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続・年賀切手シリーズ 1982年 戌年

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1982年(昭和57年) 犬
 
さて、毎週火曜日恒例の続・年賀切手シリーズですが今回は盆休みの関係で
水曜日という事になりますがいよいよ大詰めの1982年(昭和57年)戌年です
 
今でも記憶に新しい日本航空350便墜落事故が起き24人の死亡者が出た1982年
 
松田聖子さんの人気に伴い「ぶりっ子」と言われた猫を被った若い女性が大繁殖 笑!
彼女達は三語族と言われ「ウッソー」「ホントー」「カワイイー」という感嘆詞を連発
 
更に三語族は「ヤッダー」「シンジラレナイ~」「スッゴーイ」「バッカミタイ」という新語を連呼し
彼女達の事を歌った現俳優の「杉本哲太」さんが率いた「紅麗威甦」
「ぶりっ子Rock’n Roll」がヒットした 笑!
 
表面は明るく振る舞っているが根は暗い性格の人は「ネクラ」と呼ばれ
人気テレビアニメ「花の子ルンルン」から気分がウキウキした状態を
現わす言葉として「ルンルン」という新語も生まれた
 
そんな時代だった1982年にはいったいどんな年だったのか?
 
と、言う事でここからは1982年の大ヒット曲「アン・ルイス」さんの
「ラ・セゾン」を聴きながらご覧ください
 
 
 
 
ラ・セゾン/アン・ルイス 1982
 
 
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携帯電話やスマホの普及で昨今殆ど見かける事も少なくなった公衆電話ですが
1982年には電電公社(現NTT)がテレホンカード対応の公衆電話が
首都圏から設置が進められ全国に普及した
 
公衆電話と言えば僕の世代だとダイヤル式で3分10円だった赤い公衆電話が思い出深いが
その後電話機の発展により100円玉対応の物やプッシュホンへと姿を変えて行った
 
 
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調べてみると日本で100円硬貨が使用出来る公衆電話が設置されたのは1972年(昭和47年)らしいが
百円硬貨が電話機の金庫に収納された場合釣り銭の返却は行われない構造になっていたため
釣り銭の現金払い出しに代わる手段として磁気媒体を利用するカード式公衆電話が開発・製造された
 
それに伴い多種多様なデザインのテレホンカードが登場し発行当初から
テレホンカードはコレクターズアイテムとしてのポジションも確立した
 
僕が思うにこのテレホンカード収集のブームに伴い記念切手収集ブームは
完全に終焉したんじゃないかと思う
 
そう言えば僕も1987年(昭和62年)の事ですが自分の結婚式の引き出物の一つとして
記念テレホンカードを作りましたな~
 
てか、あの時の僕の結婚記念テレホンカード誰か持ってません? 笑!
 
 
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1982年には呉のお隣の安芸津町出身の女子プロゴルファーである
岡本綾子さんがアメリカLPGAツアーで初優勝を飾った年だった
 
岡本綾子さんは地元安芸津で中学卒業まで過ごし中学時代はソフトボールの選手だった
高校はソフトボールの特待生として愛媛県の高校に進学されている
 
1974年にゴルフのプロテストに合格してプロデビュー1年目の美津濃オープンで初優勝
その後数々の優勝を手にし1981年に日本人としては初となる
本格的にアメリカLPGAツアーに参加し1982年のアリゾナ・コバー・クラッシックでLPGA初優勝
 
1987年にはアメリカ人以外で初のLPGAツアー賞金女王に輝いた
 
いや~ 僕が我流でゴルフを始めたのが1987年頃でしたが岡本綾子さんのスイングは
ゴルフスイングの見本だと言われるほど理に適った美しいスイングだった
 
呉のお隣の安芸津御出身という事で親近感もあり応援してましたな~
 
 
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2014年に実に生放送31年に及んだ歴史に幕を下ろしたお昼のご長寿番組
「笑って いいとも!」が放送開始されたのも1982年の事だった
 
1970年代から1980年代当時の人気お笑いタレントが勢揃いしていた帯バラエティ番組
「笑ってる場合ですよ!」の後を受けて「いいとも!」は総合司会にタモリさんを抜擢した
 
 
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当時タモリさんは深夜バラエティー「タモリ倶楽部」に出演するなど深夜色の強いタレントだった
 
そう言った事でタモリさん自身も数ヶ月で番組打ち切りになる事を予想されていたが
「いいとも青年隊」の活躍や日替わりコーナーゲストに毎回テレフォンゲストを1組招いて
タモリさんとトークを展開する「テレフォンショッキング」が人気コーナーになり高視聴率番組になった
 
「明日来てくれるかな?」「いいとも~!」ってやり取りは一般人にも大流行した
 
てか、1970年代のタモリさんはグロテスクでエグいイメージが強いお笑いタレントだったが
この「笑って いいとも!」の出演でイメージもずいぶん変わった気がしますね
 
 
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1982年に美容室「コアフュール宮西」に就職した僕は諸先輩の影響を受けて
それまで主としていたフィフティーズファッションを卒業してDCブランドに路線変更した
 
1982年、「男専」というファッション誌がお洒落な男に大人気で時代はDCブランド全盛期を迎えていた
 
当時成人式は数え年で行われていたから1983年1月15日に成人式を迎えた僕は
当時好きだった菊池武雄さんのメンズビギでコートから靴に至るまで全てを揃えた
 
当時の僕の給料は月に7万円くらいだったが確か20万円くらいのローンを組んで買ったような記憶がある
10代の青い春を共にした同級生達の殆どは成人式は洋服の青山あたりのスーツを着ていたから
僕の恰好はある意味異質で物凄く目立っていたと思う
 
まあこれも就職した店の環境の成せる業だった訳であるのだが・・・ 笑!
 
