(1934年)昭和9年生まれの母は今年12月の誕生日を迎えると82歳になる
昨年末に81歳になった母は約30数年勤めた仕事をついに退職した
81歳まで働いた母を僕は尊敬するし親を越えなければとも思う
しかし退職した母に今は素直にご苦労様という言葉を捧げたい
僕がまだ子供だった頃、母は家で洋裁の内職の仕事をしていた
僕の父は海上自衛官で駆逐艦に乗っていたから出航が多く家にいない事が多かった
母は僕達兄弟を寝かしつけると仕事を始めた
幼かった僕は毎晩布団の中で母が奏でるミシンの音を聞きながら眠りについた
1980年代に入ると時代は一変し婦人服も仕立ての時代から既製品の時代になった
母は洋裁の仕事に見切りをつけ外に出て働くようになった
ハッキリとは覚えていないが僕がミヤニシに就職した頃だったと思う
昨日の記事で母が広島城に訪れたのは75年ぶりだったという事を書いた
当時母は6歳だった訳だが母の記憶によると当時広島城に2回訪れた記憶があるそうだ
母は当時多くの家庭がそうだったように7人兄妹という大家族で6番目の3女だった
母が物心ついた時、長兄はすでに大日本帝国陸軍に入隊しており
当時広島城内に司令部が置かれた野砲兵第5連隊という師団にに配属されていた
1937年(昭和12年)に支那事変が開戦し叔父は中華民国に出兵する
何年に叔父に出兵命令が下ったのかは僕にはよく分からないが
中国への出兵命令が下った叔父に面会する為に
幼い母は祖父母に連れられ3人で広島城を訪れたんだそうだ
当時まだ幼かった母は長兄の出兵の事もよく理解できていなかったそうだ
そしてこの時が長兄との今生の別れになるとも思いもしなかったそうだ
年老いた母は「この時の両親の心情を思ったら・・・」って涙ぐんだ
母が2度目に広島城を訪れたのは1941年(昭和16年)の春だった
支那事変に参戦した叔父は1940年(昭和15年)に中華民国の戦場で病に倒れ戦病死した
享年22歳の若さだった
戦死を告げる知らせが届いた時の事を母は今でも覚えているそうだ
知らせは手紙だったのか、電報だったのかはよく覚えてないそうだが
知らせが届いた時、祖父は勤め先の大日本帝国海軍呉鎮守府の広工廠に勤めに出てた
手紙を受け取った祖母は明治生まれの農家の娘だった事もあり満足な読み書きが出来なかったから
近所に住む学校の先生の元に出向き手紙を読んでもらったんだそうだ
長男の戦死を知った祖母は一瞬悲しそうな顔を見せたが涙一つ見せず毅然な態度で
祖父の勤める広工廠に叔父の死を告げに行ったんだそうだ
戦病死した叔父の遺骨が広島城に帰って来たのは翌1941年(昭和16年)3月の事だった
奇しくもその年の12月には太平洋戦争が勃発する事になる
叔父の遺骨を母は祖父母と共に広島城に引き取りに行った
それが母が最期に広島城に訪れた75年前だったという事だ
葬儀はそれはそれは盛大に行われたんだそうだ
陸・海軍の方達を始め、長浜に住む皆さんも多数参列して下さったそうだ
僕は2年前に観た映画「永遠の0」の影響もあり祖父と叔父の軍歴を知りたいと思った
そして僕は必要書類を集めて厚生労働省に軍事履歴書の申請をした
しかし僕の元に届いた軍事履歴書は祖父の物だけだった
この時僕は叔父が海軍ではなく陸軍だった事を知った
陸軍の軍事履歴書は広島県健康福祉局社会援護課の管轄だという事もわかった
届いた叔父の軍事履歴書には野砲兵第5連隊所属、戦病死と記されてあった
叔父の軍事履歴書の記事 http://blogs.yahoo.co.jp/prains237/13099659.html
叔父の軍事履歴書を元に僕は野砲兵第5連隊の事を調べた
その結果、母の幼い頃の記憶にある広島城と野砲兵第5連隊が繋がったのだ
そして野砲兵第5連隊の慰霊碑が広島城内にある事もわかった
母が元気で歩ける内に広島城に連れてきて一緒に手を合わせたいと思った
広島城天守の受付の人に野砲兵第5連隊の石碑の場所を尋ねた
現在の広島城は内堀の中の敷地を残すのみとなっているが
どうやら石碑は内堀の外側にあるという事だったが探しても探しても石碑が見当たらない
年老いた足の弱い母を連れ回すのは酷だ
僕は母を待たせて一人で探し回りやっとの思いで見つけた石碑は
何と内堀の外の一般道路を挟んだ更に向こう側にひっそり建っていた
考えてみれば広島城に陸軍が置かれていた当時の軍の敷地は
今よりずっと広範囲に亘っていたのだ
石碑に手を合わせた母は「いい冥途の土産が出来た」と喜んだ
しかし天国で待つ祖父母や叔父には悪いが
まだ冥途に行かすには早いし元気で少しでも長生きしてほしい
今回の事で僕も子孫として肩の荷が一つ下りたような気がしたし
平和な時代に生まれて来れた事に感謝ですよね! ジャンジャン!!