1979年(昭和54年) ひつじ鈴
さて、毎週火曜日恒例の続・年賀切手シリーズですが今回はいよいよ刺激的だった
1970年代が終わりを告げる1979年(昭和54年)未年を振り返ってみたいと思います
1979年3月に呉市立長浜中学校を無事卒業した僕は受験を経て
翌月4月に広島県立呉工業高等学校計測工業科に入学します
高校生活は期待と不安が入り混じった中スタートしました
「ナメられたら最後、最初が肝心!」と田舎者の僕は心して入学式に挑みましたが
中学時代に知り合ってた他校の友人たちもいて順調に自分の立ち位置も確立できた
まあ入学式前の入学説明会の時にナメられまいとリーゼントの髪に真っ赤なメッシュを
入れていた事を計測科の先生に咎められ口論になりナメた口を利いた事で
僕はその先生に目の敵にされ最終的に翌年2月に退学に追いやられてしまうのだが・・・ 笑!
そんな短かった僕の高校生活の1979年はいったいどんな年だったのか?
と、いう事でここからの本文は1979年に大ヒットした
ジュディー・オングさんの「魅せられて」を聴きながらご覧ください!
魅せられて/ジュディー・オング 1979
1970年代中頃から始まった第1次ディスコブームは1978年に公開された映画
「サタデー・ナイト・フィーバー」の大ヒットによって最盛期を迎える事になる
70年代中頃のディスコミュージックはソウル系のファンキーな曲が多かったが
1978年にデビューしたアラベスクの登場でポップ系へと移行して行った
ヴィレッジ・ピープル、ジンギスカン、ボニーM・・・
沢山のアーティストが誕生したがこれらの音楽はキャンディーポップスと言われた
そんな1978年に東京原宿の竹下通りに一軒のブティックがオープンした
その店が「竹の子族」を生み出したブティック「竹の子」だった
1979年当時東京原宿は暴走族対策として交通規制が敷かれ日祝日が歩行者天国となっていた
歩行者天国は「ホコ天」と言われブティック竹の子のカラフルな衣装に身を包み
ラジカセで流行のディスコミュージックをかけて踊る首都圏の中高生で溢れ返った
竹の子族の衣装はそのチームごとに特色のある衣装をデザインし制作していた
これらは主に原色と大きな柄物の生地を多用したファッションでアラビアンナイトの
世界のような奇想天外なシルエットが注目を集め化粧についても男女問わず
多くの注目を引こうと鮮やかなメイクをしていた
竹の子族から清水宏次朗や沖田浩之などがスカウトされ芸能界デビューした
が、今僕もこの歳になって竹の子族を思い返すと超ダサいと思うぞ 笑!
ま、これも日本の若者集団の文化、ファッションとしても歴史に刻まれる物なんでしょうけどね 笑!
1979年に高校生になった僕達に当時大人気になった物にインベーダーゲームがあった
インベーダーゲームは1978年に株式会社タイトーが開発発売した
「敵が攻撃を仕掛けてくるゲーム」としては世界で初めて大ヒットしたシューティングゲームだった
いよいよコンピューター時代が庶民の生活に到来してきたという事だ
インベーダーゲームは社会現象となりゲームセンターが次々に開店し
喫茶店やスナックのテーブルの多くがインベーダーゲーム用のテーブルに変わった
いや~ インベーダーやりたさに学校でカツアゲして学校帰りや学校サボって
喫茶店に入り浸ってやりましたな~ 笑!
当時は喫茶店の全盛期だった事もあり呉でも数えきれないくらいの喫茶店が繁盛してた
インベーダーゲームは名古屋撃ちを覚えたら永遠に終わらなかったな~
終いには電子ライターでコイン投入口をカチカチやるとタダでプレー出来ると知った 笑!
