1980年(昭和55年) 喜々猿
さて、毎週火曜日恒例の続・年賀切手シリーズですが今週は80年代の幕開けとなった
1980年(昭和55年)申年の世相を僕の思い出と共に振り返ってみたいと思います
バブル景気に沸いた1980年代中頃から1990年代初頭
そんな時代がすぐそこまで来ていた1980年代の幕開けになった昭和55年
アナログな時代が徐々に終わりを告げ時代はデジタル化され始めます
一般家庭においても「ゲーム」「SF」「コンピューター」という最先端技術が浸透し始め
アナログだったそれまでの時代が何だか野暮ったく感じ始めた1980年
いろんなアイデアを詰め込んだ新製品がどんどん出て来て世間を魅了し
廻る時代も流れる時間も徐々にデジタル化し過ぎ行く時が早く感じ始めた
そんな1980年代の幕開けとなった1980年はどんな年だったのか?
と、いう事でここからは1980年にデビューし一躍スターダムにのし上がった
シャネルズのデビュー曲「ランナウェイ」を聴きながらご覧ください!
ランナウェイ/シャネルズ 1980
先ずはスポーツ界のニュースからお届けしましょう
1980年という年は読売巨人軍にとって大きな転換期になった年でした
この年セ・リーグ2連覇を果たしたカープと勝率5割以上をかけて戦う巨人との最終戦は
選手時代から21年間苦楽を共にしジャイアンツの看板を背負ってきた長嶋茂雄監督と王貞治一塁手が
互いに巨人のユニホームを着て臨んだ最後のシーズンになりました
ペナントレース最終戦後に3位に終わった長嶋監督は
「若手が育ってきた、来年は勝負の年になる」と発言
王選手に至っては
「ユニホームはいつでも脱げるが一度脱いだら芸能界のように復帰することはできない
打撃は体力だけじゃなく技術と気力だと信じている、このまま辞めては心残り
今年以上にしんどいだろうが来年再挑戦する・・・」と決意を述べていた
しかしその翌日長嶋監督は突然の解任、2週間後には王選手も引退と発表された
長嶋監督は「成績が不本意だったという事のみで男としてのケジメをつける、他意はない」
王選手は「王貞治としてのバッティングが出来なくなった」と述べユニフォームを脱いだ
1976年の江川卓を廻る「空白の一日」事件から始まった巨人軍の胡散臭さは加速し始める
PL学園の「清原・桑田事件」に端を発したドラフトの逆指名、FA制度など
巨人に都合がいいようなルール改正が強行されていくのである
1980年12月8日、ショッキングなニュースが世界中を駆け巡った
ビートルズのメンバーで、ビートルズ解散後はソロとして音楽活動を続けていた
ジョン・レノンがニューヨークの自宅前でマーク・チャップマンに射殺された
ジョンは妻ヨーコ・オノと共にレコーディングスタジオから帰宅したところだった
なぜジョンは暗殺されたのか?
それはジョンが反戦運動をしていたからだと言われています
当時のアメリカ大統領が戦争肯定していたのでジョンとヨーコの反戦活動と
その影響力には脅威を持っていたんです
ジョン・レノンクラスのスターが反戦などと活動していれば一般人達にも効果抜群ですからね~
マーク・チャップマンはCIAが研究したマインドコントロール方法・催眠などで誘導され
ジョン・レノンは罪深き奴だと意識に刷り込まれ射殺したという事らしい
いや~ 僕はこのニュースはリアルで聞いたのを今でもよく覚えています
中学2年の時にエルヴィスが死んだというニュースを聞いた時以上に驚きましたね~
1980年4月、任天堂からデジタル時代到来という事で革新的なゲームの発売が開始されました
それがこのゲームと時計を一体化させ一つのボタンですぐに時計表示と
ゲームに切り替わる機能が付いた「ゲーム&ウォッチ」でした
ゲームウォッチはポケットサイズという携帯性がウケて一躍人気商品になった
更には当時の価格で5800円というゲーム機にしては高額な価格設定は子供だけではなく
社会人が手軽に楽しめるというコンセプトを体現した商品だった
と、いう事なんですが僕は当時からなぜかデジタルゲームの類にはまったく興味がなかったんですよね
唯一ハマったのがインベーダーゲームでしたが、これも1年程で飽きてしまった
後に発売されるファミコンにもまったく興味が湧かずスーパーマリオも殆どやった事がない
1980年当時の僕は17歳、家で暗~くゲームしてるより街には刺激が山ほどあった
だから個人的にはデジタルゲームの類にはまったく思い入れも懐かしさもない
それは現在にも至っています 笑!
