1987年(昭和62年) うさぎの餅つき
さて、今日の呉地方は台風の影響で暴風雨の様相で店は開店休業が予想されるんですが(笑)
今週も始まりました火曜日恒例の年賀切手シリーズです
今回は1987年(昭和62年)卯年を振り返ってみたいと思います
1986年、ついにバブル時代が幕を開け日本国民の生活にも徐々に変化が起こり始めます
バブル景気に恩恵を受けた業種の会社は軒並み事業拡大を図りそれに伴い人手を確保するために
各会社は労働条件や賃金給与の高待遇を図り就活する学生は完全に売り手市場へとなります
当時新入社員の新人研修を海外で行うなんて話もよく聞きましたね~
そしてバブル景気に伴い完全週休二日制を敷く会社も急増しました
1989年には銀行も土曜日の窓口業務を撤廃し1992年には国家公務員の完全週休二日制も実施された
それに伴い公立学校もそれまでの土曜日半ドンが撤廃され完全週休二日制になりました
当時それは「ゆとり教育」と言われましたが現在の学校の実態を見れば「ゆとり教育」とは名ばかりで
バブル景気に踊らされた当時の大人たちの大勘違いだったと個人的には思うのですが・・・
と、言う事ですがここからは1987年に大ヒットしたテレサ・テンさんの
「時の流れに身をまかせ」を聴きながらご覧ください
時の流れに身をまかせ/テレサ・テン 1987
1987年7月17日、「石原裕次郎」という昭和の巨星が散りました
石原裕次郎さんと言えば1950~1970年代に活躍した誰もが知る昭和の名俳優です
青春映画のヒーローや刑事ドラマの渋い演技に憧れる人も沢山いました
1984年、肝臓癌が発覚し倦怠感・腰痛の末、原因不明の発熱に至る
1986年、高熱が続くため慶應義塾大学病院に入院、血圧降下剤の副作用による肝内胆管炎と診断
そして1987年、静養先のハワイから帰国直後に慶應義塾大学病院へ検査入院
5月に一旦退院したものの間もなくして再入院、しかし容態が悪化しついには幻覚症状を発する
そして7月17日金曜日午後4時26分肝細胞癌のため死去、享年52歳だった
享年52歳という事は今の僕の年齢ですが、いや~貫録が違い過ぎますな~ 笑!
僕は世代的にアイドル時代の石原裕次郎さんはあまり知りませんが僕の世代で言うと彼は
昭和40年代に大人気だった刑事ドラマ「太陽にほえろ」の七曲署のボスですね~
個人的には1977年発売のヒット曲「ブランデーグラス」が思い出深いですが
無類の酒豪だったそうな裕次郎さんの酒好きも死因の一つになったのかも知れませんね~
「生まれ変わったら一緒になろうね!」って迷言(笑)を残し破局した郷ひろみさんと
松田聖子さんだったが聖子さんに先を越された郷さんも1年遅れで結婚した
聖子さんの神田さんも意外だったが、郷さんのお相手だった二谷さんも個人的には意外だった
ま、理由はよくわかりませんが聖子さんも郷さんも長続きはしませんでしたがね~ 笑!
先日四半世紀ぶりにリーグ優勝を飾った広島カープですが1987年には
カープ初優勝の立役者の一人でもあり昭和50年代のカープ黄金期の主力打者だった
衣笠祥雄さんが連続試合出場2131の世界新記録を樹立しました
この記録により衣さんは野球界では”世界のホームラン王”王さんに次ぐ
二人目の国民栄誉賞を受賞した
1986年前半の衣さんは成績不振に陥っておりカープファンからも罵声を浴びていた
連続試合出場は続いていたが打率は2割あるかないかの数字で本来ならファームで
調整を言い渡されても仕方がなかったが古葉竹識監督は衣さんを使い続けた
「そうまでして試合に出たいんか~!そがいに記録が大事か~ 辞めてくれ~・・・」
カープファンからも罵声を浴び当時愛車で市民球場入りする衣さんは
ファンに取り囲まれて車を傷付けられたと聞いた
しかし衣さんはその年のオールスター明けからそれまで不振が嘘のように打ちまくり
9月に月間MVPを獲得すると広島の4年ぶりのリーグ優勝に貢献した
そして1987年6月13日に連続試合出場の世界記録を樹立しシーズンオフに静かにバットを置いた
そんな国民栄誉賞まで受賞し、背番号「3」が永久欠番になった衣さんだが
引退後一度もカープのユニフォームを着ていない
そこにはカープの裏事情があるのだが個人的には残念でならない
富士スピードウェイでの観客を巻き込む事故のあと10年が経過した1987年に鈴鹿サーキットでの
F1日本グランプリが開催され、これに伴い日本では空前のF1ブームが起こります
フジテレビでの全戦中継も始まり売り出されたチケットはたちまち完売
業者に流れたチケットが多かったのか一般の人はかなり手に入れ難かったそうだ
