大久保喜市
1854年生まれ 62歳 東京都出身
1975年 ロックバンド、クールスのベーシストとしてデビュー
1981年 クールス脱退後渡米
1990年 クールス再結成企画制作 アルバム、オリジナル・クールス90’sをプロデュース
2002年 フィクションという設定ではあるが、自身のクールス時代の当事者としての
貴重な体験を綴った小説ストレンジ・ブルーを執筆・発行
2017年 映像制作を手掛けながら、サポートメンバーとしてクールスに参加
ストレンジ・ブルーに新たなエピソードを加えたストレンジ・ブルー プラスを復刊
現在、キャロルとクールスにスポットを当てた「CAROOLS 70’」という
シリーズを連載するなど僕は往年の彼らのファンですが
喜市さんのストレンジ・ブルーは記事を書く上で重要な資料となっている
そんなストレンジ・ブルーが新原稿が追加され復刊された
2002年の初版発行の時は、そこまで話題にもならなかったストレンジ・ブルーだが
昨今ではヤフオクに出てもプレミア価格が付くなどプレミア価値になっていた
と、いう事で往年のクールスファンとしてストレンジ・ブルー プラスを買ってみた
ドント・ゲット・ホット・クールス / クールス 1975
作詞・たちひろし 作曲・ジョニー大倉 編曲・近田春夫
表紙の写真も新たになった「ストレンジ・ブルー プラス」では
クールス時代のエピソードが加えられているのかと楽しみに読んだんですが
プラスされているエピソードは主にはクールス脱退後のアメリカでの生活秘話だった
個人的には喜市さんのアメリカ時代には差ほど興味もないが(笑)
喜市さんの中学生時代からクールスに加入するまでのエピソードは興味深かった
中学生時代にロックとバイクに目覚め、高校生になった喜市さんは
まだ免許を取る前にバイトに精を出しホンダCB250を買ったそうだ
一度、無免許で白バイに捕まったそうで免許取得と同時に免停になったそうだ
実は僕も中学3年生の春に先輩に借りたスズキ マメタン50で黒タンポリに捕まった経緯がある
この事件がこの後数年間の間、常連になる家庭裁判所の初出廷だった 笑!
僕も高校生になり誕生日が来るまで我慢できずにCB400FOURをバイトして買った
で、16歳の誕生日が来て自動二輪免許を取ったが、無免許違反から1年が経過していたから
免停も減点もなく満点で正式にバイクデビュー出来たんですよね
その後喜市さんは二輪免許を取ったのだが、バイクで三度も手術を受ける大事故を起こし
高校を留年したそうだが事故の後遺症を口実に高校の校内に専用駐車場をもらって
普通乗用車免許を取得して愛車、日産ブルーバード510での通学が許されていたそうだ
車での通学が許可されるなんて、いったいどんな高校なんだ?! 笑!
高校を卒業した喜市さんは日大の芸術学部に入学したそうだ
クールスのメンバーってけっこう大学に行ってる人が多いんですよね~
その頃から原宿のレオンに行くようになりクールスのメンバーと
顔見知りになり親しくなっていったそうだ
キャロルが戦列にデビューを飾り、続いてダウンタウンブギウギバンドもデビューし
映画「アメリカン・グラフティー」や「イージーライダー」が公開され
テレビドラマ「傷だらけの天使」が人気だった時代だ
そんな時代のレオンの前には黒いバイクが並んでいてレオンの店内からはガラス越しに
革ジャンを着たクールスのメンバーがバイクに跨る姿がよく見られたそうだ
その光景は50年代のアメリカ映画「ザ・ワイルド・ワン」に出て来る
マーロン・ブランドが率いる暴走族みたいで映画的に見えたそうだ
喜市さんがクールスに誘われてバンドに加わったのはちょっとした偶然からだったそうだ
野音で行われたキャロルの解散コンサートが終わって間もない頃
バンドを始めたクールスがレオンに集まってリハーサルまでの時間をつぶしていた
たまたまレオンにいた喜市さんはジェームスさんに誘われ
一緒にスタジオに行ってベースを弾いた
喜市さんは高校時代にバンドを組んでいてベースを担当していたのだが
ちょうどクールスのベースのポジションが空いていて誰かを探していたタイミングだったのだ
それがきっかけで喜市さんはクールスに入り数日後にはベースを持ってバイクに乗っていた
喜市さんがクールスに入って買ったバイクがホンダCB750(たぶんK2)で
後にカワサキ650W2に乗り換えたと記載されている
あの時、あの場所(レオン)になぜいたかは説明のしようがないそうだ
そう言う事がハプニングしていたのがあの時代の原宿で
そこにレオンという空間があったという事らしい
そう言う空気感こそが僕が、あの時代の原宿に憧れる一つの理由なのだ
その頃のクールスは何物でもないただのバイクチームだったが
何かをやってやろうという野心を胸にギラつかせていたそうだ
そしてクールスはロックンロールとバイクを合わせたバンドで社会に打って出て
自分たちの居場所や存在を知らしめ確立したという事だ
この後の事は「CAROOLS70’ 黒のロックンロール」をお読みください
日本初のストリートカルチャーから生まれた本物の不良集団だったクールスは
キャロルに匹敵する知名度を持っているはずなのに意外とその文献資料は少なかった
昨今ではメンバーの著書やインタビュー記事も目にするようになったが僕が知る限り
雑誌の特集ページは別としてクールス関連の本が出版されたのは舘さんの時代には皆無であり
1978年に発売された写真集形式の「クールス・ロカビリー・クラブ」だけだと思う
その時僕は中学3年生だったが、その本にはメンバー各自の出会いが写真付きで語られている
↑の写真が喜市さんの項だがメンバーと喜市さんの出会いはこう記されている
喜市と出会った時、アイツは女づれだった
ジェームスのロックンロールでノリまくっていたらナオンが入ってきた
一海「ねェ、俺たちと遊ばない?」
ナオン「ねェ、キイチ、助けてーェ」
よく見ると、うしろにダサイ男がいた、ナオンは喜市の彼女だった
喜市「やめて下さい、この人は僕の彼女です」
と、言ったかどうかはわからないが、とにかく一同興奮しまくっていた
それから、その女にも喜市はすぐにフラれた、ミジメ! 爆!
と、ストレンジ・ブルーとの内容には大きな誤差があるのだが・・・ 笑!
ドラッグとセックスに溺れ自分を見失ってクールスを脱退した喜市さんは
メンバーとの関係があやふやなまま何も言わず日本を去った事に消化不良を感じていた
1990年(平成2年)アメリカに移住して自分を取り戻した喜市さんは
もう一度クールスと向き合って関係を作り直したいと思っていた
当時活動停止中だったクールスのメンバー、一人一人と連絡を取り合い
再結成を打診すると、皆快く承諾してくれたそうだ
そして大久保喜市プロデュースで制作されたのが
「オリジナル クールス 90’」というアルバムだった
ちなみにこれは僕が昔聞いた話で確証はないが、この時喜市さんは
舘さん、ピッピさんにも参加を呼び掛けたが拒否されたと聞いた事がある
そして2015年のクールス40周年以降はクールスオリジナルメンバーの一人として
時々サポートメンバーのベーシストとしてライブにも参加されている
と、いう事で、ご興味がある人は是非
「ストレンジ・ブルー プラス」読んでみてくださいね! ジャンジャン!!