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年賀切手シリーズ (酉年) 1969 とり

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1969年(昭和44年) とり
 
さて、毎週火曜日の恒例記事になった年賀切手シリーズも今回で10回目を迎えます
モノクロの時代というイメージだった1960年代が終わりを告げる昭和44年
と、言う事で今回は1969年(昭和44年)酉年の世相を振り返ってみましょう
 
酉(とり)年生まれの性格は理解力に優れ先を見抜く直感を持っています
そのためピンチが続くと諦めが速く必要以上の苦労を避ける傾向があります
どちらかと言うと楽な方楽な方へと選択していきます
 
また、おとなしそうに見えても内心ではライバルを出し抜くチャンスをじっと待っています
もともとは強運の持ち主で自分の利益だけを追わずに汗を流して働く事をすれば成功して
人も羨むような地位や名誉を手に入れることが出来るでしょう
 
 
と、言う事ですがここからは1969年のヒット曲である
皆川おさむ君の「黒猫のタンゴ」を聴きながらお楽しみください!
 
 
 
 
黒猫のタンゴ/皆川おさむ 1969
 
 
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1969年のニュースを調べてみると7月16日にアメリカのケネディ宇宙センターを飛び立った
アポロ11号が 同月21日に「静かの海」と呼ばれる月面の平地に着陸しました
長い間人類が夢見てきた月への到着に成功したのです
 
このニュースはこの年6歳になる僕も何となく覚えていますね
当時僕は月にはウサギがいて餅をついているのかと思ってましたが
テレビに映し出される月の映像にウサギはいなかった 笑!
 
人類が初めて月に足を踏み入れて今年で47年の歳月が経ちますが
今でも庶民が簡単に月旅行出来る時代にはなりませんでしたな~ 笑!
 
 
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1969年の日本国内のニュースに目をやると昭和44年には大したニュースは起きていないが
昭和の時代を経験した人には懐かしい岩倉具視氏がデザインされた500円札が発行されている
 
とは言え当時6歳だった僕にはお札なんてまったく縁のない物だった
僕の記憶では確か当時の1日のお小遣いが10円とか20円の世界だった
余所の家はどうだったかは知りませんがお正月のお年玉でも300円くらいだったと思いますよ
 
そんな時代だった1969年は後にバイク王国になる日本製バイクが世界を驚かせた年になった
 
それまでの日本のバイクの排気量はせいぜい350ccクラスが主流だった
英国車を真似たメグロに端を発した650ccKAWASAKI W1はありましたが海外では評価は低かった
 
そこにホンダが前代未聞の4サイクル空冷4気筒750ccエンジンとディスクブレーキを標準装着した
HONDA DREAM CB750Kをリリースし世界を驚かせ大ヒットした
CB750の大ヒットで国内では「ナナハン」という言葉が生まれた
 
1969年は日本4大メーカー最後発のカワサキが”世界最速”をコンセプトに
2サイクル空冷3気筒500ccのKAWASAKI 500SSマッハⅢをリリースし大ヒット
 
この革命的な2台のバイクの登場で国産バイクは高度成長期に突入する
 
ちなみに1969年当時の各車両の新車価格はCBが385000円、マッハが298000円だったが
47年後の現在、初期型のCBやマッハの中古価格は200万円~300万円くらいの値が付いている 笑!
 
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ファッションに目をやるとヒッピーに端を発したサイケデリックブームの影響もあり
パンタロンという裾がフレアーに広がった所謂「ラッパズボン」が大流行
 
そう言う僕も確か小学校の高学年頃までラッパズボンを履いてましたぞ
ラッパズボンを履いて自転車に乗るとズボンの裾が自転車のチェーンに絡むんですよね~ 笑!
 
当時のミュージシャンやアイドルもパンタロンを履いてましたね~
「学生街の喫茶店」でよく知られるガロ等のフォーク系ミュージシャンや
「どうにもとまらない」「狙いうち」等がヒットした山本リンダさん等が僕の記憶のイメージですね!
 
