心の旅/チューリップ 1973 作詞・作曲 財津和夫
あー だから今夜だけは 君を抱いていたい あー明日の今頃は 僕は汽車の中
旅立つ僕の心を 知っていたのか 遠く離れてしまえば 愛は終わるといった
旅立つ僕の心を 知っていたのか 遠く離れてしまえば 愛は終わるといった
もしも許されるなら 眠りについた君を ポケットにつめこんで そのままつれ去りたい
あー だから今夜だけは 君を抱いていたい あー明日の今頃は 僕は汽車の中
あー だから今夜だけは 君を抱いていたい あー明日の今頃は 僕は汽車の中
にぎやかだった街も 今は声を静めて なにをまっているのか なにをまっているのか
いつもいつの時でも 僕は忘れはしない 愛に終わりがあって 心の旅がはじまる
いつもいつの時でも 僕は忘れはしない 愛に終わりがあって 心の旅がはじまる
あー だから今夜だけは 君を抱いていたい あー明日の今頃は 僕は汽車の中
あー だから今夜だけは 君を抱いていたい あー明日の今頃は 僕は汽車の中
あー だから今夜だけは 君を抱いていたい あー明日の今頃は 僕は汽車の中
さて、僕の昭和の時代の思い入れのある楽曲やアーティストを振り返り
当時の世相やエピソード、思い出話を綴ろうというシリーズ「My Music Travel 」ですが
何とこのシリーズも6月1日の記事以来という事になります
と、言う事で今回は1972年デビューのバンド「チューリップ」を取り上げてみようと思う
昭和の時代に青春時代を送った方はよく御存じだと思いますが
チューリップは財津和夫さんや姫野達也さんが中心になって1972年にメジャーデビュー
冒頭でご紹介した1973年リリースの「心の旅」が大ヒットし一躍スターダムにのし上がり
1974年リリースの「サボテンの花」、1975年リリースの「青春の影」とスマッシュヒットを飛ばし
当時ビートルズサウンドに一番近いバンドとも言われました
と、言う事なんですが実は先週末の12月13日日曜日に呉文化ホールにて
財津和夫さんのコンサート「財津和夫 TULIPの夢を歌う 2」が行われたんですよね
コンサートには元メンバーで名曲「心の旅」ではメインボーカルを務めた
姫野達也さんがスペシャルゲストとして招かれていました
と、いう事で僕も大明神様を伴って財津和夫コンサートを観に行ってきました!
約10分程開演時間が押してコンサートは始まりました
とは言う物の実は僕は熱心なチューリップファンだったかと言えばそうでもない 笑!
チューリップがデビューしたのは1972年(昭和47年)という事だから当時僕は小学校の3年生
小学校3年生といえば、まだまだ僕はガキでありテレビアニメや特撮ヒーロー物に夢中だった頃で
ようやく当時の担任先生がファンだった天地真理さんに興味を持った年頃だった 笑!
当時僕の家の隣に住んでたレコードマニアだったお兄さんの部屋には
チューリップのアルバムもあった事は覚えている
しかしそれは吉田拓郎さんや井上揚水さん等と同様に彼が聴いている側で
僕は芸能雑誌「平凡」や「明星」を読んでいる時のBGMに過ぎなかった 笑!
コンサート冒頭は僕の知らない曲ばかりだった
それらに交えて彼らが若い頃影響を受けたと言ってたビートルズやサイモン&ガールファンク、
更には映画「オズの魔法使い」の劇中歌として有名な「虹の彼方に(オーバー・ザ・レインボー)」
更には美空ひばりさんの「リンゴ追分」まで披露した
実は今回のコンサートは二部構成になっており何と途中で15分の休憩が挟まれた
いや~ 当日の観客のメイン層が高齢だったからトイレ休憩と言う事だったのか? 笑!
