には深作欣二という監督にしか仁義なき戦いという類のない
映画世界を生み出す事は出来なかったのは事実だろう」
白石和彌
1974年(昭和49年)12月17日生まれ 43歳
北海道旭川市出身
1995年、中村幻児監督主催の映像塾に参加
以後、若松孝二監督に師事しフリーの演出部として様々な作品に参加
2010年公開の「ロストパラダイス・イン・トーキョー」が長編デビュー作になったが
白石和彌監督が一躍有名になったのは2013年公開の初の長編作品「凶悪」だった
その後2016年公開の「日本で一番悪い奴ら」の後数本の映画を撮り
そして今年5月12日公開の「孤狼の血」のメガホンをとる
孤狼の血プロデューサーの紀伊宗之さんは
「監督は白石和彌さん、脚本は池上純哉さんという”日本で一番悪い奴ら”の
黄金コンビだから、きっといいものになるという確信はあったんです」
と、語っておられるが、逆に白石監督は
「凶悪や日本で一番悪い奴らと、いわゆる実録モノが続き孤狼の血は実録ではないが
テイストが近かったので監督をお引き受けするかどうか一瞬だけ迷ったんです
でも、柚月裕子先生の原作が堂々たる警察小説として面白かったので
最終的には是非やらせてほしいとお受けしました」
平成3年の暴対法施行、近年の映画表現にまつわるコンプライアンス
もはや、ヤクザ映画は時代劇になりつつある
そう前置いた上で孤狼の血の撮影は白石監督にとって仁義なき戦いを
筆頭とする数々の名だたる東映プログラムピクチャー群との戦いでもあった
原作者の柚月裕子さんは仁義なき戦いや県警対組織暴力をリスペクトして
孤狼の血を執筆したと公言されていたので尚更だった
「僕自身、深作欣二監督の仁義なき戦い、その他の作品が好きです
だからこそ深作さんと真っ向から勝負しても意味がないし勝てない(笑)
そこでオール広島ロケに拘ったし、肩を並べるくらいの善戦は果たせたと思う
昨今は(仁義なき戦いの時代と違って)本物のヤクザに話を聞く機会もかなわない
だから石橋蓮司さんや、伊吹吾郎さんの存在と経験は貴重だった
今後の日本映画にとって孤狼の血は重要な機会だった」
孤狼の血の完成で東映は”あのころ”のイズムとスピリットが蘇ったそうだが
既に終わった実録路線をそのまま焼き直す気持ちはなかったという
白石和彌という監督の手によって新しく切り開かれた東映の新しいジャンル
往年の実録路線ファンにとっては、どうしても比較してしまう部分はある
が、東映の新ジャンルや白石監督の手法をどう感じるかは劇場で実際に孤狼の血を
観なけりゃ始まりませんぞ! 笑! ジャンジャン!!