現代ではコンピューターゲームが主流ですが
ブロック崩しとインベーダーはテレビゲームの元祖でしょうな~
1979年に登場した画期的な電化製品にソニーのウォークマンがあった
それまで小さなカセットプレーヤーは存在したが
ここまで遊びを徹底したステレオなんてなかった
ウォークマン開発時にはソニー社内から録音機能の無いテープレコーダーは
絶対に売れないと反発されたが、それを押し切り開発を続行
その結果「音」がいつでも、どこでも持ち歩ける時代になったという事だ
ウォークマン登場から37年経った現在ではスマホを始めアイポッドなど
ポータブルオーディオ機能が付いている機器は世に溢れてる
それらの元祖がウォークマンだったという事だ
1979年はファッション的に見ると色んな物が共存した時代だった
前記した竹の子族の竹の子ファッションや暴走族の特攻服などに見るファッションは特殊としても
アイビーファッションも復活しスポーツファッション、DCブランド、ヘビーデューティーにハマトラ
何でもアリの時代になったという事だろう
女性はキャリアウーマンという言葉が生まれたように男性と対等の立場で仕事をしていく女性が増えた
ファッションを指す言葉として「ナウい」「ダサい」という言葉が生まれたのも1979年だった
その他にも1979年に生まれた言葉として「シカト」「熟年」「ニャンニャン」などがあった
「シカト」とは無視したりする事だが花札の図柄で鹿がそっぽを向いているのが語源になっている
「熟年」は今では当たり前に使われる言葉だが一般的には50代から60代を指し
豊富な人生経験を持ち円熟してきた年齢という意味で出来た言葉だ
「ニャンニャン」は若い女の子がうれしいことを意味する一種の感動詞だったが
後に性行為の意味に変化した
1979年当時の若者男子に売れていた雑誌に「GORO」があった
GOROは毎月第2・第4木曜日発売の月2回刊であり女性グラビアや車の新車情報
女性の口説き方のノウハウ、漫画まで多彩な情報を詰め込んだ内容となっていた
特に人気があったコーナーは人気カメラマン篠山紀信氏の激写シリーズだった
当時の売れっ子アイドルや女性タレント、女優のヌードや水着を次々に発表した
個人的には山口百恵さんの水着写真が記憶に残ってますね
1979年に16歳になった僕は念願だったHONDA CB400FOURを手にいれたのですが
この年に新発売になったDOHC4気筒のKAWASAKI Z400FXは瞬く間に大人気になった
上のカタログは最初期の物ではないようですが、それまで流線型だったZは角型になった
しかし当然まだ中古は出回っていないから手に入れるには新車を買うしかなかった
↓次の西遊記のコーナーに出て来るゴダイゴファンのツレは
免許を取る前からFXを注文して春先には家に届いてた
僕が知る限りでは彼が呉の同級生で一番手に入れたのが早かったんじゃないかな~
当時阿賀にあったフセパーツというバイクの部品屋さんで彼はソッコーで集合管を買った
皆でマフラーを付け替えて音を聞いた時の感動は今でもよく覚えている
OHCの400FOURと違ってDOHCのFXはちょっと野太い音がした
その後1983年にウチの弟が中免を取って何を買おうかと相談され僕は迷わずFXを推薦した
当時僕は免許取り消し中だったが時々借りては乗っていた思い出深いバイクだ
1979年に人気を博したテレビドラマに「西遊記」があった
数年前にジャニーズタレントが主役を演じたようなチャチな作品ではなかった
三蔵法師に扮した故、夏目雅子さんは神々しい程美しかった
孫悟空を堺正章さん、沙悟浄を岸部シローさん、猪八戒を西田敏行さんが演じたが
なぜか途中から猪八戒が左とん平に代った
西遊記の主題歌や挿入歌を歌ったゴダイゴは一躍ブレークを果たした
特にEDテーマ曲の「ガンダーラ」は年間チャートベスト10入りも果たしている
高校時代のツレに前出↑の大のゴダイゴファンがいた
キャロルやクールスばかり聴いてた当時の僕は「ダッサ~」って思ってた
今でも彼とスタンドに飲みに行くと無理やりガンダーラを歌わせる 笑!
