呉の歴史を語る上で、映画「仁義なき戦い」にもなったヤクザ戦争は避けては通れない
戦後の呉において、利権に絡む縄張り争いを繰り広げた呉ヤクザたち
血で血を洗う抗争は、映画「仁義なき戦い」は元よりあらゆる角度から
文献や書籍、また映画やVシネマにも取り上げられている
戦後間もない呉は連合国軍に占領されており
呉市民は肩身の狭い思いをする事も少なくなかったそうだ
連合国軍の兵士も十人十色でいい人もいれば悪い人もいる
その悪い人に屈辱的な事をされても敗戦国である日本の警察は
手が出せないケースも多かったそうだ
そんな時にヤクザが矢面に立って事を収めるケースもあったそうだ
そう、あの時代の呉は法治権力の警察も、行政を司る政治家も
経済をリードする実業家や権力者も、ある意味ヤクザと
ズブズブの仲だった面もあったんですよね
当時ヤクザと癒着して極道刑事と言われた
広島県警の梶原光一という刑事がいた事は有名だ
彼は1975年(昭和50年)に東映から配給された映画「県警対組織暴力」の主役
菅原文太さんが演じた、久能徳松刑事のモデルになったとも言われている
それは昨年公開された「孤狼の血」の役所広司さん演じた
大上刑事にも引き継がれているようにも思う
しかし梶原光一さんとは真逆の真面目で一途な勇敢な刑事もいた
今回はそんな刑事の手記「ある刑事の記録」から抜粋した、お話です
その方は清田盛治さんという仁義なき戦いの時代に呉署に勤務されていた刑事
父親が音戸町のご出身でご本人は1928年(昭和3年)に神戸で生まれたそうだ
1943年(昭和18年)に陸軍少年飛行兵学校に入学
1945年(昭和20年)に鳥取の陸軍特別攻撃隊訓練基地にて
沖縄特攻出撃が迫っていた時に終戦を迎えた
1948年(昭和23年)に、父の実家があった音戸に戻り警察官になった
呉署警固屋派出署が振出し、1年後に宮原派出所に移動
呉では暴力団が派手に縄張り争いを始めていた
ある時、近くで日本刀を持った暴力団が乱闘をやってるという通報があった
現場に行くと確かに日本刀を持った男が3人いる
電柱の陰で様子を見ていたら見つかって刀を振りかざして襲い掛かってきた
当時の巡査は拳銃を持っていなかったので一目散に逃げた
走りながらふと「自分は警察官じゃないか、このまま逃げていいのか」と思い
後ろを振り返って見ると一人しかいない
1対1ならやれるかもと警棒で立ち向かい何とか取り押さえた
その後残る二人も逮捕し、3人を逮捕したのが暴力団との出会いだった
そのすぐ後の1950年(昭和25年)
美男子だが残忍な性格で「悪魔のキューピー」と言われた
土岡組の大西政寛がチンピラを拳銃で射殺した
※ この事件は仁義なき戦いファンなら有名な話だ
呉市本通り5丁目付近を大西さんは妻と歩いていて
酔っぱらってる男ら3人に冷やかされ口論となった
一旦その場は妻の仲裁で収まったものの
山村組若衆の野間範男らが3人を探し出した
「わりゃ、どこのモンな?」
「わしゃ大西いうモンじゃ・・・」
話がややこしいが(笑)実は冷やかした3人のリーダー格も
悪魔のキューピーと同姓の大西輝吉という名前だった
悪魔のキューピーは自分の名を知った上で自分の名を語られたと勘違いし
おちょくられたと思い完全にキレたんだそう
同日の夕方、呉市和庄通り4丁目の高日神社で
悪魔のキューピーは大西輝吉を射殺した
呉警察署は大西を指名手配
その後、呉市鹿田町の山村組関係者・岩城義一宅に潜んでおり明日早朝には
大学生に変装して関西方面に高飛びする手筈になっているという密告が寄せられた
呉警察署の警官隊40人が、雨の中岩城義一宅を包囲し、刑事らが踏み込んだ
清田警官はまだその時点では刑事ではなかったので外にいた
すると家の中で何発もパンパンという銃声が聞こえた
同僚の刑事二人、数田理喜夫警部補と鞆井清刑事が大西に撃たれ
一人は即死、もう一人は意識不明、当時は救急車なんてない
映画の看板を担架がわりにして呉共済病院に運んだが死亡
二人とも妻子持ちで、可哀そうだった
大西は清田警官と仲が良かった川相刑事に射殺された
殉職された数田、鞆井刑事の欠員が出た
以前に一人で三人を逮捕した経緯があったので
「清田は特攻隊あがりだし、暴力団にも果敢に立ち向かうだろう」
と推薦され、マル暴の刑事になった
それから「危ない事件は清田だ」と言われ随分危険な体験を重ねた
ちなみに呉署に密告したのは大西が目障りになった山村組長
山村辰雄だというのが定説になっている
大西の実母が山村を恐喝し、莫大な金を手にしているそうだ
と、いう事で続きはまた今度! ジャンジャン!!
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