ハイ・ライフ アラベスク 1980
日本の洋楽史上最も売れたヨーロッパ系ダンス・アーティスト「アラベスク」
そんな彼女達のアルバムと共に当時の世相や僕の思い出を
語ってみようという試みのシリーズ「アラベスクな時代」
第3回目の今回は1980年5月にリリースされたアラベスクのサードアルバム
「ハイ・ライフ」と共に当時の世相や僕の思い出を綴ってみようと思う
サードアルバム「ハイ・ライフ」に先駆けて1980年2月にリリースされた6枚目のシングル「ハイ・ライフ」
B面の「ローラー・スター」と共に大ヒットを飛ばしオリコンチャート34位、27万枚の売り上げを記録した
1970年代が終わりを告げ1980年代に突入したあの頃・・・
日本の歌謡界ではドラマ「3年B組金八先生」に出演し人気を博した
たのきんトリオがデビューを飾り、松田聖子も「裸足の季節」でデビューした
彼らに続き時代を牽引するアイドルたちがキラ星の如く次々と現われた
4人のボーカルが顔を黒塗りにしてドゥーアップを歌うシャネルズも「ランナウエィ」でデビュー
後にアニキキャラに転身する長淵剛はロン毛で「順子」を歌い
個人的に大好きだった竹内まりやさんの「不思議なピーチパイ」も大ヒットを記録した
しかしそれらに反し70年代の歌謡界を代表するトップアイドルだった山口百恵さんが
そっとマイクを置き芸能界を引退したのもこの頃だった
海外アーティストに目をやればアラベスクの2番煎じ的イメージの強かった
ノーランズがデビューしデビュー曲「ダンシング・シスター」が大ヒットした
こうして1980年代は幕を開けた・・・
僕はと言えばアラベスクがシングル「ハイ・ライフ」をリリースした1980年2月に
呉工業高校を退学になり、一応16歳にして社会人デビューを果たしたという事になる
退学届を提出した次の日から僕は地元長浜の先輩の誘いで積水ハウスの
建売物件を建てる仕事に見習い・手伝いとして行くようになる
前日学校に退学届を提出に行った時に最後に袖を通した短ランにヨコスカ(ボンタン)は
タンスの肥やしになりその後二度と袖を通す事はなかった
社会人初日・・・
作業服にドカジャンを羽織り地下足袋を履く僕の姿を見て弁当を手渡す母が玄関先で
「情けない・・・・」
って涙を流した姿は35年経った今でもハッキリ脳裏に焼き付いている
今思えばあの時母は45歳だったという事だ
今、僕も子の親になって初めてあの時の母の気持ちが痛いほどわかる
8年前、大学に進学し、大学野球春のリーグ戦を終えた長男が野球を辞めると報告してきた
大学入学後すぐレギュラーになり試合で結果も出していたのに、なぜ・・・
長男を説得するために彼が住んでいたアパートに向かう道すがらの車の中で僕は一人
小学生の時から親子で頑張ってきた思い出の映像が頭の中を駆け巡り
これで終わるのかと思ったら涙が溢れ止まらなかった・・・
結論的に言うと彼は新しい目標・夢ができ、野球と夢の両立ができないという事だった
思い返せば、この時の彼が初めて僕に反論し自我を通した出来事だったように思う
広陵高校時代に寮生活をしていた事もあり反抗期がなかった彼だったが
この時彼は親離れをして大人の階段に足を踏み入れたのかも知れない
てか、僕の「それ」と同列に語るには事の内容のレベルが違い過ぎるのだが・・・ 笑!