当時広島市でDCブランドと言えば「五番館」系列と「三浦カンパニー」系列あたりが牛耳っていた
それにしても今振り返ってみると安月給の割にずいぶん高い服を買ってたと思いますね
DCにハマってローン地獄に陥り自己破産した馬鹿な奴も少なくなかったですからな~ 笑!
 
 
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そんな時代に若い女性に人気があったDCブランドに1982年にビギグループから独立した
金子功さんが手掛けた「ピンクハウス」があった
 
ピンクハウスはメルヘンチックなフェミニンを前面に出し、リボン、ピンタック、ピコフリル、レースを
贅沢に使用しボリュームのあるコーディネートが出来ることが最大の特徴だった
 
ピンクハウスのワンピースやブルゾンは当時のぶりっ子たちに圧倒的な人気を得た
まあ僕も当時、柄にもなくピンクハウスのブルゾンを買いましたがね~ 笑!
僕のイメージでは今のロリータファッションの元祖がピンクハウスのような気がしますがね~
 
ぶりぶりのピンクハウスは後に淑女向けに「インゲボルグ」、男性向けに「カールヘルム」
子供向けに「ペーハーブルー」というブランドを展開
 
いや~ 当時ピンクハウスの服は僕の周りの若い女性を中心に大流行しましたが
ピンクハウスは独特の世界観があったのでハッキリ言ってぜんぜん似合ってない娘も少なくなかった 
 
それらの娘も今や50歳前後の中年女性となってるが聞く所によると
今でもピンクハウスを愛して止まないオバちゃんたちもいるそうですぞ
 
 
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う~ん 強烈!! 笑!
 
僕はこの辺りは手は出しませんでしたが(笑)ケミカルウォッシュ
デザインジーンズが流行ったのも1982年頃だった
 
デザイン的にもタックが入ったりハイウエストの物があったりもしましたな~
僕も詳しくはわかりませんが、この流れはヨーロッパあたりのインポートに端を発してたんじゃないかな~
 
スマップの中居君が「スマスマ」の中で演じるコントの「マー坊」がケミカルジーンズ履いてますが
80年代中頃のヤンキーに好まれたケミカルジーンズは今では笑うしかありませんな~ 笑!
 
 
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革ジャンも石で洗って風合いを付けたストーンウォッシュってのが流行りました
 
僕はDCブランドの前はフィフティーズやってましたから確かに使い込まれて「味」が出た
革ジャンはカッコいいと思ってましたがストーンウォッシュ加工はダサいと思った
 
DCブランドのストーンウォッシュの革ジャンは当時でも10万円くらいしてたと思いますね
 
まあ↑のケミカルジーンズとストーンウォッシュ革ジャンの組み合わせは
個人的には80年代のファッションを語る上で最強のダサい組み合わせだと思いますよ 笑!
 
 
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さて、1982年に発行されベストセラーになった本に
俳優の穂積隆信さんがご自身の体験実話を書いた「積み木崩し」がありました
 
「積み木崩し」はある日突然不良少女となった穂積さんの実娘との200日間の葛藤を描いた作品であり
日本国内で300万部を出版するなど社会現象にもなった
 
積み木崩しは後にドラマ化、映画化もされ大ヒットした
 
ドラマで主役の不良少女を演じた欽ちゃんファミリー「わらべ」の清純派だと思われてた
当時10代だった高部知子さんのラブホテルでの喫煙写真が写真週刊誌に載り
シャレにもならない事態に発展したのも記憶に新しい 笑!
 
ま、当時はこんな話は全国に山ほどあったと思うし
それも時代性だったという事だと思いますね
 
 
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個人的に1982年の世相を表す音楽で同年にヒットした曲に「一風堂」というロックバンドの
ヒット曲である「すみれSeptember Love」という曲がある
 
この時代海外ではユニセックスな風貌でインパクトがあったカルチャークラブが大人気で
特にボーカルのボーイ・ジョージは妖艶な雰囲気で人気を博した
日本ではジュリーこと、沢田研二さんがメイクを施しユニセックスなイメージを確立した
 
そんな時代に疾風のように現れて疾風のように去っていったのが一風堂だった 笑!
一風堂の「すみれSeptember Love」は1997年にSHAZNAがカバーし大ヒット
SHAZNAのボーカルIZAMもやはりユニセックスなイメージだった
 
 
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1982年の洋画で話題を独占したのが地球の探査にやって来て一人取り残された異星人と
少年の交流を暖かく描き上げたSFファンタジー「E・T」だった
 
E・Tは本来、人間と宇宙人との垣根を越えた友情の感動大作なのだが
当時ブサイクな奴の事をE・Tと呼ぶ事が流行った 笑!
 