それはゲームだけに限らず僕的にはパチンコにも言えた事だった
「♪軍艦マ~チに誘~われて~・・・ひ~らけ、ひらけ~パッとひらけ~チュ~リップ~・・・」
と、間寛平さんが歌ってヒットした「ひらけ!チューリップ」は1975年の曲でしたが
その後パチンコ業界は1978年にそれまでの手動式から電動式へと姿を変えた
てか、現在のパチンコでは当たり前の電動式発射機って呉にある「日野ホール」が考案して
特許を取っていたと昔噂を聞いた事があるが本当なのだろうか?
そんなパチンコも1978年登場のインベーダーゲームによって業界は苦戦を虐げられていた
そこに登場したのが1980年に三共が開発した「フィーバー」というパチンコ台だった
このフィーバー機はパチンコに革命を起こす事になる
それまでのパチンコは、役モノの穴に入賞すれば 一定の出玉が出るというもの
つまり じっくり打ちながら出玉を増やしてゆくのであるが、このフィーバー機はその常識を無視
入賞穴に玉が入ると中央のドラムが回転、絵柄が揃うと とにかく出玉が止まらない
打ち止めになるまで出っ放し
まさに パチンコ人気を不動のものにするべく編み出された
現在のパチンコの原点ともいえる出玉重視の爆裂機なのだ
僕が初めてパチンコをしたのは1978年の中学3年生の春だった
この年に転校してきたちょっと不良っぽい女の子と初めてデートした時
彼女にパチンコに連れて行って欲しいとねだられた
実は僕はその時まだパチンコ未体験だったが一応「不良」をやってたので(笑)カッコつけて
広の商店街にあるグランド会館に勇んで彼女を連れて行った
当時はまだ手打ち普通機のハネ物の時代だったが内心僕はドキドキで
パチンコのやり方もパチンコ屋のシステムもよく分からない
確か30分ほど見よう見真似で打ってあっという間に負けて退散したような記憶がある
そりゃ中学生だから軍資金もしれてますからな~ 笑!
高校に入学すると先輩に連れられて当時呉にあったホンコンや美和ホールなどの
パチンコ屋にも行くようになったが当時から僕にはパチンコに面白さは感じなかった
まあそれでもこれまでの人生で僕も2度程パチンコにハマった時期もあったが長続きはしなかった
僕はパチンコをしてみて「金の無駄!時間の無駄!」という事を悟ったのだ 笑!
1980年はゲームウォッチといったデジタルなゲームが登場し話題になりましたが
同年アナログな玩具としてハンガリーの建築学者エルノー・ルービックが考案した
立方体パズル「ルービックキューブ」が登場し大人気になりました
いや~ もちろん僕も買って何度も挑戦しましたが今に至るまで一度も完成させた事がない 笑!
理数系が苦手という事もあるんでしょうが途中で飽きちゃうんですよね~
当時テレビで意図も簡単に6面を完成させる子供を見てマジックかと思いましたからね~
ま、何らかの法則かコツがあるんでしょうがね~
1980年に登場して大人気になった玩具にタカラの「チョロQ」があった
小さいボディーに更に超小型のゼンマイモーターを内蔵したチョロQは
フォルムの可愛さと「走る」という機能性で大ヒット商品になった
その後アイデアに溢れた様々なバージョンが登場する事になる
先日僕は店仕舞いをした呉の老舗玩具店「みどり屋」さんで呉市営時代の
ボンネットバスのチョロQを買った
映画「ALLWAYS 三丁目の夕日」に出て来る鈴木オートの
オート3輪のチョロQと共に店に飾っています
1980年は後にロングセラーになる大塚製薬の「ポカリスエット」が発売された年でもあった
1973年、手術を終えた医師が水分補給のために点滴液を飲んでいるのを見た大塚製薬の研究員は
「飲む点滴液」というアイデアを提案しました
その後試行錯誤を繰り返しながら1980年、かつてない「汗の飲料」ポカリスエットが発売されました
しかし蓋をを開けてみると人々にはその新しい飲料のコンセプトが理解されず
なかなか味が受け入れられなかったのです
しかし、ここであきらめないのが大塚製薬
この「汗の飲料」のコンセプトをきちんと伝えようと社員はあらゆる「汗をかくシーン」に直接足を運びました
水分補給の大切さを伝えながら汗をかいているときにポカリスエットを実際に飲んでもらいました
そして発売から2年目の夏、ついにそのコンセプトが人々に受け入れられ
ポカリスエットは爆発的な大ヒット製品となりました
こうしてポカリスエットは「汗をかいたときの飲料」という、まったく新しい市場を開拓しました
僕が思うにポカリスエットはCM戦略も良かったと思いますね~!