業者に流れたチケットが多かったのか一般の人はかなり手に入れ難かったそうだ
結果としては鈴鹿サーキット史上最高の動員を記録、約11万人と言われています
ホンダがエンジン供給という形でF1に復帰し前年の1986年にはコンストラクターズタイトルを獲得
そして1987年ついにホンダエンジンでワールドチャンピオンが誕生
ネルソン・ピケはこれが3度目、最後のチャンピオンシップとなりました
そしてこの年、日本人初のF1フル参戦ドライバー「中島悟」が誕生します
中島悟は全日本では星野一義選手と並んで敵なしだった
そんな中島悟選手はホンダより抜擢されシーズンを戦ってきました
イギリスグランプリではホンダエンジン上位4台独占で中島選手は4位に入っていました
鈴鹿では予選では11位と揮いませんでしたが持ち味の粘り強い走りで6位入賞を果たしました
いや~ F1人気凄かったですね~ 眠い目を擦りながら食い入るように見てましたね~
今でも当時のF1中継のオープニング曲「T-SQUARE TRUTH」を聴くとテンションが上がります
ナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケ、アラン・プロスト、
アイルトン・セナ、ゲルハルト・ベルガー・・・
これらF1ブームもバブルの影響は少なからずあったでしょうな~
以前何度か記事にも登場しましたが限定10000台という設定で日産自動車から発売され
新車購入して即売すれば新車価格の倍で売れるという珍現象を起こした
日産Be-1が発売になったのも1987年の事だった
僕は新聞発表があった日に友人達4人で申し合わせ日産自動車に予約申し込みをした
そして手に入れたのがトマトレッドのBe-1だった
確か僕の記憶ではBe-1は次男が生まれた1990年(平成2年)まで乗ってたと思う
この車で結婚前の大明神様と大阪城を見に行ったりもしましたが
ルックスは可愛く目立っていたけど走りはイマイチだった
ま、ベース車が1000ccのマーチでしたから仕方ないんですけどね
家庭用固定式電話が無用の長物になった現代に置いては化石とも言えるかも知れませんが
コードレスフォンが画期的な電話として登場したのが1987年の事だった
電電公社がNTTになったのは1985年の事ですが1987年の電波法改正により
従来レンタルしかなかったコードレスフォンに市販モデルが登場した
通信可能範囲は100m程度だったが持ち運べる電話は画期的だった
1985年にショルダーフォンという3kgもある持ち運び電話が登場したが
1987年に初の「携帯電話」と言われる802型、803型が登場した
軽くなったとはいえこれらも1kgもあり基本料金も月額2万円以上と誰もが持てる代物ではなかった
当時バブリーな人が持ってるのを時々見ましたが一般サラリーマンはポケベルが普及してた
呼び出し音が鳴ったら会社に電話を入れるというシステムだった
僕が当時勤めてたミヤニシの当時の社長が使ってたのが今でも思い出深い 笑!
あれから約30年、携帯電話の進化って超凄いですな~
さて、1987年の映画界だが洋画に関してはトム・クルーズが俄然と注目されたのが1987年だった
1986年12月に公開されたポール・ニューマン主演の「ハスラー2」に準主役として登場
1983年公開のフランシス・コッポラ監督の「アウトサイダー」では端役だったトム・クルーズは
着々と実績を積み主役級に抜擢されるようになっていた
いや~ この「ハスラー2」の公開で日本中でビリヤードブームに火が付きましたね~
それまでのビリヤード場と言えば四つ玉や三つ玉、スリークッションなどの
キャロム競技をコアな常連が楽しむという風潮だったがハスラー2の影響でポケット競技が大流行
中でも9ボールが大人気でビリヤード場も次々とオープンし老舗のビリヤード場の
穴のないキャロムテーブルはポケットテーブルに置き換えられた
僕は今でも年に一度くらいは呉の老舗ビリヤード場「広一」に行きますが
現在ではポケットテーブルが圧倒的に少なくなってますね
そんなトム・クルーズの人気を不動の物にした作品が1987年公開の「トップガン」だった
主役のトム・クルーズ演じる若きパイロットのマーヴェリックが所属するサンディエゴの
海軍航空隊基地を舞台に世界最高のパイロットを養成するエリート学校と
別名を"トップガン"と呼ばれる訓練生たちの姿を描いた作品だった
迫力ある映像も凄かったし、主題歌であるケニー・ロギンスの
「Danger Zone」も疾走感があって良かった
トム・クルーズが劇中で着用したMA-1のフライトジャケットもカッコよかった!
