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年賀切手シリーズ (巳年) 1965 麦わらへび

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1965年(昭和40年) 麦わらへび
 
 
さて、今回で干支で言う所の半分の6回目となる年賀切手シリーズですが
今回は1965年(昭和40年)巳年を振り返ってみたいと思います
 
巳年生まれの人は意思が強く爆発的なエネルギーを秘めていますが瞬発的に使うことはないそうです
じっくりと時間をかけて継続しながら使い努力家で執念深く思い込みが激しいタイプでもあるそうです
 
感性が鋭く細やかな思考力を持ち自分の思いに拘りがあり
損をする事もありますが最終的には決めた事を成し遂げます
 
負けず嫌いで根性があり最後までやり通す力を持ち途中で挫折や失敗をしても逆転運が強く成功します
特に若いうちはプライドが高い傾向で束縛されるのを嫌がるために孤立しがちですが
年をとるごとにどんどん運は良くなっていくそうです
 
 
と、いう事ですがここからは昭和40年の大ヒット曲である
加山雄三さんの「君といつまでも」を聴きながらご覧ください!
 
 
 
 
君といつまでも/加山雄三 1965
 
 
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昭和の時代も30年代が終わり40年代に突入した1965年
 
戦後の日本の復興や高度成長期のシンボルともなった東京オリンピックが終わった翌年の1965年
庶民の生活レベルも急激に向上し時代の象徴として3C時代が到来した
 
日本で初めてカラー放送された東京オリンピックに合わせカラーテレビが普及し始め
家庭用クーラー、マイカーと共に2代目三種の神器と言われた
 
初代三種の神器と言えば1950年代後半の「白黒テレビ」「冷蔵庫」「洗濯機」だったが
1965年の二代目三種の神器「Color terevision カラーテレビ」「Cooler クーラー」「Car カー」
三つの頭文字「C」を取って3Cと言われた
 
しかし以て1963年生まれの僕が物心ついた時にはウチにはまだ3Cの何もなかった 笑!
 
僕の記憶で一番古い番組の記憶は1966年に放送された「ウルトラQ」だが
その頃の記憶ではテレビは全て白黒放送だったしウチではカラーテレビを購入する前に
白黒テレビに色付きのセルロイドのようなフィルター画面を取り付けた物を
カラー画面だと言って見せられてた記憶もある 笑!
 
僕の親父はバイク乗りで”車に乗らない人”だったから我が家がマイカーを手に入れたのは
僕が無免許でローレルを買った1980年まで待たなければならなかった 笑!
 
クーラーに至っては僕がミヤニシに就職した年に自分の給料で自分の部屋に付けたのが
最初だったから我が家にクーラーが付いたのは1982年の事だった
 
3C時代と言っても3Cが全て揃った家というのは
そこそこ経済的にも恵まれてた家庭だったという事だ
 
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1963年に日本初のテレビアニメ「鉄腕アトム」が放送開始されたが
1965年には日本初のカラー放送テレビアニメ「ジャングル大帝レオ」が放送開始された
 
ジャングル大帝レオは鉄腕アトム同様に手塚治虫作品であり皆さんもよく御存じだと思う
 
ジャングルの平和を守り続けた白いライオン・パンジャ
その遺児レオは人間社会に送られる寸前船から脱出し故郷のアフリカを目指す
 
父が遺したジャングルで動物と人間の共存を目指すレオは
度重なる苦難にも負けず多くの仲間を増やしていく
 
そんなレオの心に人間を理解するため人間の文明を学びたいという欲求が芽生えた・・・
 
 
と言う内容だが当時の手塚作品は子供に対して強烈な社会的メッセージを含んでいたと思う
当時幼かった僕にはそのメッセージはわからなかったが今思えば理解できますね
 
 
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スポーツ界に目をやると1965年には日本プロ野球史上初のドラフト会議が行われている
しかしドラフト指名されたのに拒否してる選手が思いの外多い事に驚く
 
当時はまだ職業野球であるプロ野球よりは不安定な職業であり
大学進学や企業への就職の方が人気が高かったんだろうか?
 
1965年の主なドラフト入団選手でプロで活躍したのは東京オリオンズの木樽正明投手
阪急ブレーブス長池徳二外野手、近鉄バッファローズ鈴木啓示投手
読売ジャイアンツ堀内恒夫投手、阪神タイガース藤田平内野手
広島東洋カープ水谷実男外野手と言ったところだ
 
 
1965年のスポーツ界はプロ野球よりプロレスの方が人気が高かった
 
1963年に暴力団関係者とのトラブルで殺傷された力道山の愛弟子である
ジャイアント馬場アントニオ猪木がプロレス人気を牽引した
 
何とプロレス中継が51・2%という驚異的な視聴率を上げている
僕も当時のプロレス人気は今でもハッキリ記憶していますね!
 
 
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1965年に誕生し、その後ロングセラーになった商品に大塚製薬の「オロナミンC」
森永製菓の「チョコボール」がある
 
「元気ハツラツ!」のキャッチコピーで人気を博した
大村崑さんのオロナミンCの琺瑯看板は今では高値で取引されている
 
「うれしいとねぇ、めがねが落ちるんですよ!」ってセリフも懐かしいし
1976年からの「オロナミンCは小さな巨人です!」ってフレーズも懐かしい!
 
 
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芸能に目をやると洋画は前年の1964年に公開された「007ゴールドフィンガー」
「マイ・フェア・レディー」が年を跨いで興行収入を上げている
 
邦画に目をやると当時は任侠映画の全盛期で1965年だけに限っても
高倉健さんの「網走番外地」シリーズが3作も公開されている
 
その中でも一番興行収入が高かったのが↑の「網走番外地 北海編」
 
1970年代に人気を博す「仁義なき戦い」等の実録やくざシリーズ「ヤクザ映画」と言われるが
1960年代のそれは「任侠映画」と言われていた
 
同じヤクザを描いた映画も両者ではメッセージ性が大きく異なる
 
任侠映画は義理人情や仁義ってのが強く感じられるがヤクザ映画は
仁義なき・・・に代表されるようにヤクザ社会の無法状態が色濃い
 
任侠映画の第一人者である健さんんも、ヤクザ映画の第一人者である文太さんも亡くなったが
昨今のヤクザ映画は個人的にはリアリティーに欠けると思うんですよね~ 笑!
 
 
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歌謡界に目をやると1965年のヒット曲は都はるみさんの「涙の連絡船」
マヒナ・スターズ「涙くんさよなら」、北島三郎さんの「兄弟仁義」などがヒットしている
 
しかし個人的には1965年のオリコン第1位にも輝いている
若大将と異名を取った加山雄三さんの「君といつまでも」を押したい
 
1965年と言えば日本ではエレキブームが訪れていたが
加山さんは日本のエレキの第一人者と言っても過言じゃない
 
「君といつまでも」は翌年の1966年の第8回日本レコード大賞の特別賞にも輝いているし
加山さん主演の映画の「エレキの若大将」「アルプスの若大将」の主題歌にもなっている
 
 
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と、言うのが1965年(昭和40年)だがこの年僕は2歳になる
古いアルバムには浴衣を着た幼い僕の姿がある
 
アルバムには昭和40年盆と記されている
 
盆に浴衣を子供に着せるなんて当時はまだ
日本文化や伝統行事が色濃かった時代だったんだろう
 
この頃僕はまだ長浜に引っ越す前で呉の清水通りに住んでいた
あまり濃い記憶は残ってないが何となく当時の家の記憶はありますね・・・
 
と、いう事で今日はこれまで!次回は1966年(昭和41年)午年やります
乞うご期待! ジャンジャン!!

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