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以前の「清水ヶ丘学園」という記事で1934年(昭和9年)生まれの
ウチの母が当校の一期生だったと書いた
現代での通例で言うと母は1953年(昭和28年)3月に同校を卒業した事になる
清水ヶ丘学園を卒業した母は、その後「キミ洋裁学院」に入学した
母が洋裁学校に行ってたのは子供の頃に母から聞いて知っていたが
キミ洋裁学院という校名は母の古いアルバムを見つけて初めて知った
まあ、洋裁学院という事から洋裁師になる為の勉強をしたという事はわかるが
キミ洋裁学院が、どこに在ったのかも、学院の沿革も何もわからない
SNSでググってみても何一つ情報がヒットしない
呉の皆さんで、ご存じの方がいらっしゃったら是非情報をいただきたい
僕が思春期だった昭和50年代には中通り4丁目辺りに
「ドレメ洋裁学校?」ってのがあったような記憶はあるのだが・・・
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僕が子供時代だった1960年代中頃から1970年代の前半頃まで
僕は母の奏でるミシンの音が子守歌替わりだった
当時はまだ安価な既製品の時代じゃなく婦人服は仕立ての需要が高かった
家にはよく、注文、仮縫い、納品受け取りのお客さんが来ていたし
逆にお客さんの家に出向く事もあった
お客さんが家に来ると僕は部屋から追い出され
お客さんの家に出向く時は時々連れて行かれたりもした
当時我が家は夜8時になると子供は寝かし就かされた
海上自衛官で護衛艦に乗っていた父は家に居る事が少なかった
僕たち子どもを寝かし就けると母は夜なべをして洋裁に精を出した
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キミ洋裁学院を卒業した母は今でも中通りにある
「ザイマ洋品店」の洋裁の仕事を請け負っていたらしい
母の仕事ぶりを高く評価してくれていて母も自分の腕に自信を持っていた
僕が生まれて4歳まで住んでいた清水通りのアパートに居た頃まで
場所も近かった事もありザイマ洋品店の仕事が主だったらしい
その後、1967年(昭和42年)に母の里である長浜に引っ越してから
地元の利を活かし、個人相手の仕立てが主になっていったみたいだ
まあ、お客さんさえあれば個人相手にした方が収入も見込めるでしょうからね~
しかし1970年代も半ばになると時代は変わり安価な既製品が多く出回るようになる
母が完全に洋裁に見切りをつけたのは確か昭和の終わり頃だったような気がする
僕は1987年(昭和62年)に結婚して長浜を出たが
その前後頃に母は外に務めに出るようになった
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この写真は昭和30年代の物だが写真の女性は母より4つ上の姉だ
当時の叔母さんは20代半ばだと思うが彼女が着ている
ブラウスジャケットやスカートも母が仕立てた物だ
昨今巷ではユニクロや、しまむらなどのように
安価な洋服屋さんが沢山あり利用する人も多い
それはそれで悪い事ではないが個人的には
時代は進んだのに人々のお洒落に対する概念は
昭和30年代や40年代と比べて希薄になったような感がある
もちろん、それらは価値観の違いもあるし人それぞれだが
当時の女性の方がお洒落に対する概念は高かったように思います
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洋裁師だった母は、もちろん自分で着る服は全て自分で仕立ててた
昔から日本の教育では「物を大事にしましょう」と説く
しかし現代では洋服に限らず安価な商品があまりにも多く出回り
それらは粗末に扱われ、使い捨てするという風潮が高まった
世の中エコという言葉が溢れ返ってるのにエコに逆行してる現実
乗り物だって旧車というのは趣味性も高いと言えるが日本の場合物を大切にして
古い乗り物に乗ってる人に通常より高い税金を課すという制度もある
そりゃー誰もが車を新車に買い換えないと経済効果が上がらないって理屈は分かる
しかし、昨今の乗り物は、どのメーカーも個性がなく似たり寄ったりで魅力に乏しい
長く大事に乗り続ける価値もないし魅力もないからスクラップ工場に行くと
中途半端な年式のスクラップ車が山のように積んである
個人的には何がエコなのか、わからなくなる
それは、洋服も然りだと思いますけどね ジャンジャン!!
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