僕が思うにポカリスエットはCM戦略も良かったと思いますね~!
「やや」という歌手が歌った「♪夜霧の~ハウスマヌカン~ お金もないのに見栄を張る~・・・」
って曲の「夜霧のハウスマヌカン」がヒットしたのは1986年の事ですが1980年当時
化粧品販売員の美容部員とブティックの販売員ハウスマヌカンがお洒落な女性の人気職業だった
そんなハウスマヌカンに端を発した「カラス族」と揶揄されたモノトーンファッションが
大流行したのが1980年の事だった
彼女らのモノトーンファッションに影響されコムデギャルソン、ワイズ
ヨージヤマモト等がお洒落な人々に流行
モノトーンファッションを好む女性の化粧品はシュウ・ウエムラ一択だった
コムデギャルソンのデザイナー川久保玲、ananの人気モデル甲田益也子
パリコレモデル山口小夜子らのヘアスタイルの影響でカラス族の女性にはボブカットが流行した
僕はこの年に高校を退学になりいろんな職業を転々としながら
ひょんな事から美容室「バラの舘」で働くようになった
それまでの作業服に安全靴や地下足袋を身に付けて働く仕事じゃない美容師は
汚れる仕事が嫌だった僕にとっては願ったりの仕事だった
が、当時の美容室は男性美容師のピアスは駄目、Gパンも駄目、Tシャツも駄目と駄目な事だらけだった
ま、まだまだ美容業界もそんなレベルだったという事ですよ
僕は店長にはずいぶん可愛がってもらって彼から黒いバギーのスラックスパンツと
太めの白・黒ストライプの開襟シャツを貰った
「今はこの白黒がナウいんよ~!」
彼のこんな言葉を覚えているが、こういった時代だったという事なんだろう 笑!
さて、お次は1980年の芸能界だが、この年は昭和の歌姫「山口百恵」さんが
俳優の三浦友和さんとご結婚され芸能界を引退した年でもあった
1972年に「スター誕生」で準優勝し1973年にシングル「としごろ」でデビューした百恵さんは
桜田淳子さん、森昌子さんと共に花の中3トリオとして人気を博し国民的歌手にまで上り詰めた
同時に女優としても活躍され俳優である三浦友和さんと恋に落ちる
人気絶頂の1979年に「私が好きな人は三浦友和さんです」と恋人宣言をして
翌1980年に婚約発表と当時に芸能界引退宣言を行った
同年10月には日本武道館でファイナルコンサートが行われファンに対して
「私のわがままを許してくれてありがとう、幸せになります」とメッセージを言い残し
「さよならの向こう側」を歌い終えた百恵さんは涙しながらステージにそっとマイクを置いたまま
静かに舞台裏へと歩みながら消えていった
その後同年11月に晴れて三浦友和さんとご結婚された
僕は熱烈な百恵ファンではありませんでしたが一つの時代が終わったような気がしましたね~・・・
1970年代に全盛を誇った山口百恵さんが引退した1980年に新たなスター候補がデビューした
それが後に1980年代を代表するトップアイドルに成長する「松田聖子」さんだった
デビュー曲「裸足の季節」は資生堂の「エクボ洗顔フォーム」のCMにも使われ大ヒット
セカンドシングル「青い珊瑚礁」こそチャート2位が最高だが同年10月にリリースされた
サードシングル「風は秋色」から1988年の「旅立ちはフリージア」まで何と24曲連続で
シングルヒットチャート1位を記録
デビュー当時の「聖子ちゃんカット」と言われたハイレイヤーでサイドを流すパーマスタイルは
全国的に爆発的大人気になり当時の若い女性の8割は聖子ちゃんカットになった
聖子ちゃんカットにした全国の女性はブローに悪戦苦闘したでしょうな~ 笑!