さて、邦画の方は1984年に製作された「お葬式」という映画が注目され
映画監督「伊丹十三」の時代が来ました
そして1987年に公開された「マルサの女」が大ヒットしました
マルサの女は国税局査察部に勤める女性がラブホテル経営者を脱税で摘発するまでを描くという
作品でしたがエンターテイメント性もあり細部にまで拘った作風は面白かった
その後「○○の女」はシリーズ化され「マルサの女2」「ミンボーの女」「スーパーの女」
「マルタイの女」と次々ヒットし「伊丹映画」としてブランドになった
映画のヒットは各作品で主役を演じた伊丹監督の奥様である
宮本信子さんの演技力も欠かせなかったでしょうな~
もう一つ忘れてはいけないのが角川映画が生んだ女優・原田知世さんが主役を演じた
「私をスキーに連れてって」って作品でしょうな~
特筆すべき点として劇中で使われたユーミンの「恋人がサンタクロース」は
本映画と言えばこの曲の名前が真っ先に挙がるほど一般に浸透した
一般的にはこの作品のヒットもあって空前のスキーブームが起こったとされるが
監督の馬場康夫本人によれば実際のところはスキーブームの兆しを察知し
当て込んで題材にしたという事なんだそうだ
ま、当時をリアルに体験した僕はスキーブームに同作品が
一役も二役も買った事は間違いないと思う
当時沢山のスキー場もオープンしたしゲレンデは芋の子を洗うくらいの若者が溢れてた
考えてみれば1987年に始まったF1ブームも、ビリヤードブームも、スキーブームも
少なからずバブルの影響があったんだろうと思いますが如何でしょうかね? 笑!
さて、1987年の日本歌謡界ですがこの年ヒットしたのは瀬川瑛子さんの「命くれない」を筆頭に
中森明菜さんは「TANGO NOIR」「難破船」「Blonde」とまたしても3曲もランクイン
他には吉幾三さんの「雪国」、松田聖子さんの「Strawberry Time」、ジャニーズ系は
マッチの「愚か者」、光GENJIの「STAR LIGHE」、少年隊の「君だけに」がヒットしてます
しかし個人的にはテレサ・テンさんの「時の流れに身をまかせ」を押したい
若くしてお亡くなりになったテレサ・テンさんは非常に残念ですが
彼女の楽曲は老若男女問わず心に響く名曲だと思います
と、こんな1987年でしたが僕もブームに乗って(笑)F1中継を見て熱くもなったし
仲間とビリヤードに興じ、私をスキーに連れていってもあげました 笑!
勤めていたミヤニシでは先輩は誰もいなくなり同期3人が最古参になってたという事で
誰に文句を言われる事もなく悠々自適で青春を謳歌していた
そんなある日、ミヤニシで仕事していた夕方に大明神様から電話が入った
「何?急用?」
「あのぉ~・・・どうもデキちゃったみたいなんじゃけど・・・」 爆!
予期せぬ報告に僕はかなり動揺したが考えた挙句決断を下した
そして僕が24歳の誕生日を迎えた翌月の11月15日に僕達は永遠の愛を誓った!
この時大明神様のお腹には翌年4月に生まれる長男の命が宿っていた
郷ひろみファンの大明神様は残念ながら相手は郷ひろみとはならなかったが
僕達は郷ひろみさんと同じ年に約5ヶ月遅れで結婚したという事です 笑!
しかし郷さんたちは1998年に離婚してますが僕達は今年の11月で結婚29年を迎える
この時までの僕の人生で僕は一度も人生を考え計画した事などなかった
高校を選んだのも、高校を退学になったのも、美容学校に行ったのも、
ミヤニシに入社したのも深く物事を考え決めた事ではなかった
今思えば僕はラッキーだったと思うし人に恵まれたんだと思う
しかし大明神様の妊娠は計画した事ではなかったが結婚する事は生まれて初めて真剣に考えた
ー ワシもこれまで好き放題、やりたい放題やってきたけど年貢の納め時、潮時じゃ・・・
いつかは彼女と結婚したいと本気で思っていたから時期が少し早くなっただけだと腹を括った
その後僕達は次男、長女と3人の子供達に恵まれたがまだまだ人生は途中だ・・・
と、言う事で今日はこれまで!来週は1988年(昭和63年)辰年やります
乞うご期待! ジャンジャン!!
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