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続・年賀切手シリーズ 1974年 寅年

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1974年(昭和49年) 梅竹透釣灯ろう
 
 
さて、毎週火曜日のお約束、シリーズ「年賀切手シリーズ」ですが
今日は1974年(昭和49年)寅年をお届けしようと思います
 
いよいよ昭和40年代が終わりを告げる1974年はいったいどんな年だったのか?
 
この年僕は小学校の高学年になる5年生になった年でしたが
さっそく1年を振り返ってみたいと思います
 
本文は1974年(昭和49年)に大ヒットしたフィンガー5
「恋のダイヤル6700」を聴きながらご覧ください!
 
 
 
 
恋のダイヤル6700/フィンガー5 1974
 
 
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1974年はスポーツ界に大きなニュースがいくつかありました
 
ガッツ石松がボクシング世界チャンピオンに、北の湖が史上最年少(21歳2か月)で
第55代横綱昇進と言う快挙を成し遂げました
 
が、何と言ってもやはり1974年の日本スポーツ界の一番の大ニュースは
長い間、巨人軍、いや、日本プロ野球界の人気を牽引してきたミスタープロ野球
長嶋茂雄さんの引退でしょうな~
 
当時セ・リーグのお荷物球団と揶揄されていた我が広島カープは
V9を達成するなど数々の快挙を成し遂げて来たジャイアンツには散々辛酸を舐めさされていた
 
ジャイアンツ戦のテレビ放送が終わってラジオに切り替えて試合の経過を聞いてたら
ここぞという場面で長嶋・王のONコンビニしてやられた
 
カープファンは往々にしてアンチ巨人ファンなんです
 
しかし僕は天敵巨人軍長嶋茂雄の引退は決して嬉しいとは思わなかった
強い巨人を弱いカープが倒す事が快感だったんですよね
 
1974年10月14日後楽園球場、カクテル光線に照らされたミスターG 栄光の背番号「3」
「我が巨人軍は永久に不滅です!」
という名言を残し静かにバットを置いたのでした・・・
 
 
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1974年は超能力者と言われたユリ・ゲラーの出現で超能力ブームが巻き起こった年でした
ユリ・ゲラーはイスラエル生まれのハンガリーユダヤ人の奇術師だ
 
いきなり当時の人気番組だった「11PM」「木曜スペシャル」に登場し
スプーン曲げやテレビの画面を通じて念力を送ることで止まっていた時計を動かすといった
パフォーマンスで日本での超能力ブームの火付け役となった
 
誰もが当時スプーン曲げに挑戦したんじゃなかろうか? 笑!
確か当時、誰でも曲げられるダミーのスプーンのオモチャも出回ったぞ 笑!
 
ブームが去った後は詐欺師とも言われ裁判沙汰にもなったんじゃなかったっけ・・・?
まあ詐欺師と言われても超能力なんて信じる方が可笑しいんですけどね~ 笑!
 
そんな事言ってたら現代においても前世が見えると言い張る天草四郎の生まれ変わりの
黄色い髪のオジサン?オバサン?の方が個人的にはよっぽど怪しいと思うけどな~ 爆!
 
 
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ブームと言う事で言えば1974年はいろんなブームが起きた年だった
 
宝塚の月組が演じたベルサイユのばらに端を発した「ベルばら」ブームも1974年の事だった
 
いや~ 僕は男の子だから原作の漫画も宝塚の舞台も興味もなかったし見た事もないけど
オスカルとアンドレの禁断の恋の物語って事くらいは認識してました
 
てか、手塚治虫先生の「リボンの騎士」はこれらの宝塚劇団がヒントになって
出来た作品だったって事くらいは知ってましたがね
 
1974年に最初期のベルばらを演じた方達も立派なお婆さんになってるんでしょうな~ 笑!
 
