先日、四国テレビ放送のクルーを引き連れて徳島から呉を訪れた春藤さんは
戦時中に大日本帝国呉海軍の広工廠に従事されてたと言われてた
春藤さんと対談したテレビ取材の記事
広工廠と言えばウチの祖父の職場でもあったのだが当時の広工廠は黄幡山の麓にあり
現在の広交差点から海沿いに沿って長浜の米軍基地までと広範囲に亘っていた
黄幡山は僕の故郷である長浜にあるのだが黄幡山には
沢山の防空機銃砲台や防空壕が設置されていた
今でも黄幡山の麓には沢山の防空壕跡や山中には砲台跡が残っている
冒頭の写真は長浜の夏祭りが行われる三角浜近くの西脇神社の並びにある防空壕跡だ
現在普段は施錠されて入る事は出来ないが、ここも含め各防空壕は
僕が子供の頃は自由に出入りする事が出来て恰好の遊び場だった
防空壕の中はこんな感じになっており
ここは地下壕という意味合いを含め地下工場でもあった
太平洋戦争の戦況が悪化し国家総動員で動員された学徒、女子挺身隊の
若い方たちが戦闘機の部品をここで組み立てていたのだ
長浜港から見た冒頭の写真の西脇神社と防空壕の位置
先日、春藤さんとお話をした中で春藤さんは長浜港で伝馬船を漕いで
武器を運んでいる途中に米軍機グラマンに見つかって機銃されたとおしゃってた
弾が当たらず九死に一生を得たとおっしゃってたがグラマンを操縦してた
アメリカ兵のニヤけた笑顔が今でも忘れられないとおっしゃってた
その現場はこの辺りだったのだろうか?
ここは、ウチの実家の真ん前にある防空壕跡だが僕がまだ幼かった頃に
オニベンケイなどの沢蟹を捕獲する絶好のポイントだった
奥まで入ると夏でも冷やりしていた事を今でも覚えている
空襲警報が鳴ったらウチの祖先はここに逃げ込んでいたんだろうな~
正式名は黄幡山と言うのだが僕たち長浜人は、この山を西山と呼んでいた
昭和40年代に子供時代を過ごした僕たちにとって西山は格好の遊び場でもあった
西山山頂に登るにも幾つものルートがあった
ここは長浜峠から昇るルートの道だ
標高が低い山だから子供の足でも楽に山頂まで登れた
このルートから上がるとコンクリートの石柱があります
空襲時に出来たと思われる米軍機の機銃掃射の跡が確認出来ます
コンクリートの石柱を米軍基地方向に進むと戦死者の碑があります
春藤さんは呉空襲の時に黄幡山の防空壕に辛うじて逃げ込んだと言われてた
当時まだ若かった春藤さんを優先して入れてくれた大人たちは
防空壕に入る事が出来ず爆撃に遭い亡くなられたそうだ
石碑の裏には空襲があった日付や名前が刻まれています
この辺りに機銃砲台があって ここで12名の方が亡くなられたそうです
今は砲座は埋められ畑になっていますが辛うじて井戸は残ってるみたいです
黄幡山の裏側は現在米軍基地施設になっているため
敷地の境界線には至る所に立て看板が立っています
僕が子供の頃は平気で境界線を越えて米軍基地敷地内に入ってましたが
当時米軍敷地内に入ってる所を米兵に見つかると射殺されるという噂があった
しかし僕は射殺された人を見た事も聞いた事もない
てか、この辺りでアメリカ人を見た記憶もないぞ 笑!
と、いう事ですが先日、春藤さんから取材時のお礼の手紙と共にDVD,を頂いた
更には徳島名物の鳴門金時と鳴門わかめまで送って頂いた
「春藤さん、先日は貴重な話を聞かせて頂き ありがとうございました
更には こんな物まで頂いて恐縮しております
また呉に来る機会があれば出来る限りの協力は惜しみませんのでご一報下さい
寒い折でありますから くれぐれもご自愛ください」
更には春藤さんと引き合わせて下さった「ポツダム少尉」制作者の
宮内さんからもお手紙他をいただいた
「宮内さん、ありがとうございます
まったく予期せぬ出会いでしたが、縁に感謝しております
こんな僕で出来る事であれば出来る限りの協力は惜しみません
いつの日か、呉でお会い出来る日が来る事を楽しみにしております」
ジャンジャン!!