県道279号長浜線を生活道路とされている皆様、ご迷惑をおかけしております
7月30日から鉄板の防御フェンス設置作業に取り掛かるとの
報告を受けていたのですがなぜか工事が遅れてるようです
遅くとも8月24日には設置が完了するという事も聞いておりましたが
この様子だと微妙な感じもしますが、どうなるんでしょうか?
先日8月15日に行政が今後の復旧復興の調査に入るという事で同行しました
僕としては被災以来初めて我が家の敷地に足を踏み入れましたが
そこから見える景色は当然の事ながら僕が知る景色とはまったくの別物でした
僕が16歳だった1980年(昭和55年)に僕の離れの部屋として建てた
プレハブ部屋は今も残っていますが、ご覧のように基礎の土地部分が崩れ
底面が1/3ほど露出してる状態になっています
出入り口前の道も崩壊しており宙ぶらりんになっており中に入る事も出来ません
隣接する木造家屋は祖父母が生前住んでいた家ですが
こちらも底面が少し露出してる状態になっています
このまま放置しておくのは危険だし復旧復興作業の邪魔にもなります
ここには重機も上がれないので今後は
この2棟をどうやって解体するのかが問題です
祖父母の家は、どうやら太平洋戦争開戦前年の
1940年(昭和15年)に建てられたそうです
僕は知らなかったんですが行政の方が調べたらしく教えて下さいました
ちなみに僕の家は僕が4歳だった1967年(昭和42年)に建てています
築51年で崩壊してしまったという事ですね
昔、母に聞いた話では、祖父母がここに家を建てる前は
入江神社の近くのアパートに住んでいたそうです
大日本帝国呉海軍の広工廠に勤務していた祖父が職場に近い事や
三角浜まで見渡せる景色を気に入って黄幡山の対面にある
ここに家を建てたんだそうです
今ではここは県の危険地区に指定されており新たに家を建てる事は出来ませんが
昔はそんな法令もなかったんでしょうね~
祖父母宅は平屋の木造家屋ですが僕の記憶では部屋は4部屋でした
母は7人兄妹なので、この家に9人が住んでいた計算になります
家族が川の字になって寝ていたんでしょうね~
台所は土間だし、僕が幼かった頃に和服に割烹着を着た祖母が
薪をくべて窯でご飯を炊いていた光景を今でもよく覚えています
母屋の裏には井戸があり井戸水を生活用水として使っていました
もちろん風呂も薪を焼いて沸かす五右衛門風呂でした
まさに現在放映中のテレビドラマ「この世界の片隅に」の
劇中で描かれてる、すずさんの生活そのものです
県道に面した表側には縁側があり、生前の祖父はいつも縁側に腰掛け
何を言うでもなく静かに遠くを眺めていましたね~
孫の僕が遊びに行くと戦国時代や江戸時代、幕末の
歴史の雑学の話をよく聞かせてくれました
当時の僕は、そういった歴史にまったく興味もなかったのですが
今思えば僕が歴史好きになったのは祖父の影響もあったのかも知れません
しかし、なぜか祖父は太平洋戦争を始め昭和の戦争の話はしませんでした
志那事変で長男が戦死した悲しみもあったのだと思うし
太平洋戦争を忘れたいという思いがあったのかも知れません
そんな祖父母や伯父たちが眠る法面中腹にある先祖の墓は奇跡的に災害を免れました
しかし墓まで辿り着く道が崩壊してるので墓まで辿り着く事が出来ません
と、いう事で、ここから手を合わせて来ました
祖父母の家は現在は物置になっていました
お盆に使う灯篭も準備されていましたが今年の盆は
役目を果たす事もなく終わってしまいました
法面が全て崩壊し、道がなくなってるという事で我が家に辿り着くには
裏を回って獣道を行くしか方法がありません
僕が子供の頃は裏山で畑をしている方も多く山道も整備されてましたが
今では畑仕事をする人もなく、山道は竹や草木が繁り獣道のようになっています
我が家に辿り着くのは、まるでサバイバルのような感じでした
ちなみに、こちらの裏道や我が家の敷地は現在とても危険です
関係者以外の方は立ち入らないようにお願い申し上げます
写真右上に見えるのが前出の先祖の墓です
今の予定では来年の梅雨時期までには復旧復興を終えたいという事です
今後、どんな展開になるのか僕にも詳細はわかりませんが
日に日に悲しいとか寂しいって感情が強くなってきています
皆様にはご迷惑をおかけしておりますが、僕としては4歳から24歳までの20年間の
祖父母や家族、友人との思い出がある家が全て無くなってしまうのですから・・・
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