さて、久しぶりのシリーズ「My Music Travel」の特集「日本で売れた異国人歌手」ですが
5回目のトップバッターは男女デュオとして1968年(昭和43年)デビューして
後に夫婦となった「ヒデとロザンナ」のお二人を取り上げてみたいと思います
愛の奇跡 / ヒデとロザンナ 1968
作詞・中村小太郎 作曲・田辺信一
淋しげな 雨に濡れた君の くちびるが 忘れられなくて
別れても 私は信じたい いつの日か あなたに 愛される 愛の奇跡
別れても 私は信じたい いつの日か あなたに 愛される 愛の奇跡
はげしく燃えてる 心をつかんで 放さぬ この恋 この愛
振りむかぬ 冷たい君だけど いつの日か あなたに 愛される 愛の奇跡
振りむかぬ 冷たい君だけど いつの日か あなたに 愛される 愛の奇跡
たそがれを ひとり歩く君の 横顔が とても好きだった
別れても 私は信じたい いつの日か あなたに 愛される 愛の奇跡
別れても 私は信じたい いつの日か あなたに 愛される 愛の奇跡
愛される 愛の奇跡 愛される 愛の奇跡
愛は傷つきやすく / ヒデとロザンナ 1970
作詞・橋本淳 作曲・中村泰士
自由にあなたを 愛して愛して私はこんなに 傷ついた
たとえば二人で 命をたてば 微笑みさえも 消える
よみがえる日々 よみがえる愛 やさしい言葉で
なぐさめつつんでそして結ばれた
その時私は あなたの指が小さくふるえるのを 見たの
たとえば涙に くちびるよせて二人は 愛にゆれる
自由にあなたを 愛して愛して私はこんなに 傷ついた
たとえば二人で 命をたてば微笑みさえも 消える
よみがえる日々 よみがえる愛やさしい言葉で
なぐさめつつんでそして結ばれた
1968年(昭和43年)に、日本人の出門英さんが、両親の借金返済のため
イタリアの小さな田舎町から17歳で歌手として日本に やってきた少女
ロザンナ・ザンボンとヒデとロザンナを結成
デビュー曲のB面だった「愛の奇跡」に火がつき大ヒット
一躍売れっ子歌手の仲間入りを果たす
1970年(昭和45年)にリリースした5枚目のシングル「愛は傷つきやすく」が
初のオリコンチャート1位を獲得し、その年のNHK紅白歌合戦にも
初出場し以降も次々とヒット曲を連発した
1975年(昭和50年)に二人は晴れて結婚し夫婦になったが
1990年(平成2年)に夫、出門英さんが結腸癌で死去,,享年47歳という若さだった
陽気なイタリアの女性のロザンナさんだが2008年に出版した著書「泣かない」では
夫、英さんの結婚前からの浮気癖に悩まされた経緯や、英さんの病室に
こっそり愛人が来ていたなど、英さんに振り回され苦悩した事が綴られている
しかしそれでも今でも一番愛しているのは英さんであり
「いろいろ間違いは起こるけど夫婦になったら、ずっと一緒に歩んでいくべき」
だと述べられている、現代の若い夫婦には是非見習ってほしいと思いますね 笑!
てか、ヒデとロザンナ、懐かしいですな~
あの頃、夫婦デュオと言ったらヒデとロザンナか、チェリッシュでしたな~
こまっちゃうナ / 山本リンダ 1966
作词:遠藤実 作曲:遠藤実
こまっちゃうナ デイトにさそわれて どうしよう まだまだはやいかしら
うれしいような こわいような ドキドキしちゃう 私の胸
うれしいような こわいような ドキドキしちゃう 私の胸
ママに聞いたら 何んにも言わずに 笑っているだけ
こまっちゃうナ デイトにさそわれて
こまっちゃうナ お手紙来たけれど 悪いかなァ お返事出さなけりゃ
うれしいような こわいような ふるえてしまう 何故でしょうね
ママに聞いたら 初めはみんな そうなんですって
こまっちゃうナ お手紙来たけれど
うれしいような こわいような ドキドキしちゃう 私の胸
ママに聞いたら 何んにも言わずに 笑っているだけ
ママに聞いたら 何んにも言わずに 笑っているだけ
こまっちゃうナ デイトにさそわれて
My Music Travel 13でも取り上げた山本リンダさん
朝鮮戦争で戦死したアメリカ人の父親と、日本人のハーフに生まれ
早くに父親を亡くし、女手一つで育てられたため幼少期の頃はとても貧乏で
時代性もありハーフという事で、イジメにも遭っていたらしい
1951年(昭和26年)生まれのリンダさんは、母親を楽にさせてやりたいと
1962年(昭和37年)に11歳でモデルオーディションに応募してモデルデビューを果たす
1966年(昭和41年)の高校在学中の15歳の時に「こまっちゃうナ」でレコードデビュー
「こまっちゃうナ」は大ヒットになり国民的アイドルとして人気を博す
当時は舌っ足らずな口調を売りにした、いわゆる「可愛い子ちゃん歌手」であった
前回リンダさんを取り上げた時にも書いたけど、この「こまっちゃうナ」は
