先日、1979年12月に発売になった「暴走列島’80」という写真集を取り上げた
その写真集には当時の江田島や大柿のヤンチャたちで結成された
「紫蝶(パピヨン)」という暴走族の取材記事、写真が掲載されていた
あの時代の日本は暴走族の盛期だったが、それは呉も例外ではなかった
呉市内だけでも地域ごとに大小併せ10団体くらいの名前を聞いていた
しかし僕のイメージでは、どのチームも長続きはしていない
東京周辺の全国的にも名の知れたチームは総長が代替わりをしながら
長年続いた呉のチームは長くて2~3年、中には数カ月単位で
自然消滅したり名前が変わるチームも少なくなかった
僕は当時、行動範囲が広く色んな地域に出入りして人脈を広げた
基本的に「自分が楽しいと思う所に行く」という理念があったので
一所に長く居座る事もなかったし本格的なチームに属した事はほぼない
「今週の土曜日は○○のチームが走るらしい」と聞けば
面白そうと思えばオブザーバーとして馳せ参じたし
そのチームのツレや先輩に誘われて参加する事もあった
暴走列島’80が発売になった頃、呉でも毎週のように土曜日の夜に
暴走族が本通りを中心に暴れまわってた
こちらの新聞の切り抜きは当時の中国新聞に記載された物
新聞には暴走族「羅沙紋(らしゃもん)」と記載されてるが
正確には「らしょうもん」と読むのが正しい(笑)
先日約40年ぶりに会った高校のクラスメイトとこの時の話になった
新聞記事から、この暴走は1980年12月3日だった事がわかるが
調べてみると当日は何と土曜日ではなくなぜか水曜日になっている
僕はこの時、K君のローレルの助手席に乗っていたのだが
僕が思春期に経験した中で最も大規模な暴走だった
4輪だけでも30台くらい、2輪も相当数居たし
同乗者を含めると100人を超える人だった
僕は前途したように羅沙紋にも正式に入った覚えはないのだ
が先輩に誘われ参加したのだ
この時は海岸通りの光町の埋め立てに集合した
そこから呉の本通りを走って、その後広島に向かい西バイを通り
最終的には山口県岩国市の山賊に行った
新聞の記事にあるように信号は全部無視で2輪が
青信号側両サイドの車両を塞ぎ停止させて4輪をスルーさせる
確か坂の有料道路も無銭でブッチギッたんじゃなかったけ?
山賊で誰かが地元山口の奴らとモメてたが何せ人数が多いので
誰が、どこで、何やってるのかもよくわからなかった
僕は当時まだ16歳で年少のペーペーでしたから新聞に出た
幹部クラスの方達が揉め事も仕切ったんじゃないかな?
僕はこの時の暴走で警察に呼ばれた記憶がない
もしかしたら呼ばれたのかも知れないが僕は運転してないし
年少の雑魚という事で相手にされなかったのかも知れない
今思えば若気の至りで社会的には悪い事だという事は重々わかるが
これも時代性だったと思うし、その後の人生においてもこの頃以上に
鼓動の高鳴りを感じた事はありませんね (笑)
ジャンジャン!!
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