 
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ヒッピーの登場で日本ではフーテン族が全国的に繁殖しました
 
フーテン族はシンナーマリファナ、LSDを使用した精神解放を流行らせ
それに伴い男女の”性”も急激に乱れ始まます
 
そこに登場したのが岡本理研が発売したスキンレススキンコンドーム
商品は大ヒットしたそうですが、もちろん当時の僕には必要ない・・・てか、知る由もなかった 笑!
 
まあ僕的には岡本理研の「OKマーク」
当時のレーシングマシーンに貼られてたステッカーのイメージが強いですね!
 
 
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1969年には現代では当たり前にある缶コーヒーが世界で初めて登場した
缶コーヒーを作ったのは「日本のコーヒーの父」と呼ばれるUCC上島珈琲の創業者・上島忠雄だった
 
コーヒーに魅せられていた上島氏は趣味が高じてUCCを設立する
ある日上島は駅の売店で瓶入りのミルク入りコーヒー(コーヒー牛乳)を買った
 
ところが飲もうとした途端に発車のベルがホームに鳴り響いたため一口だけ飲んで慌てて電車に飛び乗った
瓶を売店に返さなければならなかったからである、そもそも瓶を使うから飲み残しが生じるのだ
 
「そうか、缶や!缶入りのコーヒーならいつでもどこでも飲めるから飲み残すことはない
しかも常温で流通できるから商材としても扱いやすいはずや」
 
それは、電撃のような閃きだった
 
上島は自らが中心となりすぐさま「缶コーヒー開発プロジェクト」をスタートさせた
そして誕生したのが世界初の缶コーヒー「UCCコーヒー」だったのだ
 
 
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新三種の神器の一つであるカラーテレビが急激に普及した事もあり
1969年には子供向けアニメも続々と放送開始されます
 
先ずは戦後の新聞漫画ジャンルを代表する国民的漫画の「サザエさん」
放送開始から47年経った現在も最長不踏距離を更新する最強の長寿番組ですよね
 
しかし感心するのは放送開始から約半世紀が経とうとしているのに
未だに話の設定が「昭和」になってるのが凄い!
 
当時僕はカツオ君より年下だったのにいつの間にか
マスオさん、いや、波平さんと同じくらいの歳になったぞ 笑!
 
しかし時代は進化したけど「サザエさん」の中には現代において忘れ去られた何かがある
僕はそんな事を感じますけどね・・・
 
 
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北欧の女流作家トーベ・ヤンソンの妖精ファンタジーの一回目のアニメ化「ムーミン」
初期の半年分を東京ムービー(現TMS)以降を虫プロが制作した
 
カルピス漫画劇場としての初作は1969年の「どろろと百鬼丸」ですが僕的には
同年に放送開始された「ムーミン」が印象深い
 
当時僕はムーミンってカバかと思ってたんですがムーミン谷に住む妖精なんですよね 笑!
おさびし山に住むギターの達人スナフキンが好きでしたね~!
 
 
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梶原一騎と辻なおきによるプロレスロマン劇画の「タイガーマスク」
時代はジャイアント馬場さんとアントニオ猪木さんを筆頭に空前のプロレスブームでしたからな~
 
プロレス界に潜む闇の組織・虎の穴で修業した日本人孤児・伊達直人
彼は悪役タイガーマスクとしてリングにデビューする
 
だが彼は組織に上納すべきファイトマネーの一部を自分が出身した
孤児院ちびっ子ハウスを守るため無断で使ってしまう
 
裏切り者となったタイガーに、虎の穴の刺客が迫り来る・・・
 
やはり今考えてみれば当時の漫画は子供に向けての強烈なメッセージがあったと思う
今でもエンディングテーマの「みなしごのバラード」を聞くと切ない気持ちになりますね・・・
 
 
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浦野千賀子原作の少女漫画界の古典とでもいうべき名作スポ根「アタックNo1」
当時はスポ根アニメが沢山ありましたがスポ根は男の子だけの物ではなかった
 
中学生の鮎原こずえははみだし者の同級生たちを集めて高慢なバレーボール部とのバレー対決に勝利
そんな彼女がキャプテンとなったバレー部は数々の困難に直面しながらも
幾多の強敵を退けやがて全国大会優勝を成し遂げるに至った・・・
 
1964年の東京オリンピックで金メダルに輝いた日本女子バレーは東洋の魔女と呼ばれ人気を博した
そんな世相を反映し人気を博したのがアニメ「アタックNo1」とドラマ「サインはV」だった
 
アタックNo1のオープニングテーマで鮎原こずえが言う
「だけど涙が出ちゃう女の子だもん」ってセリフが印象的でしたね!
 