僕が3歳の時にリリースされた曲だからリリース当時の記憶はないはずだ
しかし、リンダさんがこの曲を歌ってる映像の記憶はあるのだ
で、調べているとリンダさんは1971年から放送された「仮面ライダー」に出演し
劇中では「困っちゃうナ」のセリフが出てくるシーンもあったそうだ
そのシーンはハッキリ覚えてないが、そんな事も記憶のかけらにあるのかも知れない
しかし、この後リンダさんは「こまっちゃうナ」が大ヒットした後は
ヒットに恵まれず人気は低迷する
どうにもとまらない / 山本リンダ 1972
作詞・阿久悠 作曲・都倉俊一
うわさを信じちゃ いけないよ 私の心は うぶなのさ
いつでも楽しい 夢を見て 生きているのが 好きなのさ
今夜は真赤な バラを抱き 器量のいい子と 踊ろうか
それともやさしい あのひとに 熱い心をあげようか
ああ蝶になる ああ花になる 恋した夜は あなたしだいなの
ああ今夜だけ ああ今夜だけもうどうにもとまらない
港で誰かに 声かけて 広場で誰かと 一踊り
木かげで誰かと キスをして それも今夜は いいじゃない
木かげで誰かと キスをして それも今夜は いいじゃない
はじけた花火に あおられて 恋する気分が もえて来る
真夏の一日 カーニバル しゃれて過していいじゃない
真夏の一日 カーニバル しゃれて過していいじゃない
ああ蝶になる ああ花になる 恋した夜は あなたしだいなの
ああ今夜だけ ああ今夜だけ もうどうにもとまらない
ああ今夜だけ ああ今夜だけ もうどうにもとまらない
キャニオンレコードに移籍したリンダさんはイメージチェンジを図り起死回生を目指す
昭和のゴールデンコンビ阿久悠・都倉俊一に制作依頼した
「どうにもとまらない」は1972年(昭和47年)にリリースされた
「どうにもならない」は大ヒットとなり、セクシーな大人の歌手にイメージチェンジして
再びヒット歌手として脚光を浴びたリンダさんはアクション歌謡の先駆けとなった
当時前例のなかったヘソを出して歌う大胆な衣装、情熱的で激しいダンス
扇情的な歌詞の内容などが話題になり、「こまっちゃうナ」時代を上回る人気を獲得
「ヘソ出しルック」の第1号となる
続く「狙いうち」も大ヒットを記録し「狂わせたいの」「じんじんさせて」「燃えつきそう」
「きりきり舞い」といったヒット曲を連発する
いや~ 当時まだ幼かった僕には、ある意味ゲテモノに(笑)見えましたが
今当時の映像を観ると超カッコいいですね~
過激な歌詞・踊り・衣装・・・どれをとっても最高にインパクトがありますね~
こんな格好で当時これだけの事を恥ずかしがらずカッコつけてやれたのは
山本リンダさんと西城秀樹さんくらいでしょうね~
釜山港へ帰れ / チョー・ヨンピル 1982
日本語作詞・三佳令二 作曲・黄善友
椿咲く春なのに あなたは帰らない
たたずむ釜山港(プサンハン)に 涙の雨が降る
たたずむ釜山港(プサンハン)に 涙の雨が降る
あついその胸に 顔うずめて も一度幸せ 噛みしめたいのよ
トラワヨ プサンハンへ 逢いたい あなた
トラワヨ プサンハンへ 逢いたい あなた
行きたくてたまらない あなたのいる街へ
さまよう釜山港は 霧笛が胸を刺す
さまよう釜山港は 霧笛が胸を刺す
きっと伝えてよ カモメさん いまも信じて 耐えてるあたしを
トラワヨ プサンハンへ 逢いたい あなた
トラワヨ プサンハンへ 逢いたい あなた
大韓民国(韓国)出身の国民的歌手「チョー・ヨンピル」
1969年(昭和44年)に韓国でカントリーグループとしてデビューし
1975年(昭和50年)にソロデビューし、翌年「釜山港へ帰れ」が韓国で大ヒット
1982年(昭和57年)に日本デビューし「釜山港へ帰れ」が大ヒットして
1987年(昭和62年)には韓国人で初めてNHK紅白歌合戦に出場した
「釜山港へ帰れ」は本国韓国や日本の歌手も多数カヴァーしている
日本で最初はは1979年(昭和54年)に殿様キングスが
「泪の波止場」というタイトルでシングルを発売した
歌詞はほぼ大部分が「釜山港へ帰れ」の訳詞と同じではあるが
釜山港というフレーズの部分は「波止場」など違う歌詞となっていた
三佳令二氏による日本語作詞では釜山港で帰ってこない男性を待つ
女性の心情が歌われているが、原詞では日本へ行ってしまったきり
帰ってこない兄弟が歌われている
なお原題を直訳すると「帰ってこい釜山港へ」となり、訳題は倒置されている
しかし何ですな~ この曲の本来の歌詞が意味する真意はいったい何なんだ?
日本へ強制労働で連れて来られた兄弟を待っているという意味なのか?
もしそうなら、そんな歌詞の曲が日本で大ヒットしたというのは個人的には解せませんな~
確かに良い曲だとは思うんですけどね~・・・ ジャンジャン!!