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続・年賀切手シリーズ 1975 卯年

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1975年(昭和50年) 桂離宮の水仙の釘隠し
 
毎週火曜日のお約束「続・年賀切手シリーズ」ですが今日は1975年(昭和50年)
年賀切手と共に当時の世相を掘り下げ、僕の思い出を綴ってみたいと思います
 
個人的には最後の小学校時代になった昭和50年代の幕開けだった1975年
 
ブラウン管に映し出されるリーゼントに白い作業ツナギを着たロックバンド
ダウン・タウン・ブギ・ウギ・バンドが歌う「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」
「アンタ あの娘のなんなのさ?」ってセリフが僕達小学生にも大流行した
 
そうかと思えば週刊少年チャンピオンに連載され始めた
「がきデカ」のキメゼリフ「死刑!」ってのも大流行した
 
僕が小学校6年生だった1975年はいったいどんな年だったのか?
 
と、言う事ですがここからは1975年に大ヒットした岩崎宏美さんの
「ロマンス」を聴きながらお楽しみください!
 
 
 
 
ロマンス/岩崎宏美 1975
 
 
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1975年4月、セ・リーグのお荷物球団と長い間揶揄され続けていた我が広島カープ
前年までの紺色の帽子を脱ぎ捨て真っ赤な帽子を被って僕達の前に姿を現した
 
チームを指揮するのは球団初となる外国人監督のジョー・ルーツ
しかしルーツ監督は4月27日の阪神戦を最後に退団に至り
後任は守備コーチだった古場さんが就任する
 
この年のオールスターゲームで山本浩二・衣笠祥雄の赤ヘルが誇る主軸二人が
連続打席アベックホームランを打つなど大活躍して赤ヘル旋風を巻き起こす
 
赤ヘル旋風の余波は8月にリリースされた塩見大治郎さんが歌った
「それ行けカープ/勝て勝てカープ」という球団歌の大ヒットにも繋がった
 
この年に6年生だった僕は放送委員会に所属しており毎日昼の給食の時間に
このレコードや広島ローカルアナウンサー柏村武昭さんが歌った
「痛快赤ヘル音頭/赤ヘル数え歌」を繰り返しかけまくった
 
 
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1975年のセ・リーグのペナントレースは夏場まで巨人以外の5球団が
入れ替わり首位に立つという大混戦になった
 
そして運命の10月15日、我がカープは後楽園球場でのデーゲーム巨人戦に
勝つか引き分けると念願の初優勝を手に入れるという事になった
 
カープは先制した虎の子の1点を死守しながら試合は最終回に突入した
9回の表のカープの攻撃で助っ人外人のホプキンスが3ランを打って4-0
 
9回裏の巨人の攻撃も2アウト、マウンドにはアンダースローの守護神 金城投手が・・・
 
最後のバッターになった柴田のレフトフライをレフト水谷が捕球し初優勝が決まった
その瞬間を僕達は先生の配慮で学校の視聴覚室のテレビで観戦してた
 
優勝が決まった瞬間、僕達は大歓声を上げ喜びを爆発させた
カープ初優勝の立役者は地元広島出身の4番バッター山本浩二さんだったと思う
 
その後カープは昭和50年代に全盛期を迎える事になる・・・
 
と、言う事だが今年のカープは25年ぶりの優勝の可能性がある
何せ最近では「神ってる」という言葉が生まれるほどカープは神がかり的な試合を続けてますからな~
 
さてさて秋にはどうなってますかな~? 笑!
 
 
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歓喜のカープ初優勝の年にはこんな事があった
 
1960年代に人気番組だった「シャボン玉ホリデー」にレギュラー出演し
「恋のバカンス 」「ふりむかないで」「モスラの歌」など数々のヒット曲を飛ばし
国民的歌手だった双子の姉妹「ザ・ピーナッツ」が引退した
 
全盛期の引退にファンは驚いたが姉の伊藤エミさんが引退後すぐに
沢田研二さんとの結婚したため寿引退かと思われた
 
しかしザ・ピーナッツは3年前位から引退を考えていたそうで1975年当時には
花の中3トリオキャンディーズ、新御三家などが台頭していた事もあり
世代交代と見るのが無難なようだ
 
 
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引退があれば、この年はビックネームグループの解散と言う事が相次いだ年でもあった
 
何度も記事に取り上げているが1975・4・13、雨の日比谷野音でキャロルは燃えつきた
フィナーレの演出に仕掛けていた爆竹がステージの屋根部に取り付けてあった
「CAROL」の電飾文字に引火し、あっという間に火の手がステージに広がった
 
きらびやかに輝いてた「CAROL」の文字が終わりを告げるように炎に包まれ
3年弱の音楽活動に終止符を打ったキャロルのメンバーは真っ赤に燃える炎の中に姿を消した・・・
 
そして同年9月、キャロルラストライブで親衛隊を務めた舘ひろし率いるクールスがデビューした
 
ちなみにキャロル解散の前日の4月12日には昭和を代表するフォークグループの一つだった
「かぐや姫」が東京神田共立講堂で行われた解散コンサートを最後に解散した
 
解散後、南こうせつ、山田パンダさんはソロ活動を開始し
伊勢正三さんは呉出身大久保一久さんと「風」というユニットを組んだ
 
 
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と、言う事だが1975年の段階で小学校6年生の僕にとってはザ・ピーナッツの引退も
キャロルやかぐや姫の解散もよく知らない事だったしどうでもいいような事だ 笑!
 