 
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赤塚不二夫が「りぼん」誌に連載した少女ファンタジー漫画の第一回アニメ「ひみつのアッコちゃん」
 
愛用の手鏡を割ってしまったひばりヶ丘小学校5年生の加賀美あつ子はその破片を庭に手厚く葬る
その行為に感激した鏡の精は魔法の呪文で何にでも変身できるコンパクトをあつ子にくれた
 
不思議な力を手に入れたアッコちゃんは時にイタズラや失敗もしながらも人々のために役立とうと考える
この秘密を知っているのは愛猫のシッポナだけだ・・・
 
僕は男の子だから真似はしませんでしたが今はオバサンになってる(笑)当時の少女は
誰もが一度は「テクマクマヤコン テクマクマヤコン ○○にな~れ!」って真似たと思いますよ 笑!
 
 
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初期タツノコプロのギャグコメディアニメの代表作「ハクション大魔王」
 
魔法の壺の中で平穏に暮らすハクション大魔王の一家
魔王とは名ばかりで少しも恐くない姿の大魔王は、魔法の法則により
 
クシャミをした人間界の少年カンちゃんに召喚される
カンちゃんのみならずクシャミをしたらどんな人でも動物にでも仕えねばならぬ決まりの大魔王
やがて可愛いアクビ娘も壺の中から現れる・・・
 
主人公の魔王を演ずる声優・大平透さんの声が印象的でしたね!
 
 
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さて、1969年の映画界を見ると個人的には洋画・邦画とも印象的な作品がない
 
その中で僕が気になったのが1969年の邦画興行収入でブッチギリのNO1に輝いている
笠原剛三の原作「栄光への5000キロ東アフリカ・サファリ・ラリー優勝記録」(荒地出版刊)を
蔵原惟繕が監督し映画化した「栄光への5000キロ」という作品だ
 
主演に石原裕次郎さんを据え仲代達矢、浅丘ルリ子、三船敏郎、伊丹十三、笠井一彦さんと
出演者も豪華な顔ぶれとなっている
 
是非見てみたいと思いますね!
 
 
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日本歌謡界に目をやると1969年は佐良直美さんの「いいじゃないの幸せならば」を筆頭に
由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」、和田アキ子さんの「どしゃぶりの雨の中で」
 
内山田洋とクールファイブ「長崎は今日も雨だった」、ピーターさんの「夜と朝のあいだに」
ザ・ドリフターズ「ドリフのズンドコ節」、菅原洋一さんの「今日でお別れ」
ビリー・バンバン「白いブランコ」と当時子供だった僕でも覚えてる曲が多い
 
その中で僕の一押しは皆川おさむ君が歌って大ヒットした「黒猫のタンゴ」を押したい
この曲のおかげでこの時代以降黒猫を見るとついつい「タンゴ」と呼んでしまう 
 
タンゴとはもちろん音楽のジャンルの事なのだが当時幼かった僕は
黒猫の名前がタンゴだと思い込んでいましたからね~ 笑!
 
 
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さて、1969年(昭和44年)の僕は3月に專徳保育園を卒園して4月に呉市立長浜小学校に入学した
当時長浜には3つの保育園があったから小学校入学時に初対面の友達と出会う事になる
 
入学式の時に僕は出席番号が前後だったその後親友になる運命の奴と出会う
「友達になろうね!」「仲良くしようね・・・」
こう言葉を掛け合った事は47年経った今でも鮮明に覚えている
 
しかし奴はこの後約10年余りしか生きる事が出来なかった・・・
 
と、言う事で今日はこれまで!次回はいよいよ1970年代の幕開けと言う事で
1970年(昭和45年)戌年やります!乞うご期待! ジャンジャン!!

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