終戦後に呉で警察官になった清田盛治さん
悪魔のキューピー事、大西政寛に射殺された二人のマル暴刑事の
殉職に伴い暴力団担当刑事になったのが1950年(昭和25年)だった
清田さんは強行犯の刑事になった1950年(昭和25年)1月から
3年間仕事を1日も休まず表彰された、その後も3年間休まなかった
捜査、逮捕、取り調べの連続で仕事を覚えた
清田さんが刑事に推薦されたのはまだ実務経験の乏しい23歳の時
二人の刑事の殉職の結果であり、尊い犠牲の欠員で補充されたので
清田さんは宿命的に両先輩の偉業を手本として職責を果たすよう努力した
呉署の刑事たちの間では、その後「亡き刑事に続け」が合言葉になっていた
清田さんはこの伝統を守り、その後、続発した暴力団組員の拳銃乱射事件や
凶悪犯罪に両刑事の弔い合戦であると心得、正攻法を主眼に必死の覚悟で対決した
この時ほど清田さんは暴力団に対する勇気と
警察の強力な組織を感じた事はなかった
当時の呉署の刑事は日夜の別なく実によく働いた
一致団結、その結果数多くの勇気の記録を残した
二人の刑事殉職から少し後、広島市の的屋・村上組と博徒・岡組の抗争があった
所謂、広島抗争、広島代理戦争とも言われる抗争の事である
その抗争で拳銃で人を殺した暴力団が、呉の大坪谷の民家に
隠れているという情報を聞き込んだ
呉署の事件ではないので広島東署の刑事が来るのを待って一緒に踏み込んだ
悪魔のキューピーの事件で殉職した刑事が手に拳銃を持っていたのを
見られたために反撃されたのを教訓にした
殺されてはいかん、拳銃を犯人に見せてはいかんと思い
拳銃を握った上に手袋をした
正直なところ、撃ってきたら逆に撃ち殺してやろうと思っていた
犯人は一人でコタツに入っていた
そのままゆっくり近づいて「拳銃を出せ」と言うと
コタツの中からブローニングを出した
拳銃を見ると弾が装てんされていた
銃を取り上げて「お前、よう撃たんかったの~」と言うと
「わしゃ~ 大西みたいに警官は撃たんわい」と言った
拳銃を持っている犯人を捕まえたのはそれが最初だった
始めて人を撃った時は、どんな暴力団員も手が震えるという
弾が入っていた拳銃を持つ相手に清田さんは怖さで体が震えていたそうだ
と、いう事だが村上組と岡組の抗争事件で最も有名な主要人物の一人に
悪魔のキューピーと同様に殺人鬼と恐れられた山上光治という岡組の組員がいる
ちなみに山上光治さんは、映画「仁義なき戦い」では
広島死闘編で、北大路欣也さんが山中正治という役で演じておられる
北広島市で生まれた山上さんは1944年(昭和19年)に呉海軍工廠に徴用工としてとられた
同年、広島市胡町の路上で、不良同士の喧嘩の仲裁をしたときに一方の不良と喧嘩になり
相手をナイフで刺し、その咎で呉鎮守府で軍法会議にかけられ懲役2年年の刑が確定した
出所後に村上組組長の次男である愚連隊の首領、村上正明さんとショバ代を廻り
モメて側頭部をピッケルで刺されるなど激しい暴行が加えられ瀕死の状態になる
その現場に居合わせた岡組の親分が村上らの暴行を止め
瀕死の状態に陥っていた山上さんを岡組が介抱した
怪我が完治すると山上さんは岡組の若衆となった
その後、窃盗の現場で警備員を拳銃で撃ち殺し無期懲役の服役をしていたが
45日間の断食をして栄養失調による重症状態に陥り
刑の執行が停止され広島赤十字病院に入院した
1946年(昭和21年)広島市における第一次広島抗争が勃発した
それ以降山上さんは広島市における第一次広島抗争の中心人物となり
村上組幹部・菅重雄、岡組組員で村上組預かりの山口芳徳、吉川輝男の両人を射殺
1948年(昭和23年)広島市猿猴橋町の日劇で映画観賞中に
広島東警察署の捜査員2人に発見され逃走し民家に逃げ込む
警察に包囲された状況で山上さんは
「おーい、だれか(岡組)道場のもん、おるかあ、おったら聞いてくれー
親分を頼むぞー!みんなもありがとなー」
と、絶叫し、叫び終わると逃げ込んだ酒店の五右衛門風呂の風呂釜の中で
右こめかみを自身の拳銃であるブローニング38口径オートマチックで撃って自決した
こんな殺人鬼たちを相手にしてた清田刑事や
当時の広島県警は大変だったでしょうね~
ジャンジャン!!
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