ここに2冊の漫画と3冊の写真集がある
漫画の方は以前何度か記事にも取り上げた東本昌平さんの「CAROLAWAY」という作品で
1975・4・13、雨の野音でのキャロルのラストライブをメインに当時の若者の青春をリアルに描いた作品だ
対して3冊の写真集は言わばCAROLAWAYの写真版という感じで
1974年から1976年にかけての原宿近郊での若者たちの写真集となっている
同じ70年代の写真集でも先日記事にした「70’HARAJUKU」とは視点が違う
いつの時代もカルチャーは若者によって創られていく
1975年前後と言えばナナハンと言われた巨大なオートバイを操る若者たちによって
「暴走族」というカルチャーが加速的に全国へと広がった時代だ
そんな時代を撮り続けていた木下裕史さんという写真家の秘蔵カットが写真集にまとめられた
写真集「俺たちの1975」は「俺たちの1975 アーカイブス」「俺たちの1975 ラストダンス」と
3部作の写真集になっている
1975年前後の原宿と言えばキャロルの親衛隊を務めたクールスが生まれた町としても有名だ
当時の原宿をクールス目線で描いた遠藤夏樹氏著書の「原宿ブルースカイヘブン」や
ルート20という暴走族のリーダーだった遠藤さんご自身の目線で描かれた
「原宿バット・エンジェルス」からも当時の原宿界隈の様子を伺い知る事が出来る
上の漫画が東本さんによってディティールまで拘って忠実に当時の様子を描かれたCAROLAWAY
下の写真が木下氏が当時撮影された原宿での暴走族だ
と、言う事で今回は3部ある写真集の中から初作の写真集「俺たちの1975」を見ながら
僕の体験した1975という視点で記事を進めたいと思います
年と言えば昭和38年生まれの僕は当時小学校の6年生という事で
世の中でこんな事が起こっているなんてまったく知らなかった
夕方5時には家に帰り楽しみにしてたテレビアニメや特撮ヒーロー物に熱中してた頃だ
呉の広の奥地の長浜という超田舎の普通の少年だった僕は夜8時には床に就かされていた
土曜日に限りドリフの「8時だョ!全員集合」を見させてもらう程度だった
そんな当時のある日の朝、僕が学校に行こうとランドセルを背負って家を出ると
家の下の道路の真っ黒いアスファルトに白い缶スプレーで「流星参上!」と書かれてある文字を見た
その時僕は「流星」ってのもピンとこなかった
後に知る事になるのだが「流星」ってのは当時呉の畑近郊を中心に結成された暴走族だった
そんな普通の少年だった僕は1976年に中学校に進学する
半ズボンだったパンツは長ズボンに代りアニメや特撮ヒーロー物も殆ど見る事がなくなった
陸上部に入部した僕は学校の帰りも遅くなれば7時頃になった
学習塾にも通い始め塾が終わると帰宅は9時半だった
思春期に入った僕は枕元に置いたラジオで深夜放送を聞き入るようになる
土曜日ともなれば10時からテレビで放送されていたウイークエンダーをこっそり見て
当時人気DJだった鶴光の深夜のラジオ番組オールナイトニッポンを朝まで聞いた
日曜日ともなれば友人達と自転車で広の商店街に繰り出した
まあ繰り出すと言っても広書房で文庫本を買い求める程度でしたがね
それでも小学生までは広に行くのも母親同伴だったから当時の僕には十分刺激があった
更にはバスで呉の街に出て呉シネマで公開される洋画を欠かさず観るようにもなった
学校の先輩にも所謂「不良」と言われた人達もいたが町でも不良らしき人を見かけた
街の不良で僕が印象に残っているのが彼等の車やバイクに貼られた「VAN」のステッカーだった
最初はVANの事もよく知らなかったが雑誌でファッションブランドである事を知った
思春期に入り少々色気づいた僕はファッションという事が気になり始めた
それまでは母が買ってきた服を着ていたが自分なりに好みが出てきたのだ
ファッション雑誌「ポパイ」や「ホットドック」を買っていろいろファッションを研究するようになる
の写真の男女が履いているシューズはおそらくVANのブレーバーかブラバスだと思うが
当時の僕には本物は買えなかったが似たようなバッタ物の靴を履くようになる
それより何より僕が心を奪われたのはVANのオックスフォードのボタンダウンシャツと
トップサイダーのスニーカーだった
ファッション誌を見てると学生服の下に着る規制のカッターシャツがダサいと思い始めたのだ
僕が念願のボタンダウンとトップサイダーを手に入れたのは中学2年になってからだった
とうぜん僕はボタンダウンを着てトップサイダーを履き学校に行くようになった
その頃はまだ自分が不良という認識も意識もまったくなかった
ちなみにこの後1978年にVANは倒産してしまうのだが・・・
ボタンダウンを着て学校に行くようになった僕は
人より違う恰好をする事で少し優越感や自己満足を感じるようになる
この時の気持ちが今でも僕の原点だと思う
そんなある日僕は先生にボタンダウンを着ている事を咎められる
要はボタンダウンを着てはいけないと言われたのだ
当時はボタンダウンを着てるだけで不良と言われた時代だった
ボタンダウンは僕に更なる悲劇をもたらす
当時中2だった僕は中3の不良な先輩に校舎の裏に呼び出される
「オイ!オマエ何生意気なシャツ着とるんな・・・!」
僕の意識しない所で僕は先生や先輩に目を付けられる事になったのだ
しかし思春期になり自我が芽生えた僕は先生や先輩の忠告を無視し反抗する
あの時先生や先輩の忠告を素直に聞き入れ規制のカッターシャツを着ていれば
その後の僕の人生は大きく違った物になっていたかも知れない
しかし僕は先生や先輩が言う事に従わなかった
かたくなに先生や先輩の忠告を無視した僕は先生には嫌われ先輩には目の仇にされるようになる
こうなると現代の中学生なら登校拒否になるんだろうが僕は逆に反骨芯に火が付いた
「皆が不良じゃ言うんじゃったら・・・」
そんな事を思い始めた僕の転落はあっという間だった
まあ僕にも充分不良の資質はあったんだろうが・・・ 笑!