それより↑のようなデコレーションされた自転車に興味があったし欲しかった
当時は放置自転車が世の中に溢れてる現代と違って自転車というのは高級品だった
 
仮面ライダーのサイクロン号や1975年に放送されてた特撮ドラマ
少年探偵団BD7の影響もあってかこんな派手な自転車が流行った
 
家がお金持ちの奴は↑のタイプの自転車を新車で買ってもらってた
僕はと言えば変速ギア付きではあるが中古の自転車しか買ってはもらえなかった
 
しかし僕はデコレーション自転車は買ってはもらえなかったが↓こんな物を買ってもらった
 
 
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1974年にホンダから発売されたローラースルーゴーゴーだが
僕は対象年齢を上げたローラースルーゴーゴーを買ってもらった
 
これも特撮ドラマ「少年探偵団BD7」で少年探偵団が乗ってた乗用玩具だった
 
てか、実際に僕達は小学校6年生の時にクラスの仲間と少年探偵団を結成してた
 
二手に分かれて山に入り鉛筆キャップを笛替わりにして連絡を取り合ったり
特訓と称して肥え壺の上を飛び越える練習もやった
失敗して肥え壺に落ちた奴もいた 笑!
 
ある日少年探偵団の仲間が集団で学校を休む事態が起きた
山に入ったメンバーが全員かぶれの木に触れて体中がかぶれたのだ
事情を知った親や担任の先生に少年団は解散に追いやられた 笑!
 
 
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1975年に流行った物にぽっくりサンダルがあった
 
当時はまだベルボトムと言われたラッパズボンが流行ってたので
ラッパズボンのGパンにぽっくりサンダルを合わせた
 
歩く時にバランスよく足を着地しないと足首が”ぽっくり”となった 笑!
 
当時僕は足が”ぽっくり”なるからぽっくりサンダルという名前かと思っていたが
どうやらぽっくりとは下駄の一種で厚底の下駄の名前から来てるらしい
 
ちなみに大人はやはり厚底のロンドンブーツが流行っていた
 
 
 
 
今ではタバコを吸う人には定番の100円ライターが発売になったのも1975年だった
 
最初は↑のチルチルミチルってライターが発売された
 
今の時代の貨幣価値で言えば100円って言っても大した事ないが当時はセブンスター
150円の時代だからチルチルミチルがそんなに安いって話でもなかったのだ
 
だから学生はタバコを吸う時は喫茶店のマッチというのが定番だった
 
ちなみに僕がチルチルミチルのお世話になるのは、これから2年後の事だった
そう考えたら僕は中学生の時から随分多くの税金を納めてきたな~ 笑!
 
 
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1975年の漫画で今でも思い入れがある作品に当時週刊少年チャンピオンで連載され始めた
山上たつひこ先生の「がきデカ」がある
 
主人公である日本初の少年警察官と 自称するこまわり君と彼が通う「逆向(さかむけ)小学校」の
同級生やその周辺の キャラクター達で展開されるギャグ漫画作品だ
 
小学生が読む漫画にしてはエロい漫画だった事も人気の一つだった
 
「死刑!」「んが、」「んぺっと」「八丈島のキョン」「アフリカ象がすきっ!」・・・
 
意味不明のギャグだが当時小学生に絶大な人気を誇った 笑!
 
 
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生まれて唯一ハマった少女漫画「キャンディ・キャンディ」も1975年に始まった作品だった
 
当時「なかよし」って少女漫画に連載されてたがクラスメイトのリエちゃんにいつも借りてた
てか、途中まで単行本も買ってたな~ 笑!
 
数年前に倉敷市の美観地区にある「いがらしゆみこ記念館」に訪れた時
僕は初めてキャンディ・キャンディを描いた「いがらしゆみこ」さんの顔写真を見た
 
いや~ 見なければよかったって思いましたぞ 笑!
 
翌年に始まったアニメも当初は見てましたが中学に上がった僕は興味が他へと移っていった
だからキャンディがロンドンに渡ってテリュースとどうなったのか?
どんなエンディングだったのかは未だに知りません 笑!
 