事の次第はよく分からないが僕は途中で休憩があるライブを観たのは初めてだった
で、ようやく僕の知ってる曲を演ったのが休憩直前に披露した
財津和夫ソロの1979年のヒット曲「Wake UP」だった
ステージ後半はチューリップ時代のヒット曲が次々と披露された
「サボテンの花」「青春の影」「虹とスニーカーの頃」・・・
そしてアンコールでついに「心の旅」が始まった
大型画面のモニターが下りてきて歌詞が映し出されると
財津さんは一緒に歌いましょうというゼスチャーを・・・
それまで誰一人立ち上がる人はいなかったが「心の旅」が始まると
リスナーの年齢的にも(笑)総立ちまではいかないが立ち上がる人も出て来て会場も大合唱
今では中年・初老になったリスナーの男女も若き日を思い出していたんでしょうな~
当時僕は年齢的な事もありチューリップのアルバムを熱心に聴いたわけではないが
「心の旅」を始めメジャーヒットした曲はよく覚えている
取り分けこの「心の旅」は子供心ながらに良い曲だと思った
コンサートのMCで財津さんが言われてましたが、1972年博多から上京したチューリップは
デビューからシングル2枚・アルバム2枚を出したがヒットせず3枚目のシングルが売れなかったら
博多に帰ろうという話がでてきていた頃に背水の陣として生まれたのが「心の旅」だったそうだ
当初の予定では作詞・作曲した財津さんが歌うはずだったがレコーディング直前になって
スタッフ・関係者の間で「財津より甘い声が魅力の姫野に歌わせよう」ということになったそうで
曲のヒットは嬉しかったが財津さんも、年下の後輩の姫野さんもビミョーな気持ちもあったそうだ 笑!
虹とスニーカーの頃/チューリップ 1979 作詞・作曲 財津和夫
わがままは 男の罪 それを許さないのは 女の罪
若かった 何もかもが あのスニーカーは もう捨てたかい
若かった 何もかもが あのスニーカーは もう捨てたかい
白いスニーカー 汚さないように 裸足で雨の中 僕等は歩いた
びしょびしょぬれの トレーナーが 乾くまで抱き合った 夏の昼下がり
びしょびしょぬれの トレーナーが 乾くまで抱き合った 夏の昼下がり
わがままは 男の罪 それを許さないのは 女の罪
若かった 何もかもが あのスニーカーは もう捨てたかい
若かった 何もかもが あのスニーカーは もう捨てたかい
白く浮かんだ 水着のあと 指先でなぞれば 雷の音
窓辺から 顔をつき出して 虹をさがしてた君を覚えてる
窓辺から 顔をつき出して 虹をさがしてた君を覚えてる
わがままは 男の罪 それを許さないのは 女の罪
若かった 何もかもが あのスニーカーは もう捨てたかい
若かった 何もかもが あのスニーカーは もう捨てたかい
もつれた糸を 引きちぎるように 突然ふたりは 他人になった
ぼくらには できなかった 大人の恋は どうしても
ぼくらには できなかった 大人の恋は どうしても
わがままは 男の罪 それを許さないのは 女の罪
若かった 何もかもが あのスニーカーは もう捨てたかい
若かった 何もかもが あのスニーカーは もう捨てたかい
(Repeat &Fade Out)
1970年代が終わりを告げる1979年(昭和54年)7月チューリップは「心の旅」以来
実に6年ぶりにオリコンチャート入りを果たす大ヒット曲に恵まれた
それがこの「虹とスニーカーの頃」だが僕はこの曲は実に思い出深い
この年僕は高校1年生で長浜の片田舎から僕は街デビューを果たした
この頃は喫茶店の最盛期で80年代のテレビゲーム・SF・コンピューター時代に先駆け
全国的に喫茶店やゲームセンターで空前のインベーダーゲームが大ヒットし社会現象にまでなった
僕も学校に行く前のモーニングや放課後の喫茶店でインベーダーゲームに興じた
「リシェス」「ランブル」「ラブリー」「ロン」「ロコ」「ビアン」「琥珀」「樹林」・・・
名前を挙げた店は今では一店も残っていないが当時呉にも沢山の喫茶店が繁昌してた
学生服から発する独特の匂いとポマードやコロンに煙草が混じった匂いの空間、
ミルクセーキを飲みながらひたすらレバーを動かし名古屋打ちと言われたテクニックで
次々とインベーダーを撃破してた僕 笑!
その頃喫茶店の有線放送で頻繁に流れていたのがチューリップの虹とスニーカーの頃だった
独特なメロディーと個性的な詩がとても印象深かった
チューリップといえば今年のゴールデンウイークに訪れた福岡博多の
伝説のライブ喫茶「照和」の事を思い出す
チューリップはアマチュア時代この照和のステージに立って腕を磨いていた
その時代の事を照和のオーナーにも話を聞いたし当時チューリップのライバルだった
海援隊の武田鉄矢さんが司会を務めてる「昭和は輝いていた」という番組の
「フォークソング&ニューミュージック2時間スペシャル」という番組内で武田さんも
当時のエピソードを熱く語っておられた
武田さん曰く、財津さんは天才だったって言われてましたね
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