泣いてるのに涙が出ない、男に媚びるという事から聖子ちゃんは「ぶりっ子」とも言われた
ま、郷ひろみさんとの破局、神田正輝さんとの結婚・離婚あたりから
聖子ちゃんのキャラが180度変わって面食らいましたがね 笑!
いや~ 今彼女のデビュー当時の写真↑を見るとフツ~の女性だが
当時彼女を初めて見た時は「超可愛い!」って思った
僕の中では最後にファンになったアイドルが松田聖子さんだった 笑!
1980年はロックンロールバンド「横浜銀蝿」がデビューするなど
「ツッパリ」的な物が大人気になった年でもあった
前年の「竹の子族」の登場もあり個人的には明らかに1970年代の不良とは
不良のニュアンスが変わってきた年でもあったと思う
そんな1980年に登場し人気を博したキャラクターに「なめ猫」があった
なめ猫は本物の猫にツッパリ学生や暴走族の衣装を着させたキャラクターだった
正式名称は「全日本暴猫連合 なめんなよ」でそのキャッチフレーズが
「なめんなよ」だったことから略され「なめ猫」となったらしい 笑!
ちなみに昨今、桐谷さんが出演するY!mobileのCMになめ猫が出てますな~
ま、聞く所によると昨今は猫ブームらしいですからな~
なめ猫と人気を二分したのが「ツッパリ君」というキャラクターだった
↑は当時僕も持っていたが「タバコ入れ」だったな~
もともとツッパリ君ってのはツッパリ君人形がルーツだったんだろうか?
ツッパリ君人形は部屋に飾る大きな物から学生カバンにぶら下げる小さな物までありましたな~
長~いスカート引きずったスケバンがチョンバックにツッパリ人形ぶら下げてましたね~
まあ、なめ猫もツッパリ君も懐かしいとは思いますが今見ると超ダサい 笑!
ま、これも時代性であり時代の産物だったという事でしょうね!
さて、1980年の洋画ですが実はこの年あたりから僕はそんなに映画を観に行った記憶がない
前回紹介したグローイング・アップのシリーズの
「グローイング・アップ 2 ゴーイング・ステディ」は観に行きましたがね~
そんな中で僕が押したいのは近未来に暴走族と戦いを繰り広げる
警官たちを描いた「マッド・マックス」ですかね~
僕は中学生の頃から銃に興味があったので44マグナムが出るマッド・マックスは
リアルタイムではないかも知れませんが観た記憶はあります
てか、この作品は1983年から週刊少年ジャンプに連載されて人気を博した
「北斗の拳」のイメージが強いんですがね~ 笑!
洋画を観た記憶がないんですから、もちろん邦画も観た記憶もない
僕は主だった時代劇映画は沢山観てますが、それらは殆どが大人になってからでしたからね~
だからカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した黒澤明監督の「影武者」を観たのも
ハッキリとは覚えていませんが大人になってからだったと思います
映画・影武者は武田信玄公の影武者として生きた一人の男の物語ですが
これと似たような内容の漫画を読んでた記憶もあるぞ
まあ、その漫画の主人公は徳川家康の影武者でしたがね
さて、最後に1980年の日本歌謡界ですが、この年はもんた&ブラザーズの「ダンシング・オールナイト」
久保田早紀さんの「異邦人」、長渕剛さんの「順子」、海援隊の「贈る言葉」
オフコースの「さよなら」、田原俊彦さんの「哀愁デイト」などがヒットしてますが
個人的には横浜銀蝿の「横須賀ベイビー」かシャネルズの「ランナウェイ」でしょうな~
確か僕が初めてシャネルズを見たのは「ベストテン」だったと思う
リーゼントに顔を黒く塗った4人のボーカルがドゥーワップを歌ってるのを見て衝撃を受けた
ランナウェイ自体はパイオニアのラジカセのCMで流れてたから知ってはいたんですがね~
翌年の1981年に当時呉にあった近畿大学工学部の学園祭にシャネルズが出演した
その時の前座が「Theアルフィー」だった事はよく覚えている
当時まだアルフィーは世には出ていなかったですからね
1980年2月に高校を退学になった僕は一応社会人という事になった
校則に縛られ大人から物事を強要される事が極端に嫌いだった僕は
学校を辞める事で晴れて自由の身になり働く事で金も稼げると安易に考えていた
工業高校で作業着を着てする汚れる授業に僕は嫌悪感さえ抱いていた
しかしいざ社会に出てみると高校中退の何の取り柄のないハンパなガキを
雇ってくれる所と言えば作業服に安全靴や地下足袋を履いて汚れながら汗水垂らして
肉体労働をするような会社とも言えないような末端の工務店みたいなとこしかなかった
しかもそういった工務店には僕のようなガキなんて到底歯向かえないような猛者がゴロゴロいる
学校の先生には何の躊躇もなく歯向かってた僕も
さすがに背中に龍や鯉が彫ってあるような人には歯向かえない 笑!
