季節柄、春の選抜高校野球が始まりプロ野球も開幕した
今年も球春到来という事だ
僕は8年前の「あの日」以来高校野球はテレビ放送すら見ていない
昨今全国的にブームになった感がある我が広島県が誇る広島東洋カープにおいても
昔のように熱心に応援するような事もない
野球というスポーツは僕にとって素晴らしい経験を与えてくれた事も確かだが
華やかな世界の裏にある大人のエゴが渦巻く非道で残酷な世界である事も教えてくれた
昨今球界は薬物問題や賭博問題に揺れている
これから球界はどうなって行くんだろうか?
僕の私見ではここは原点に立ち戻り少年野球から始まる選手達の野球人生においての
チームにおける環境や指導者の資質から考え直す事が大事じゃないのかと思う
やはり人を育てるという事は子供達に関わる大人の「質」が問われると思う
まあそれは野球界に限らず何の世界でもそうだとは思うのだが・・・
今年の誕生日を迎えると長男28歳、次男26歳になるウチの息子達は
それぞれが小学校3年生、1年生の時に硬式野球を始めた
今から19年前の1997年(平成9年)春の事でその時僕は33歳だった
まだ娘はこの世に存在してなくPRAINSをオープンして約9年が経った頃だった
当時僕はバイクにゴルフに釣り、スキー、マリンスポーツ、麻雀、夜の繁華街・・・
今の趣味に輪をかけたほど多彩な趣味をとっかえひっかえ楽しんでいた
それから遡る事2年前、長男が小学校1年生の時に野球がやりたいと言って来た時僕は駄目出しをした
理由の一つは次男がまだ保育園児だったから親がチームに束縛される事は無理だという事
しかし最大の理由は子供が野球チームに入る事により
自分の遊びに時間的にも経済的にも支障をきたすと思ったからだ
歳だけは取っていたが当時の僕はまだ父親としての自覚に欠けていた
それから2年後、小学校に入学した次男を伴い長男が再び野球がしたいと言ってきた
ちょうどその頃僕は少々遊びにマンネリを感じ飽き始めていた事もあり
二つの約束をする事で彼らに野球チームに入る事を承諾した
一つは始めた事は途中で辞めず最後まで続ける事
もう一つは、どうせやるなら本格的な硬式野球をする事
まだ紅葉のように小さな手だった彼等と僕は指切りをした
その時僕は全ての趣味を封印して息子たちと野球をする決意をした
彼等が最初に入団したのは呉東というリトルリーグだった
僕には本格的な野球経験がなかったが人手不足という事もあり僕は父兄コーチに就任した
しかし僕はチームに次々に起こる現実に唖然とする
硬式野球チームだからレベルが高いと思っていたらやってる事はナーナーで遊びみたいなもんだ
指導者と言っても素人に毛が生えたレベルで技術的指導にも大いに疑問を感じた
挙げ句の果てには指導者のエゴ丸出しで子供の母親と親密になる指導者もいた
とてもじゃないがスポーツを通して躾けしたり心身を鍛えたりするような環境ではなかった
これらは当時の話しだから今の呉東がどんなチームになっているのかは知らないが
僕は当時一度入ったチームだから最後まで続けたいと本気で思っていた
だから僕はコーチとして、親としてチームの環境改善に努めた
技術的な事に関しては信用できる指導者の方と知り合い野球塾を発足した
野球塾を始めて息子達の技術はみるみる間に上達した
ここで僕は指導者の重要性を身を持って知る事になった
そんな環境のチームだったから2年もすると選手不足になり試合にも出れなくなった
チーム存続の危機にも陥り僕達は呉東に限界を感じチームを去った
その後縁あって僕達はヤングリーグという中学生主体の
硬式野球チームである呉ファイターズに入団する事になる
長男は小学校5年生、次男は3年生の時だった・・・
と、言う事だがこれ以上経緯を話していたらキリがない 笑!
ともあれ息子達は週末は呉ファイターズというチームで中学生と一緒に練習し
普段は家の屋上に張ったネットや二河の屋内練習場で個人練習に励んだ
長男はサウスポーという事もあり野手も兼任しながらピッチャーをやっていた
長男はどちらかというと不器用だったが彼はコツコツ続ける事が出来るという才能を持っていた
野球塾の先生に言われた事を飽きもせずコツコツ練習して一つづつ身に付けていった
その性格は野球によって育まれたと言っても過言じゃないし今でも変わらない彼の長所だ
しかし彼は真面目すぎる故にスローイングイップスになった時期がある
当時の呉ファイターズの監督や僕にプレッシャーを感じてたんだと思う
それほど僕は息子達に厳しく接していましたからね
でも今思えば僕も当時厳しく言い過ぎたと反省する部分がある
おかげで長男は中学3年の時に腰の分離症を患い
広陵高校入学後に分離症は椎間板ヘルニアになった
まあそれだけ僕も一生懸命だったとも言えるのだが・・・
次男は最初は内野手志望だった
しかし彼は身体能力も高く器用でセンスもありピッチャーとして頭角を現すようになる
本格的にピッチャーをやるようになったのは中学になってからだったが
中学の頃にはゆうに球速も130kmを超えていた
縦に割れるカーブも横に滑るスライダーも中学生レベルでは一級品だった
彼が中学生の時のピッチングを見た何人かの元プロ野球選手が
このまま順調に育てばプロに行けるだけの素材だと言ってくれてもいた
しかし次男は長男と違いコツコツやるのが苦手なタイプでサボる事もあった
そんな次男だったが中学3年生の時に右肘靭帯損傷の怪我を負う
その後治療やリハビリにも励んだが肘は万全には戻らなかった
一応高校でもピッチャーも続けたが思い切り腕が振れなかった
あの怪我さえなければ・・・と、今でも僕は悔やんでいる
先日友人と話してる中で野球部に入っている中学生の子供がキャッチャーをやってるという話を聞いた
部活以外の練習でもキャッチャーの練習をさせたいのだが防具が・・・って事だった
彼が当時の僕のように子供の野球に一生懸命なのは話していればよく分かる
と、言う事で当時僕が息子達の投球を受ける時に使っていたキャッチャー防具を
仕舞っておいたガレージから探し出し貸してあげた
埃にまみれた袋の中から土にまみれた防具一式が出てきた
この防具を最後に使ったのは次男が中核3年生の時だから実際に見たのは11年ぶりだった
土にまみれた防具を見ていたら当時の事が思い出され切ない気持ちになった
約10年間の歳月において来る日も来る日も僕はキャッチャー防具に身を包み
二人の息子の投げる球を受け続けながらマスク越しに彼等の成長を見届けた
過去に戻る事は出来ないが、もし過去に戻る事が出来るなら
僕はヤンチャしてたティーンエイジの頃や大明神様と恋愛してた頃じゃなく
息子達と野球をしてたこの時代に戻りやり直したい
いろんな意味で今度こそ上手くやれる自信がある・・・って思うんですがね~・・・
この記事をご覧になって下さった今現在当時の僕と似た環境を持つお父さんに言いたい
親子で一生懸命やる事はとっても大事ですが焦って無理させる事は禁物ですぞ
それより何より「今」という時間を大切にして真剣に親子で向き合って欲しい
その時間が今後の親子関係を育む種となる事は間違いない
親が背中を見せずして口先だけで子供に命令するのは逆効果ですぞ
僕は経験上そう思います! ジャンジャン!!