 
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今でも語り継がれるカルピス漫画劇場で放送された「フランダースの犬」も1975年の作品だ
 
ベルギーの一地方フランダースで祖父と二人暮らしで絵を描くのが好きな少年ネロは
ある日、虐げられて瀕死状態の老犬パトラッシュに出会う
 
ネロの懸命な看病で元気になったパトラッシュは彼と深い心の絆を結ぶ
だが祖父の死、仕事の喪失、犯罪の容疑など、現実はあくまでネロに過酷だった・・・
 
最終回の放送でネロとパトラッシュが教会で死ぬ?シーンは有名ですよね
 
「♪・・・・・・わすれ~ないよ~ この道をパトラッシュと歩いた~ 空に続く道を~!」
 
 
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「♪ぼうや~ よい子だネンネしな~ 今も昔もかわりなく~・・・」
 
って主題歌が有名な「まんが日本昔ばなし」が始まったのも1975年だった
 
この作品、約20年にわたって好評を博し厚生省児童福祉文化賞や文化庁優秀映画作品賞など
数々の受賞歴を誇るそうだ
 
 
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足利義満将軍の奮戦で南北朝の戦が平定された時代
天皇の御子・千菊丸は、その母・伊予の局のさらに父が将軍と敵対したことにより
身分を剥奪され安国寺の小坊主へと放逐される
 
小坊主の一休と名乗ることになった千菊丸は別の寺に蟄居する伊予の局との面会も許されぬ身だが
持ち前の聡明さと明るさで、身分を問わず多くの人々をその大きな器量の虜にしていく・・・
 
「一休さん」も懐かしいね~!
一休さんが知恵を絞る時のポーズ↑もよく真似た物だ
 
OPの曲も懐かしいが個人的にはEDの曲の方が思い入れが深い
「♪ははうえさま お元気ですか~ ゆうべ杉のこずえに あかるく光るほしひとつ みつけまし~た~・・・」
 
いやいや、こりゃ母に電話して声聞かないと・・・ 笑!
 
 
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さて、映画界に目をやると邦画では人気絶頂だった山口百恵さんが主演した
川端康成原作の「伊豆の踊子」が思い出深い
 
その後結婚される三浦友和さんが相手役でしたしね
 
1975年には前年に始まった「赤い迷路」、同年に始まった「赤い疑惑」
山口百恵さんの赤いシリーズドラマは絶大な人気があった
 
てか、昨今流行の韓流ドラマって赤いシリーズに似てるとか・・・? 笑!
 
 
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洋画では「エマニエル夫人」を押したい! 笑!
 
外交官の夫からバンコクに招かれた若妻エマニエルがその開放的な異国情緒にほだされて
性の真理を探ろうとする様子を描き本国フランスはもとより日本でも大ヒットを記録したソフトコア・ポルノ
 
まあさすがに当時小学生だった僕には映画館にエマニエル夫人を観に行く勇気はなかったが
翌年に公開された「さよならエマニエル夫人」は呉シネマに観に行きましたぞ!
 
「さよなら・・・」は中学1年の時でしたが1年経てば人は成長するという事ですな 笑!
 
 
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さて、日本歌謡界に目をやると1975年には思い入れのあるヒット曲が目白押しです
 
冒頭に紹介したダウン・タウン・ブギウギ・バンド「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」
ジュリー「時の過ぎゆくままに」、ムッシュ「我がよき友よ」、風「22歳の別れ」
 
野口五郎さんの「私鉄沿線」、布施明さんの「シクラメンのかほり」、変わり種で
さくらと一郎「昭和枯れススキ」・・・
 
しかし個人的には岩崎宏美さんの「ロマンス」を押したい
 
当時僕は桜田淳子さんと岩崎宏美さんのファンでしたからね~
小学校の卒業文集にはそう書いてあります 笑!
 
 
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と、いろいろあった1975年(昭和50年)でしたが
この年に小学校6年生だった僕達にとってこの年の一番の思い出は
やはりカープ悲願の初優勝でしたね
 
上の写真↑はたぶん6年生の時の遠足で秋の宮島「厳島神社」に行った時の物だと思いますが
ご覧になってお分かり頂けると思いますが男の子は殆どカープの赤い帽子を被ってる
白いカープの帽子はキャンプ時に使用する帽子だと思います
 
この後カープは昭和50年代に全盛期を迎えます
昭和50年の初優勝から昭和61年の間に5回のセ・リーグ優勝を飾り
昭和54年の日本シリーズでは今でも球史に残る「江夏の21球」で近鉄を破り日本一に輝いた
 
と、いう事で個人的には昭和50年の終わりは長かった僕の小学校生活の終わりにもなりました
いよいよ昭和51年になると僕も中学生になり思春期になった僕は急激に変化を遂げて行きます
 
1976年(昭和51年)辰年はどんな年だったのか?
それは来週のお楽しみ!乞うご期待! ジャンジャン!!
 

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