8月16日水曜日 天気 曇り時々雨
お盆休み最終日となった水曜日は義理のお父さんの墓参りに行きました
ウチの大明神様のお父さんの墓は宮原から音戸の瀬戸に抜ける
休山にあるという事で、墓参りを済ませた僕は高烏砲台に立ち寄りました
高烏砲台からは音戸の瀬戸が見渡せます
当日は雨模様という事で視界が少し悪かった事が残念ですが
山の緑と、海や空の青さに映える朱色の音戸大橋と第2音戸大橋のコントラストが絶景です
高烏砲台跡の高台には平清盛公の銅像が立っています
その昔、音戸の瀬戸は潮流も速く岩礁もあって開削は難しいと言われてました
開削工事は困難を極めましたが平清盛公がこの地に立って扇を扇ぐと
何と、沈みかけた太陽が再び昇り、工事が間に合ったという伝説があるんです
平清盛公は太陽をも操るエスパーでもあったという事です 笑!
高烏堡塁は旧大日本帝国陸軍により設置された広島湾要塞の一部です
この花崗岩造りの一連の構築物は、旧高烏砲台の跡で、写真は砲座跡です
てか、ここには猫が住み着いてるようで観光客らしき人が
一眼レフの高価そうなカメラで一生懸命に猫の写真を撮ってました
明治16年第二海軍区鎮府の候補地として呉港があげられ
明治19年7月軍港設置とともに敵の艦砲射撃に備えられました
軍港防備の陸上砲台を陸軍において構築することになり
陸軍予算として閣議にあがったが、第一期計画からは除外されました
たまたま日清戦争が起こるにいたって広島に大本営が置かれるなど情勢の変転に伴って
再び砲台構築の議が起り、明治29年陸軍の手により砲台、火薬庫、兵舎などの工事が始まり
引き続き同32年から3ヶ月の歳月を費やして完了したそうです
後になって海軍の所管に移され太平洋戦争においては専ら防空砲台として使用されたが
明治中期の軍港を護る要塞砲の形式としては珍しいものだそうです
写真は砲座横にある砲側庫です
この建物は明治29年から陸軍が呉の防護のため砲台を整備した際
高烏砲台の兵舎として建てられた建物です
高烏砲台は軍港として軍事的にも重要な施設でもあったので
後に海軍に移管されました
昭和20年8月の終戦後、兵舎は荒廃しましたが石造りの外壁は今でも残存しています
兵舎を含む高烏砲台に使われている石は建物の位置から南西側の公園内の斜面から
産出された花崗斑岩であることがわかっています
この兵舎に関しての記録は残っておらず詳細は不明ですが
明治時代の石造建物としての形態を残しています
で、ここにあった火薬庫が、先日記事にした入船山記念館内に
移設されているという事です
この高烏堡塁は他の広島湾要塞を形成した他の堡塁と同様に
敵艦船の進入を阻止するために使われることはなかったそうです
しかし太平洋戦争中は防空砲台として高角砲十二糎七高角砲6門および
その関連施設が設置されていました
その為、1945年(昭和20年)3月および7月の呉軍港空襲時は
この高烏防空砲台でも激しい戦闘が行なわれたに違いありません
戦後呉を占拠した連合国軍の艦隊は奇しくもこの高烏砲台眼下に広がる
音戸の瀬戸から呉に入港したんでしょうな~
当日は一般的には盆休みも終わったであろう16日の雨の日でしたが
県外ナンバーの観光客らしき人達も数組見受けられました
呉観光に来られる方、是非高烏砲台跡にも足を運んでみてくださいね!
ジャンジャン!!