3年B組金八先生が開始されたのも1979年の事だった
3年B組の生徒たちが巻き起こす騒動を担任の坂本金八が共に悩みながら解決していく学園ドラマ
生徒役には杉田かおる、鶴見辰吾、小林聡美、三原じゅん子、田原俊彦、近藤真彦、野村義男など
後に第一線で活躍する役者・歌手を多く輩出したことでも知られる
このドラマは後にシリーズ化されるのだが毎回シリーズに当時の社会問題のテーマが設けられていた
校内暴力が社会問題になるのはもう2~3年後の事だったが
当時は不良生徒の素行不良問題という社会問題があった
まあどう見ても「たのきん」は不良には見えなかったが(笑)三原順子は当たり役だった
最後は中学生の妊娠・出産という事件が起きるのだが・・・ 笑!
さて、1979年の洋画と言えば「スーパーマン」や「ジョーズ2」「ロッキー2」と言った
シリーズ物が興行成績上位を収めているが個人的に言えばこの年は
イスラエル映画と言う事でB級映画とも言えるのだが「グローイング・アップ」を押したい
この映画はジョージ・ルーカスの代表作の一つ「アメリカン・グラフティー」に触発されて作られた映画で
オールディーズナンバーををふんだんに使った青春映画だった
ナイーブな主人公のベンジー、ナンパなボビー、デブでおっちょこちょいのヒューイ
そんな3人の親友たちが繰り広げる淡く切なくちょっとコメディーな青春ロマンスな作品だった
高校1年の夏休みに僕は仲間と3人で家出をしてグローイング・アップの3人のように青春を謳歌した
その頃の僕の役処はボビーだった、ちなみにヒューイがGANちゃんだった 笑!
グローイング・アップを押したいと言った僕ですが今回はどうしてももう一作品ご紹介したい
舞台は1960年代前半のニューヨークで人種差別により人種ごとにチームを組んだ
当時の高校生の若者の抗争を描いた1979年に公開された「ワンダラーズ」という作品だ
原作はリチャード・プライスの小説で主役のイタリア系のワンダラーズ、黒人のデル・ボマーズ
中国系のウォンズ、スキンヘッズのボルディーズなど人種ごとにチームを組んだ彼等が抗争を起こす
チームごとの揃いのファッション描写が話題になったりアイルランド系のダッキー・ボーイズの
凶暴さが問題になったりもした作品だった
物語はワンダラーズの若者たちを中心に喧嘩や友情、恋やパーティ、夢や希望が展開されていく
作品はベトナム戦争への徴兵やケネディー大統領暗殺と当時の世相を捉えている
主役のワンダラーズ、リッチーは恋に破れ やがて大人になり仲間はバラバラになっていく
そしてニューヨークを捨て西海岸サンフランシスコへ向かう仲間たちもいた
リッチーは言葉を投げ掛けられる
「離れ離れでもワンダラーズは永遠だ、口笛を吹けばいつでも駆けつける・・・」
と、いう事でお次は邦画だが1979年に公開された人気邦画はアニメの「銀河鉄道999」を筆頭に
「男はつらいよ」「トラック野郎」と言ったシリーズ物が興行成績を上げている
しかし以て僕的にはフーテンの寅さんや星桃次郎、やもめのジョナさんより
「団地妻」に興味を惹かれた! 爆!
1976年に中学生になった僕は当時の友人達と主に呉シネマに洋画を観に行くようになる
昭和の時代に呉に住んでいた方はよく御存じだと思うが当時の呉シネマは2階にあり
その1階は日活ロマンポルノという映画館だった
思春期を迎えた僕は日活ロマンポルノのポスターを見ては思いを馳せたが
さすがに中学生で日活ロマンポルノに入る勇気はなかった
ところが高校生にもなると何の抵抗もなく入れるようになるんですよね~ 笑!
しかも真昼間に堂々と学生服で入るのだがチケット売り場のオバちゃんも何も言わない
大らかな時代だったという事ですな~ 笑!
何度か当時付き合ってた女子とも制服で入りましたな~
女連れで中に入ると皆の視線を一斉に浴びるんですよね 笑!
客はまばらで冴えないオッサンばかりで館内はタバコの匂いに混じって酸い臭いが漂ってる
トイレはず~っと満室です、皆さん何やってたんでしょうかね~? 爆!