そんな感じだからどこに勤めても長続きせず同じ類の仲間と遊び回る日々が続いた
そんなある日、僕は美容室に就職するという先輩の面接が行われた喫茶店に同行した
僕は当事者ではないから離れた席に座ってインベーダーでもしてたんだと思うが
何の因果か僕にも美容室で働いてみないかと声を掛けられた
当時僕は無職だったし先輩にも誘われ何となく働いてみる事にした
その店は「バラの舘」という昭和チックな名前の店だったが実際に美容師見習をやってみると
先ずは作業服を着ない、汚れない、女が多い(笑)という事で性に合うと感じた
店長や先輩には可愛がってもらい気付けば当時の自分では最長の半年という時が経っていた
しかしある日社長に店の備品がなくなってる事を僕達4人の高校中退組のせいにされた
僕達は犯人は知っていたが告げ口はせず社長を威嚇して店を辞めた
そこからまた僕は転落が始まる
ヤクザな業界の人達と付き合うようになりその世界に片足を踏み入れてしまう
事務所にも出入りを始めたが実際にその世界を少しだけ垣間見た僕は危機感を感じ始める
「ここは自分に向いてる世界じゃない」と感じた僕は何とか抜け出す口実を模索する
そして思いついた事が手に職を付ける学校に行くという事だった
別に職種は何でもよかったのだが僕は前記した経験を思い出し美容学校に行くと決めた
その事をタイミングを見張らって話の分かる先輩に告げて僕は完全に足を洗った
そして翌年に無事美容学校に合格して僕は学生に戻ったのだ
今当時の事を振り返ってみるとギリギリの絶妙なタイミングだったと思う
でも後悔はしていない、てか、貴重な経験が出来たとも思っている
しかしそんな僕にも1980年のクリスマスに起きた事で今でも胸のつかえになってる事がある
僕が中学3年生の時に買ったエレキギターを弾く小学校の時からの大親友だったマクリン
1980年12月当時僕は彼の当時の愛車だったホンダホークⅡに二人乗りして
広島市南区のマツダの下請け工場に働きに行っていた
12月23日クリスマスイブの前夜、当日僕達は夜勤だったが僕は先輩に誘われて仕事を休んだ
彼はあまりバイクに乗るのが上手くなかったのでいつもは僕が運転していたのだが
マクリンはその日一人でホークⅡに乗り夜勤に行った
そして夜勤の帰りのクリスマスイブ未明、彼は小雨が降る中17年の生涯を終えた
焼山線の下りでコーナーを曲がりきれず車と正面衝突してアスファルトを血に染めた
目の前に迫ったガードレールを見た時奴は何を思ったのだろう・・・
もし、当日僕が仕事を休まなかったら・・・
クリスマスに行われた葬儀、降り続いていた雨は雪へと変わった
火葬場に向かうシャコタンのケンメリは雪道にホイールスピンを繰り返した
車内には奴との思い出の曲、永ちゃんの「時間よ止まれ」が流れていた
今年のクリスマスが来ればあれから36年の時が経つ・・・
と、そんな1980年でしたが次回は1981年(昭和56年)酉年やります
乞うご期待!ジャンジャン!!
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