母と昼食を共にした僕は広島市内に車を走らせ目的地である広島城に到着しました
母にとって広島城は懐かしくも悲しい思い出の地なんですが
その件については明日の記事に書こうと思います
今年82歳になる母が広島城を訪れたのは何と75年ぶりだったそうです
76年前と言ったら1941年(昭和16年)という事で12月には太平洋戦争が開戦する年です
当時母は6歳という事で小学校の入学前後の時という事になります
76年ぶりに広島城に訪れた母は広島城天守閣が1945年(昭和20年)の原爆投下により焼失して
1958年(昭和33年)に復元建造された事すら知らない、てか忘れていたようです
現在広島城内に建立されている県下一の参拝者数を誇る護国神社の存在さえ知らなかった
それもそのはずで調べてみると護国神社は戦前当時には
西練兵場があった旧広島市民球場の辺りにあったんです
その護国神社も原爆で焼失し1956年(昭和31年)に現在の広島場内に建立されたという事です
「広島のお城はもっと広かったような気がするんじゃが・・・」
写真は戦火で焼ける前の広島城天守ですが母の記憶は満更間違ってはいない
戦後広島城周辺は区画整理され天守閣のある内堀内だけが広島城敷地として残されましたが
戦前は旧広島市民球場や八丁堀あたりまで広島城の敷地内だった
広島城の敷地という事は、これ旧大日本帝国陸軍の敷地であったという事です
そんな歴史を持つ我が広島県の誇りとも言える広島城は戦国時代に
西日本をほぼ統一した「三本の矢の教え」としても有名な
毛利元就公の孫である毛利輝元公が築城しました
関ヶ原の合戦で西軍の総大将に祭り上げられた毛利輝元公は敗戦の将という事で
江戸幕府を開いた征夷大将軍、徳川家康公の命により領地を没収され山口県萩に転封
代わりに藩主として入場したのが賤ヶ岳の七本槍として名を馳せた
豊臣秀吉公子飼いの武将の一人だった福島正則公だった
しかし福島正則公は徳川幕府から危険人物と見なされており
城の修築を咎められ改易されてしまいます
改易された福島正則公に変わって広島城の領主になったのが織田、豊臣、徳川と
三代に使えた浅野長政公の後継車となった弟の浅野長晟公でした
ちなみに広島浅野藩は忠臣蔵で有名な赤穂浅野藩の本家筋になります
しかし忠臣蔵の時切腹した赤穂藩主浅野長矩公の弟である浅野大学公を藩主に据え
お家再興を願う赤穂浅野藩を本家は助けなかった
そうした事もあり広島浅野藩は明治維新まで
おおよそ250年間12代に渡って広島城主を務めました
(2013年4月)
と、言うように我が広島県の広島城は浅野時代が長かったんですが
僕個人のイメージでは広島城は浅野氏でも福島氏でもなく
やはり毛利氏のイメージが強い
しかも広島城藩祖の毛利輝元公よりなぜか祖父の毛利元就公のイメージが強い
広島出身のアンガールズがMCを務める広島ローカル番組のタイトルも「元就」ですからな~ 笑!
城好き・歴史好きの僕は今まで何度も広島城には訪れています
これは多分1987年(昭和62年)の夏だったと思います
結婚前の大明神様と広島城に訪れた時の物ですね
5年前くらいに当時小学生だった万凛ちゃんとも一緒に来ましたね
その頃万凛ちゃんは歴女だったんですがね~ 笑!
と、言う事で明日は広島城に母を連れて来た理由についてを書こうと思います
お楽しみに! ジャンジャン!!