アラベスク サード ハイ・ライフ 1980・5
Side A
1、ハイ・ライフ 2、ジングル・ジャングル・ジョー 3、ローラー・スター
4、さよなら マイ・ラブ 5、哀愁のマリゴット
Side B
1、恋のペント・ハウス 2、愛はゆれて 3、ヘイ・キャッチ・オン
4、傷つけないで 5、ちょっぴり淋しさ
恋のペント・ハウス アラベスク 1980
僕が思うにアラベスクの全盛期って言ったら、この「ハイ・ライフ」の前後頃だと思う
実際に当時のデータを調べてみるとオリコンのセールス比較のデータだが
彼女たちがデビューした78年のアラベスクの売上は、2億4千万円余りだったが
翌79年は5億3千万円、80年は、11億4千万円、そして、81年には38億6千万円となり
なんと売上高ランクで、日本のアーティスト5人に続いて堂々6位に付けていたのである
81年度のアーティストランクの1位は一大ブームになった寺尾聡
それに続いて松山千春、松田聖子、横浜銀蠅、そして、オフコースで
それに続いてアラベスクがランク・インした
さらに、7位にノーランズ、そして、シャネルズ、田原俊彦と続く
そうそうたる面々と肩を並べていたのだからその売れ方のすごさがおわかりいただけると思う
この頃のアラベスクは文字通り向かうところ敵なしであったのだ
個人的にアラベスク サードの「ハイ・ライフ」を聴くと高校を中退してから多くの時間を共有した
一つ上の先輩達を始め年上の人達と過ごした時間が思い出される
僕は高校を辞めてからという物なぜか同級生とあまり遊ばなくなり
年上の人とばかり遊ぶようになっていた
もちろん高校時代も一つ上の先輩が借りていたアパートにも頻繁に出入りしていたし
そこに集まる諸先輩達に本当に可愛がってもらった
長浜の片田舎から単身出て来た、どこの馬の骨かもわからない僕に本当に皆さんはよくしてくれた
僕はその恩を今でも忘れていない
だから僕は一つ上の先輩達の同窓会的な集まりの幹事の労も請け負っているんです
「ありがとの~!年下のオマエが幹事してくれるけん、こんな楽しい時間がもてる、感謝しとるで!」
ひと歳取った諸先輩達はこう言って僕に幹事の労を労ってくれますが
「いえいえ、当時僕は本当に皆さんに可愛がってもらった、今が恩返しですよ!」
本当に心からそう思ってるんですよね
その中で特に感謝しなければならないのが二つ上の先輩だったK君
彼の愛車は4ドアの日産ローレルSGLだったが、僕は彼がローレルを購入する時にも同行した
当時広にあった坂本自動車という中古車屋さんでローンを組んで購入したんですよね
彼とは一緒に五日市の道路工事現場で働き土木現場のタコ部屋で寝食を共にもした
家にもよく泊めてもらったし、飯もよく食べさせてもらったし、よく飲みにも連れて行ってもらった
あの頃先輩のローレルの助手席は僕の為にあるような感じだった
当時呉にあったマリファナ会という暴走族で岩国の山賊まで暴走した時も
僕はK君のローレルの助手席に乗っていた
その頃ローレルの車内によく流れていたのがアラベスクの「ハイ・ライフ」だった
僕が16歳で初めて車の運転をさせてもらったのもK君のローレルだった
だから僕は17歳の時無免許で彼と同じローレルのセダンの購入に至ったんですよ
K君は外見的にはそんなにツッパリって感じでもなかったし本当に優しい先輩だった
そんなK君に僕は甘えっぱなしだった
しかし僕が美容学校に入学して路線が変わるとK君とはだんだん疎遠になって行った
その後数年経った頃K君が行方不明になってるって風の噂で耳にした
それから数年後、K君のローレルが呉湾から引き揚げられたと連絡があった
葬儀に参列した僕の胸中は「無念」の思いでいっぱいだった
その時僕はまだ独身だったので確か22~23歳だったと思う
事の真相は未だに僕にはよく分からないが僕はK君に恩返しが出来なかった・・・
とにかく今までの僕の人生で一番めげて(壊れて)いた時代が基本無職だった
高校を退学になった1980年2月から美容学校に入学する翌年1981年の春の約1年だった
もちろんその前後も決して褒められた時代ではありませんでしたが
その時代以前はまだ中学、高校と一応学生だったし、その後も美容学生だし
1982年にはミヤニシに就職して6年後には独立して現在に至ってるわけですからね~
1980年にはいろんな職業を転々としましたが、どれもひと月も続かなかった
その間の5月~10月までバラの舘って美容室に半年勤めたのが奇跡です
最終的には危ない世界にまで片足を突っ込みましたしね~ 笑!
しかし今振り返ってみると1980年は僕にとって一番刺激的な年だったとも思えるし
実際に楽しかったし、あの時代を経験したから今があるとも思える
そんな時代を象徴するのが個人的にアラベスクのハイ・ライフの時代だったという事です
と、言う事で最後に個人的にあの時代の終わりを強烈に感じる曲をお届けして
今日は終わりにしたいと思います! ジャンジャン!!
哀愁のマリゴット アラベスク 1980