さて、1979年の日本歌謡界だが、そそそろピンクレディーブームも終焉が近いという事で
年間チャートを見てみても10位に「カメレオン・アーミー」が入っているだけだ
この年のヒット歌謡曲は前出のゴダイゴの「ガンダーラ」、西城秀樹さんの「ヤングマン」
フォーク系で言うとさだまさしさんの「関白宣言」、アリスの「チャンピオン」
演歌系が強く渥美二郎さんの「夢追い酒」、小林幸子さんの「おもいで酒」辺りがヒットしている
ん?チャートトップ10には入ってないがこの年は確かクリスタル・キングの「大都会」もヒットしたはず・・・
更には世良正則&ツイストの「燃えろいい女」やチューリップの「虹とスニーカーの頃」
甲斐バンドの「ヒーロー」も1979年だったと思うのだが・・・
それに何より今や日本の国民的バンドになった
サザンの「いとしのエリー」も1979年だったと記憶してる
そんな中で僕の1979年の一押しはジュディー・オングさんの「魅せられて」だ
当時広の交差点に僕の中学の時からの行き付けの洋服屋「ヤング」があった
そこにボブカットの綺麗な20歳過ぎくらいのオネエサンが働いていた
彼女から見たら僕なんてガキだったろうが僕は良い匂いのするオネエサンに憧れてた
いつも店に行ってはオネエサンといろんな話をしていろんな事を教えて貰った
そんな当時に店の有線でよく流れていたのがジュディー・オングの「魅せられて」だった
大人の女というオネエサンと「魅せられて」の歌詞がリンクしてたんですよね 笑!
僕にとって熱くも短かった1979年の高校時代ですが 現在52歳の僕にとって今の1年なんて
あっという間だし1年前と比べて何が変わったかと言われても答えに困る
しかし今思えば当時15~16歳の僕にとっての1979年は毎日が変化であり刺激的な事が沢山あった
高校生になると一気に行動範囲や仲間の輪が広がりそれに伴い行動も大胆になっていく
先輩と行動を共にする事で良い事?(笑)も悪い事も多くの事を学んだ
僕にとって高校時代はたったの1年だったが凄く密度の濃い凝縮された時間だったと思う
特に時代性という事で当時は「不良」という行為が流行りでカッコいいとされた時代でしたからね
更には僕が入学した当時の呉工業高校は僕の期待以上に(笑)ビーバップな学校だった
取りあえず当時の不良と言われた人達が経験する事は人殺しと覚醒剤以外の事は
全て経験したと言っても過言じゃないと思う 笑!
僕は当時の事を正当化したり美化したり自慢しようとする気はまったくない
当時青春だった僕は確かに楽しかったし現代と違って刺激的な事が多かったと思う事は確かだ
しかしそれらは時代性に伴う物が大きかったと思うし只単に時代の波に乗ったという事だったと思うのだ
「自由」と言う事を履き違えてた当時は沢山の人に心配や迷惑をかけたと思う
親を裏切り、先生に歯向かい、地域や周りの人に迷惑をかけまくった
しかし時が経てばそんな僕等も否が応でも大人にならなければならない
いつまでも社会や他人に迷惑を掛けながら自由気ままに生きる事は出来ないのだ
社会に順応するにはマイナスからのスタートだった「元不良」は苦労もしたと思う
てか、社会に順応出来ず未だに現役の不良をやってる馬鹿な奴もいる
逆に「元不良」のツッパリ精神で社会的に成功を収め抜きに出た奴もいくらでもいる
ま、僕がそんな当たり前の事に気付くのはまだまだ先の事だったんですけどね 笑!
呉工入学以来 数えきれないくらいの謹慎や停学を繰り返した僕は
ついに翌年1980年2月に退学処分になってしまう
最後まで僕をかばってくれた担任の先生の恩を裏切り最後の最後で
職員室で大暴れした僕には情状酌量の余地などなかった
退学届を母と提出に行った時僕は「これで晴れて自由の身じゃ!」と大勘違いをしていた
その辺りの事はカテゴリー「自分のルーツを辿ってみる」に詳しく記載してますから
ご興味のある方はそちらをご覧ください
と、いう事で今日はこれまで!次回はいよいよ1980年代に突入する「年賀切手シリーズ」
来週火曜日は1980年(昭和55年)申年やります、乞うご期待! ジャンジャン!!
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