秋には中ランとヨコスカ(ボンタン)を買って学校に着て行くようになる
更には理髪店でアイパーをかけ髪はポマードで固めたリーゼントになる
数人の同級生も僕に習って規定外の学生服を着るようになった
先輩には毎日呼び出され殴られもしたが僕は中ランもヨコスカもやめなかった
もちろん先輩の恫喝には怖さも感じてはいたが僕は反抗し続けた
ジェームスディーンさながらの理由なき反抗である 笑!
年生が卒業してからは もうやりたい放題になった
3年の時に広中から転校してきた街の不良にも感化された僕は猛スピードで加速した
他校の不良とも友達になり他校の不良女子とも遊ぶようになる
そりゃ自由奔放に行動するんだから楽しくない訳がない
後はもうドナドナですよ! 笑!
僕にとってはこんな「俺たちの1975」でしたが当時小中学生だった僕のイメージでは
当時の大人?の不良はこんな感じの人が多かったように思います
男はアイビーをちょっとだらしなく崩した感じの人が多かった
髪はポマードでキメタ感じじゃなくパーマでリーゼントにしてた
今考えたらオッサンみたいに見える 笑!
女は化粧品会社の美容部員さんを筆頭に「オネエサン」って感じの人が多かった
現代のティーンエイジの女の子は僕には凄く幼く感じますが
当時のハイティーンのオネエサンは大人の女の色気を感じる人が多かった
オネエサンは本当に良い匂いがしましたからね~ 笑!
これが僕等の時代になると特攻服や紫やピンクといった派手な竹の子族みたいな格好になった
そして80年代に入ると湘南爆走族みたいな超ヤンキーへと進化?した 笑!
この写真集に出てる人達も今では還暦前後になってらっしゃると思う
写真の女性たちも孫がいる年代になってるんじゃなかろうか?
人間は誰にでも思春期という青い時代がある
今回使用した写真は3部作初作の「俺たちの1975」の写真集からだが写真集の見出しには
「人間の死亡率は100% 生きてるうちに、若き日の思い出を見直せるのは幸せである」
と、書かれている
確かに昨今、この歳にもなれば毎年誰か同世代の知人が死んだという話を耳にする
過去を振り返っても過去は変える事は出来ないが自分が生きてきた生き様が”今”なのだ
決して人に自慢できる事でもないが思春期にヤンチャしたのも自分自身だ
だからと言ってヤンチャしてた人が皆人生の落伍者ではない
人生をツッパリ続けて出世したり幸せになってる人も山ほどいる
「人生は筋書きのないドラマ」であると言われる
更にはそのドラマの主人公を演じるのも脚本を書くのも自分自身だ
ドラマの序盤が波乱万丈だった作品はいくらでもある
逆に言えば波乱万丈だったという事は滅多に出来ない経験をしたとも言える
その経験を生かすのも人生だ
人生3毛作とも4毛作とも言われるが1975年にヤンチャしてた人達も
今では人生の終盤に差し掛かかろうとしてると思われる
VANの創設者である故、石津謙介氏は人間50を過ぎたら還元の時期だと言われてた
確かに当時と時代性は違うが経験して来た事を良かった事も悪かった事も
今からの若い人に伝え還元する事も大事な事なのかも知れない
別にこの歳にもなって見せかけだけのカッコつける必要もないし
逆に中身が伴わずカッコつけてる人はカッコ悪い
それは出世してるとか、金持ちになってるという事が条件じゃないし関係ない
僕はそう思いますね!
と、いう事で「俺たちの1975」はまた次回視点を変えてやります! ジャンジャン!!