 
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女の子の人気を得たという点においてはタータンチェックに身を包んだイギリス・スコットランド出身の
ロックバンド「ベイ・シティー・ローラーズ」が流行ったのも1974年だった
 
レスリー・マッコーエン(リードボーカル)、エリック・フォークナー(リード・ギター)
スチュアート・ウッディ・ウッド(サイド・ギター後にベース)、アラン・ロングミュアー(ベース)
デレク・ロングミュアー(ドラム)という5人編成になってから「バイ・バイ・ベイビー」「サタデー・ナイト」などの
ヒット曲を生み出し本国イギリスを皮切りにアメリカや日本など世界中で人気を博した
 
まあ僕はそれほど興味があった訳でもなかったがクラスの女の子も
キャーキャー言ってたからある程度の事は知っていた
 
てか、個人的にはピンクレディーのファーストアルバムのB面がベイ・シティー・ローラーズの
カヴァー曲で埋め尽くされていた事の方が思い出深い 笑!
 
 
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更に女の子の間で超人気になったのが東京都葛飾区の人形メーカー・株式 会社セキグチによって
製造・販売されている猿に似た妖精の生き物をイメージした人形の「モンチッチ」だった
 
キャラクター人形の大ヒットは1960年代に大人気だった「ダッコちゃん人形」以来じゃなかろうか?
 
もちろん僕はまったく興味もなかったが家にモンチッチがあった事は覚えている
たぶん妹が買ってもらった人形だったんじゃないかと思う 笑!
 
 
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女の子がモンチッチなら男の子の間で大人気になったのが
テレビアニメで人気があったマジンガーZ超合金だった
 
マジンガーZの超合金が販売になったのも1974年の事だった
この後グレートマジンガーの超合金も販売になった
 
写真↑の超合金は当時物らしいが腕が片方取れている
ロケットパンチを打って紛失したんだろうか? 笑!
 
ちなみに僕は先日記事にした5月いっぱいで店仕舞いした
呉の老舗玩具屋さんの「みどり屋」さんで当時買ってもらった
 
 
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その他に1974年に流行?(笑)した事にストリーキングという行為があった
ストリーキングとは口語で「全力疾走する」の意味の動詞streakの動名詞形がstreakingです
 
1974年に流行ったストリーキングと言うのはパフォーマンスで
人が公共の場で素っ裸で走る行為の事をそう呼んだ
 
しかし僕は未だ以て、なぜ当時ストリーキングが流行ったのかはよく分からない
何かに反対・反抗するデモ行為だったのか?
それともタダの愉快犯だったのか・・・?
 
 
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さて、1974年に放送が始まったアニメにカルピス漫画劇場シリーズで放送された
高畑勲・小田部羊一ら本邦アニメ界の巨匠が集結した名作アニメ「アルプスの少女ハイジ」があった
 
昨今、家庭教師のトライのCMでパロディーっぽく使われていますよね 笑!
 
両親のいない少女ハイジは親戚をたらい回しされた末
アルプスで牧畜を営む偏屈な祖父に預けられる
 
やがて祖父と絆を強め合うハイジだが彼女は財産家の娘
クララの遊び相手としてフランクフルトに連れていかれた
年上で足の悪いクララとハイジは次第に強い友情を結んでいくが…
 
この後もカルピス漫画劇場は次々と話題作が放映された
 
 
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漫画家・園山俊二の「はじめ人間ゴン」と「ギャートルズ」を原作とする原始時代コメディの
「はじめ人間ギャートルズ」も思い出深いテレビアニメだった
 
まだ文明の影もなく水平線がどこまでも続くギャートルズ平原
そこに原始人=はじめ人間が暮らしていた
その中の一家族の少年ゴンは類人猿のドテチンが友だち
 
お酒好きで怒るとこわいが男らしくて優しい父ちゃんから狩りを学び立派なはじめ人間に成長していく
カタキバオレマンモスやヒネモグラたちも、この時代の愉快な仲間だ・・・
 
個人的には「はじめ人間ギャートルズ」のかまやつひろしさんが歌った
EDテーマの「やつらの足音のバラード」は今聴いても名曲だと思う
 
「♪なんにもない なんにもない まったくなんにもない うまれた うまれた なにがうまれた・・・」
 
今でもこの曲を聴くと胸がキュンとしますね・・・
 
 
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松本零士さんが描いた壮大なSF設定とロマン溢れる物語
 
精緻なメカ戦などの魅力から第一次アニメブームの旗手となった本邦アニメ界の金字塔
「宇宙戦艦ヤマト」が始まったのも1974年の事だった
 
西暦2199年、謎の異星人ガミラスの発射する遊星爆弾によって壊滅寸前となる地球
だが14万8千光年彼方のイスカンダル星の女王スターシャは地球に救済の手を差し伸べる
 