個人的にはルパン3世の「ルパンVS複製人間」に出て来た謎の怪人「マモー」に
似てると思っていたがマモーの方が1978年と登場が早い 笑!
 
 
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さて、1982年の邦画と言えば「セーラー服と機関銃」や前回触れた
「ハイティーンブギ」が興行成績上位を占めるが個人的には故、夏目雅子さんが
濡れ場を演じて話題になった「鬼龍院花子の生涯」を押したい
 
日本のヤクザ映画と言えば1960年代から1970年代初期に全盛を誇った高倉健さんや鶴田浩二さんの
「任侠路線」や1970年代中頃からの菅原文太さんや松方弘樹さんの「実録路線」と流れを変えたが
1980年代に入りこの「鬼龍院花子の生涯」から女性が主役になるヤクザ映画が台頭する
 
その流れは後の「極道の妻たち」へと引き継がれる
 
鬼龍院花子の生涯の劇中で夏目さん演じる鬼龍院花子が言い放った
「ナメたらあかんぜよ~」ってセリフも大流行した
 
それにしても夏目雅子さんの・・・・・・・・! 爆!
 
 
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さて、1982年の日本歌謡界は80年代アイドルの独断場と化します
聖子ちゃんに明菜ちゃん、トシちゃんにマッチ・・・
 
その中に混じって、あみん「待つわ」、薬師丸ひろ子さんの「セーラー服と機関銃」
岩崎宏美さんの「聖母たちのララバイ」、サザン「チャコの海岸物語」
演歌では細川たかしさんの「北酒場」あたりがヒットしています
 
そんな中僕の一押しは本当は中島みゆきさんの「悪女」なんですが
サザン同様、中島みゆきさんの楽曲はYou Tubeにはまったく出ていない
と、言う事で今回僕はアン・ルイスさんの「ラ・セゾン」を押す事にした
 
僕はアンさんの曲は本来1970年代の曲に思い入れがあるんですが
世間的に見ればアンさんの全盛期はこのラ・セゾン以降の曲という事になるんだと思いますね
 
御存じの方も多いかと思いますが、このラ・セゾンという曲は1980年にご結婚し
芸能界を引退された山口百恵さんが三浦百恵名義で作詞を担当
更には作曲をジュリーこと、沢田研二さんが担当されたんですよね!
 
 
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1982年3月に何とか美容学校が卒業出来た僕は4月に「コアフール宮西」に就職し
本当の意味で社会人としての第一歩を踏み出しました
 
しかし以て当時の僕の友人や先輩、更には美容学校の先生たちは誰一人として
僕が仕事が続くとは思っていなかったと思う
 
当の本人である僕も、この時点ではそう思っていた 笑!
てか、本音を言えば続くとか続かないとかというレベルではなく何も考えていなかった 
 
当時のミヤニシは呉では断トツの超繁盛店で平日でもお客さんが階段の外まで並ぶ事も珍しくなかった
僕達新米1年生の仕事と言えば来る日も来る日も朝から晩までシャンプーで
昼ご飯を食べる時間もないほどのシャンプー地獄だった
 
ミヤニシに就職して1ヵ月が過ぎたGW頃、僕は今思えば5月病にかかっていたと思う
当時のミヤニシの店内にはシャンプー台に小窓があるだけの密閉された黒い空間だった
 
僕はお客様をシャンプーしながら窓から見える僅かな外の明るい景色を眺めて
「ワシって毎日毎日、朝から晩まで何しようるんじゃろうか・・・」
と、自己嫌悪に陥り、そう思うと僕は涙が出そうだった
 
特に週末の土曜日や日曜日などは友人が何をして遊んでるのかが兎に角気になった
そりゃそうだ、つい1ヶ月前まで誰に強要される事もなく自由気ままにやってたんですからね~
 
 
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いつ爆発してもおかしくなかった僕の精神状態だったが僕が何とか仕事を続けられていたのは
先輩の城戸君の存在があったからだと今でも思う
 
当時毎週のように僕は土曜日になると倉橋の彼の実家に泊まりに行った
当時同級生の友人達は土曜の夜になれば楽しく暴走族をやってたんだと思う 笑!
 
もし僕がその場にいたら夜通し遊んで日曜日は仕事を休んでいただろう
まあ当時僕は運転免許が取り消しになってた事が幸いしたようにも思うんですがね
 
しかし仕事は確かにキツかったが楽しい職場という事も同時に思っていた事も確かだ
お洒落も先輩達の影響を受けてステップアップしましたしね・・・
 
と、そんな僕にとっては19歳の1982年でしたが早い物で次回はいよいよシリーズ最終回
1983年(昭和53年)亥年やります!乞うご期待! ジャンジャン!!
 
 
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