昭和38年(1963年)10月生まれの僕は
今年の誕生日を迎えると54歳となる
振り返ってみると、あっという間の54年でしたが
僕はこれまでの人生で4回住む家を替えている
現在の住居は平成2年(1990年)から住んでいるので
約27年も住んでいる事になる
その前は結婚した翌年の昭和63年(1988年)から
長男と3人で約2年間過ごした呉市本町の新築だったアパート
その前は4歳だった昭和42年(1967年)から結婚した
昭和62年(1987年)まで約20年住んだ長浜の実家だった
その前はと言うと、僕が生まれた時点から長浜に引っ越す前の
約4年間住んだ呉市清水通り(現、清水)の風呂もないアパートだったのだが
まだ当時幼かった僕は、その頃の記憶は微かにしか覚えていない
この写真は東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)5月5日の
端午の節句で僕の生家の前で撮られた0歳児の僕だ
僕は生家での約4年間の生活の中で記憶にあるのは今のプレインズがある四つ道路から
亀山神社方向に坂を上がる辺りにあった路面の鮮魚店
あの頃の四つ道路周辺はけっこう栄えていて活気があったような印象がある
今でも営業してる和庄登町にある「そてつ湯」という銭湯も覚えている
家に風呂がなかったから銭湯に行ってたんだろう
アパートは萬年寺(まんねんじ)の近くだった事もあり
夕陽に染まる空と寺が見える景色を何となく覚えている
四つ道路の停留所から路面電車に乗って終点だった長浜で降り
祖父母の家に行っていた記憶も微かに覚えている
白黒テレビでウルトラQを観た記憶もある 笑!
とは言え、物心つく前から4歳までの事だから本当に微かな記憶という程度で
家の正確な場所が何処だったのかも、家の間取りも覚えていない
それから約半世紀の時が流れたが僕はその場所に一度も行った事がなかった
と、長い前置きになったが音戸ロッチで、つつじ見物を終えた僕は母を送る帰りの車中で
「ワシが生まれた清水通りの家って場所覚えとる?」と、尋ねてみた
こう聞くと母は「何の事な?」と答えた
OH MY GOD! 自分が結婚して初めて住んだ新居の事も忘れてるのか? 笑!
で、僕は萬年寺を覚えていたので、取り敢えず萬年寺に向かって車を走らせた
萬年寺が見えてくると母もだんだん昔の記憶を思い出してきたようだ
「萬年寺の裏じゃ・・・」と、言うのでその方向を目指してみた
そして坂を下り始めた時に母が「ここじゃ!」と言った
そこから見える景色は約半世紀前に見た景色だった
ただこの時見えた景色と半世紀前との違いと言えば
半世紀前の記憶は色のないモノクロだ
車を止めた道から少し石階段を降りた所に僕の生家はあった
あの頃の外観とは少し変化はしているようだが
半世紀以上も前の木造住宅が今でもその姿で残っていた事に僕は驚いた
半世紀前の当時ですら、そんなに新しい建物でもなかったような記憶がありましたからね
53年前に産湯に浸かり、端午の節句に歩行器に乗って鯉のぼりや
武者人形と共に記念撮影をした場所に53歳になった僕が約半世紀の時を経て立つ
何だか感慨深いものがありましたね・・・
木枠の障子柄玄関扉はデザインも変わり、土の白壁はトタン張りになっており
今現在は人は住んでないようで廃墟と化してますが間違いなく母屋は当時の建物です
生憎鍵がかかっていて中を見る事は出来ませんでしたが建物の2階部分は床が抜け
建物自体が傾き、いつ崩れ落ちてもおかしくない状態だった
母に大家さんは誰かと聞くと覚えてないという事だった 笑!
実際のこの場に立つと、母も当時の事をいろいろ思い出したみたいだ
歩けるようになった僕は、この家の横の路地を伝って裏に行き
近所の子供たちが集まっていた所に行っては
仲間に入れて欲しそうに立っていたそうだ
人見知りで、謙虚な僕の性格をよく物語る逸話だ 笑!
母は近所の人たちの事もいろいろ思い出したみたいだった・・・
やはり僕は思うんですが人の人生において大事な事は「今」であり
今が繋がる「未来」だとも思うんですが、過去を振り返り懐かしみ
記憶を呼び起こす事は脳が活性してボケ防止にもなるんじゃなかろうか
記憶を呼び起こし思い出話を語る母の目が少し潤んでたような気がしましたね・・・
ジャンジャン!!