異星の超技術で建造された宇宙戦艦ヤマトで浄化装置コスモクリーナーを取りに向かう人類
だがその行く手をガミラス軍が阻む・・・
 
僕は劇場版も「さらば宇宙戦艦ヤマト」共観に行ったしサントラ盤も映画パンフレットも未だに持っている
数年前にキムタク主演の実写化されたヤマトも観に行った
 
「さらば・・・」の劇場版は僕が中3の1978年だったと記憶している
当時の不良仲間に観に行くという事が恥ずかしくて言えずこっそり一人で観に行って涙した! 爆!
 
 
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さて、映画界で1974年と言えば個人的にはカンフー・アクションにスパイ・サスペンスを融合させ
復讐、裏切り、陰謀といった要素を間断なく展開させた故ブルース・リーの最高傑作アクション
「燃えよドラゴン」を押したい
 
この作品で僕は少林寺拳法という格闘技の事も知ったしドラゴンが使うヌンチャクに憧れた
 
祭りの太鼓のバチに鎖を取り付けてヌンチャクを自作した
カッコつけて自作ヌンチャクを振り回していて何度自分の頭を叩いたか・・・ 
 
当時男の子は誰でも一度は「アチョ~」って真似たと思う 笑!
 
 
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日本歌謡界に目をやると1974年のヒット曲も個人的には思い入れのある曲や
思い出深い曲が目白押しだ
 
小坂明子さんの「あなた」中村雅俊さんの「ふれあい」を聴くと今でも涙腺が緩みそうだ 笑!
西城秀樹さんの「激しい恋」も思い出深い
 
当時は演歌全盛期と言う事で演歌界にもヒット曲が目白押しだった
殿さまキングス「なみだの操」を筆頭に中条きよしさんの「うそ」、渡哲也さんの「くちなしの花」・・・
 
そんな中で僕が押したいのはフィンガー5の最大のヒット曲になった「恋のダイヤル6700」
僕が初めて自分で買ったレコードがフィンガー5の「個人授業」だったという事もあり
当時僕はフィンガー5には並々ならぬ思い入れがあった
 
フィンガー5は皆さんもよく御存じのようにマイケル・ジャクソンが所属していた
アメリカのジャクソン兄弟で結成されたジャクソン5のパクリみたいなもんだ
 
実際にフィンガー5のファーストアルバムのB面は全てジャクソン5の和訳カヴァーだった
フィンガー5のボーカルのアキラのトンボメガネは大流行しましたね!
 
 
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1974年に小学校5年生になった僕は入部した長浜スポーツ少年団(現・長浜ジュニア)
主にバレーボールをやりながらもソフトボールやその他の競技にも精を出していました
 
↑の写真の僕が着ているのが当時のスポーツ少年団のユニフォームですが
背番号は6年生になった時にもらえるという決まりで6年生になった時の僕の背番号は「6」だった
 
スポーツ少年団の卒団合宿で大久野島に行った6年生の時の事は今でもよく覚えてる
 
僕は当日風邪をひいて熱があったのに無理して行ったんですよね
最後の最後だったし仲間と外泊するなんてめったに出来る事じゃなかったですからね
 
合宿当日僕は皆と一緒に泳いで夜に熱が40℃も出た
慌てた監督は救急艇を手配して本土の病院に連れて行ってくれた
 
その監督が数年前に閉業した長浜の「胡子湯」多賀谷のオジサンだった
 
僕はスポーツ少年団に入ってた仲間に連絡して胡子湯の最終日に風呂に皆で入りに行った
監督さんは凄く喜んでくれて「あの頃はえかったの~」って遠い目をされた
 
今思えばあの頃は長浜というド田舎の地域の皆さんに本当に世話になってたと思うし
大人の皆さんに見守ってもらっていたんだとつくづく思う・・・本当に感謝してますね!
 
と、言う事ですが今日はこれまで!次回は1975年(昭和50年)卯年やります
乞うご期待! ジャンジャン!!

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